まあ、1,2は現代の批評家の主体性の希薄さを皮肉ってるのかもしれないが。
彼等、現代の批評家の「良」は「可」程度と見なすのが実際的だろう。
つまり、新人賞の選考会で、自分以外の中の多数派の意見に敢えて反対を唱えるまでもないだろう、という作品が「良」ではないか?
ノエル・キャロルという評論家が、芸術作品は基準によって評価をすることが可能か?という論争を延々やっているよ
アメリカ美学学会の会長だった人
基準をもって批評することそのものの正当性を問い直す健全な知性
丁寧に対立する意見を整理しながら議論をしているから、大前提として
「批評における基準はありうるのか?」という疑問を深めたいなら読んでみるのもいいのでは
新批評から読者受容理論・脱構築読解・新歴史主義批評、基準を持たない批評・・・
きちんと蓄積していく
芸術を印象で語っても深く目で読んでも、それは自分の存在自我自体の知覚の働きという
整合性のないものであり、芸術を鑑賞するということは、一人一人違った体験で
似ているものはないだろう。基準を導入しても万物の尺度は人間だからと
色々な他人の批評が混じるだろうね。
他人の目によって見られる意図で造られたものを、他人の力を借りて鑑賞する
という不思議なつながりがあると思う。
芸術は人間や動物はたまた〜を評価する媒介であるものになっている面があるから
芸術自身も評価するんだよ。
よきひとのよしとよくみよよしといひしよしのよくみよよきひとよきみ
から考えてみて。言語体詩やら韻が載っててオヤジギャグのようでよい説明になっている。
美術は履修してたけど、ロダンとカミーユの彫刻の重さに引け目を感じて
美学はあまり知らないわけじゃないけど最近かかわりないな。
純文学というと、意味が解らない人がもはや多数だろうが、純度のたかい、
純粋な文学ということに似ているかな?
基準のはなしに戻るけど、基準という言葉を立てても芸術の前には
言葉すら寸時にかき消されそうですね。
よく言う抽象画などは、確かに評価がしづらいもの
のようにも見える。そのたぐいの意味で。
ノエル・キャロルの編集したTheories of art todayの中の彼の書いた
introduction導入部と、Robert Steckerの「Is it reasonable to attempt to
define art?」を読んだが(読ませてくれない部分も一杯あったが)
、アートの定義について、出来ないと諦めるのも、決まった
定義があると思うのも間違いで、諦めずにアートとは何か、より明確な答えを探して
行こうではないか、という立場だろ。
まあ、そうでなければアートは死んでしまうし、批評家という仕事は成り立たない訳
だ。
抽象彫刻のブラン・クーシにとってもコントラ・ポストは非常に重要な美術概念だが、
それさえ、殆ど世界に共通の認識はない。或いは「コウロ」とは何かも良く理解されて
ない。
美術用語の全体があやふやにしか把握されてない現状で、つまり、「正しい鑑賞」
なんてものが成り立たない現状で「良い」とか言えるのかどうか。
大体、ノエル・キャロルとかは美学者であって、美術評論家じゃなくて、実際に作品を
評価する人ではない。美術館に余り行きそうもない人だw
批評家なんてたいそうなものはいらないよ。バージンや童貞の前に
美術を覗く好事家なんてね。しかしなんかにはいるんだろうね。
正しいということと芸術の仕組みは違っていて、倫理を説くわけでも
性質の良さだけを問うわけでもない。
芸術は悪魔への安全弁として働くこともある。
人と関わるときに、現実逃避してでもしておきたい何かがあるから人類をはじめ、は芸術を
愛してきたんだろう。
芸術の空間に創造するものや宿すものはまだまだ互いを知らず不格好だけど、
それを必死でするなら女神たちも微笑むだろう。
基準というと基幹や基本的な芸術論みたいになってしまうだろうね。
準ずるということは同じ尺度で物を見てしまうという人間の評価の限界
を露呈してしまう。恣意的に芸術を製作したり関わったりすることは、
僕は大事なことじゃないかなあと考える。刺激がない、自他にということは
自分のつながっている他者の世界に成長分がないということだからね。
わからないからわかるとこまでいった、じゃ解釈癖に陥っているようだね。
うまくビジョンをずらしたり、感受性を捻じ曲げてみたり、芸術を楽しむ方法は
ごまんとあるよ。
よさ がわかるということは こてんのせかいにはじまる。にくつかしい感情や、
成長や成熟を持った感情で、いろんな言葉でいいかえられ、何度も言葉や感情に上ってくるものだ。
よさ もうそんなことばはのこっていないけど。よさには郷愁が成立しないものだとしてもそれだからただようのだろう。古典が純文学なのであって、賞金目当ての
若い時代のテキストではまだ甘い。広く古典の書を読み解いてみよう。
良さがわかる部分があるのはわずかにでもね、は良子さんにであったからだろうな。