◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之 とみられる方へ:☆☆☆ドストエフスキー統一スレッド@☆☆☆ YouTube動画>3本 ->画像>6枚
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ドストエフスキー、ドストエフスキー作品を語り合うスレッドです。 創価学会関係者並びに朝鮮人の立ち入りは厳禁とします。
本スレ?はソーカも山のにぎわいでレス数はそこそこあったが こっちはどうかね 過疎らないことを祈る
ソーカルト・ネトウヨノヴィチ、元気にしてたか? IQが89しかないから自演が下手なのかw
白痴にある死せるキリスト
ロゴージンの家に飾られている十字架から降ろされた直後を描いた絵は、ドストエフスキーが実際に旅行で立ち寄った美術館で長時間見惚れてしまったという
通常、宗教画において降下されたキリストは神々しく描かれる
フランダースの犬で有名なルーベンスの絵が最大の例でもある
生々しい死体を飾るロゴージンとは自殺願望者に他ならない
ナスターシャと同じで、世界でくつろいでいる自己を体験できない人種たちとも言えるし、それが、ロゴージンがナスターシャにこだわる理由とも言えます
別スレで述べたことはロゴージンも当てはまります
>時にある種の人間は、あらゆる現実的な体験に人格的アイデンティティの感覚が伴わない
彼は二つの意味で引き裂かれている人間と言える
一つは世界と、もう一つは自己自身とに分裂している
このような人間は、他者とともにいる自分、世界にくつろいでいる自分を体験できない
彼は絶望的な孤独と孤立の中で自己を体験する
ハンスホルバイン 死せるキリスト
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/holbein_grabe.html ホルバインが手がけた宗教画の中で最も有名な作品のひとつ『墓の中の死せるキリスト』。制作された経緯や目的は現在も不明である本作に描かれているのは、解剖学的な見地から磔刑に処され死した受難者イエスの亡骸の3日後の姿である。
ホルバインは腐敗による死したイエスの肉体的衰退を、極めて恐々とした写実を以って克明に描写している。この後に復活すべき神の子イエスの肉体のあまりにも絶望的な腐敗と衰退はホルバイン独自の解釈に基づき描かれたと解釈されている。
なお本作は文豪ドストエフスキーに多大なインスピレーションを与えたことでも知られ、代表作『白痴』の中で肺病に冒され死の迫る若者イポリートの言葉「この亡骸を目の当たりにしたら、誰一人、その復活を信じることはできないであろう。」として言及されている。
キルケゴールは不安の概念の中でこう語ります 人間は、今現在そうある自分より未来においてそうなってしまう自分を最大に恐れる なにが言いたいかというと、例えば崖に立たされた人がいたとして、彼は落とされそうになっている瞬間が一番恐ろしいということ 落ちてしまえば恐怖はなく事実しか残らない 崖に立たされた人間は、落ちてしまう自分を想像して、他ならず自分が恐怖を最大なものとしてしまう コレは分かる人も多いと思います ああ大したことはなかった、みたいなことは、実際にやってみると大したことはないけど、やってみる前が一番怖い バンジージャンプとかですね なんの話かと思えば自意識の話である 自意識はとても不思議なもので神秘ですらある 自意識は推測できるように他者に見られることで満足する ただし特殊な例ではロゴージンがそう ロゴージンは存在論的に不安の人である 彼は自己の確立が出来ていない(父親のせいなんだけど長くなるので割愛します) この通常の人が自意識のために満足できうる他者の目が彼らにとってはとても危うい存在に変わる 彼らは、この他者の目によって自己が殺されてしまうのではないか、と常に警戒している で、ここからが面白いところ 自意識は、他者の存在によって自己の存在を殺されてしまうくらいならば自分で自己を殺せばい なぜなら「自己が死んでいれば誰も殺すことはできない」と考える 本末転倒じゃん、と言いたくなるところですが、人間の精神は複雑で不可解で神秘としか言いようもない ロゴージンが自殺願望者なのは自意識の問題です
公爵がスイス製の防寒具でブルブル震えてるのを見て 鼻で笑うロゴージン(ロシア製防寒具でヌクヌク温かい) に媚びるレーベジェフ 余談だがオレはレーベジェフがなぜか昔から大好きなんだよね マルメラードフ系キャラの一人だと思うけど結構したたかで人間臭い すまん話をずらしてしまって
>>9 レーベジェフが好きな人はマルメーラードフも好まれますね、そして趣味がいいとオレ個人は思います
ニガヨモギの星をご存知ですか
wikiより以下引用
ヨハネの黙示録の第8章10節で一度言及されるのみである。「第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ」
レーベジェフは黙示録の講談を開いたりして聞かせたりします
レーベジェフは紛れもなくムイシュキンと同じくらいに言葉の意味を理解し使用できます
似て非なるもの、として絶対的な違いがあるとすれば、ムイシュキンは「共に苦しむ」ことにある哲学者になる
一方でレーベジェフは「弱さがもたらす自己中心主義」から哲学者となる
悪いわけではなくて、彼にとっては世界で闘うための道具として「言葉は自分を守る力」と考えるようです
レーベジェフについての論文がありました
30ページほどレーベジェフについて分析されています
面白かったです
イワンのごとくレーベジェフも悪魔について語っています
ドストエフスキーの悪魔像が見えてきます
harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/jcga/file/11847/20150824155420/56-1-93-1秦野.pdf レーベジェフは言葉の<名手>である。彼は自身の利益のためなら、どんな言葉でも使いこなすことができる。 「美は世界を救う」、「謙抑は大い なる力である」、「共苦こそ全人類の存在の最も重要な、あるいは唯一の法則である」といったムイシュキンの言葉も、レーベジェフならば簡単に、 しかも「誠実に」ロにすることができるだろう。そこに言葉の恐ろしさが ある。 しかし、いくらレーベジェフがムイシュキンを真似ようと、レーベジェフの言葉で構築される「哲学」と、ムイシュキンの言葉で構築される「哲学」は、似て非なるものなのだ。 レーベジェフの「哲学」は、真理を解き明かすだけのものではない。 彼は、その重要性について、次のように語っている。 「哲学は必要なものでござ いますよ、我々の時代においては、その実践的応用がじつに必要なのでございますが、それは顧みられないので」(405)。 この言葉は、自分たちの「寄妙で不安な時代」にあっては、「だれでも自分なりの不安をもっている」 という彼自身の「哲学」を説明したものである。 具体的に言えば、こんな時代に、人の不安になど、かまけている暇はないということだ。 さらに言 えば、イヴオルギンがどんなに悩んでいようと、知ったことかということ になる。 この卑しい自己中心の「哲学」によってレーベジェフは精神的安 定を得ることができる。
ムイシュキンは、自分を「教え るべき思想」をもった「哲学者」だと感じながらも、自分の言葉は無力で「思想」に適合しない。だから自分には人を教え導く権利がないと、考えざるをえなかった。 一方『白痴』には、ムイシュキンとは対照的に、自分の言葉に絶大な自信をもち、それを心底、誇る者もいる。レーベジェフである。「ドストエ フスキイの最高の言葉の才人たちは、道化たちである。わけても、散文に おいてはレーベジェフに才能がある4)」とある評者は言ったが、宣なるか なだ。レーベジェフには「教えるべき思想」もあるし、実際に彼は、それ を雄弁に語ることもできる「哲学者」でもある。 (…) レーベジェフは、ムイシュキンの誕生会で、「悪魔」は「時の果てるま で人類を支配してゆく」のだと語る37)。 レーベジェフの言葉は座興の言葉 であるが、そこには真剣なトーンも感じられる。そう言えば、「悪魔はもう仮面なしでこの世に現れたのである38)」(『友人との往復書簡抜草』)と、 ゴーゴリも悪魔の支配について真剣に語っていた。
ゴーゴリは悪魔とは「倣慢なる精神」だと語っていたが、レーベジェフもまた悪魔を「精神EyX」 だと指摘する。「あなたは悪魔の正体をご存知ですか。その名前をご存知 ですか。名前さえ知らないで外形をお笑いになる。ヴオルテールにならっ て、あなた方が作りだしたその蹄だの、尻尾だの、角だのを笑うのです。 なんとなれば、悪魔というものは偉大で、恐ろしい精神で、あなた方が作りだした蹄などもっていないのです」(311)。 何やら彼は悪魔の「名前」 を知っているかのようだ。悪魔の正体については結局、言及されずじまい であったけれど、レーベジェフがこれほど悪魔に詳しいのは、彼こそが悪魔の化身ではないのかと冷やかしてみたくなる。あるいはそれは、冷やか し以上のものになるのかもしれない(実際、自身で反キリストを自称して いるのだから)。 しかしながら、たとえレーベジェフが悪魔であったとしても、彼はメフィストフェレスのように、意図せずして<聖なるもの>に 寄与する者とならざるをえない。 この悪魔はこれまで見てきたように、つ ねに言葉を定め、「哲学」を定めようと希求し熱望することで、結果とし ていつも、何かに似て非なるものを提供してくれる。 この悪魔は結局のと ころ、その何か一真の言葉、真の「哲学」-を考えさせる『白痴』という 全体の部分の部分なのである。
「ハムレット様、何を読まれておるのです?」 「言葉、言葉、言葉」 狂ってて草
狂ってるって誰でも知ってるシェイスピアの有名な言葉ですよ Polonius: What do you read, my lord? Hamlet: Words, words, words. Polonius: What’s the matter, my lord? Hamlet: Between who?
タルコフスキーの映画で「ロゴス、ロゴス、ロゴス」って独白のセリフがあったのを思い出した。
>>16 貶したわけではないので悪しからず
レーベジェフ論はボリュームたっぷりで驚いた
ああいうの読むって貴方は文学の専門家か何か?
ハムレットの友達で有名なゲイアーティーズと掘レイショーはホモ。 作者がホモだからね、しょうがないね。
論文飛ばし読みしたけど 作劇上公爵をただの白痴/道化にしないために道化レーベジェフを作家は必要としたという指摘には唸らされた なるほど公爵を光とすればレーベジェフは影 我らがレーベジェフ意外にも結構重要人物だったわけか 考えたことはなかったが作家の工夫侮りがたし で思い至ったんだが オレは今までスヴィドリガイロフの存在が今一つ腑に落ちなかった 頻出キャラのどれにも分類できなそうだしなんなんだあいつはと思ってたんだが 作品の深みを増すためにラスコーリニコフの影として作家が必要としたんだなと ま 見当外れかも知らんが
>>18 そうでしたか、勘違いでした
ただの趣味です
今日は仕事さぼってネットサーフィンのつもりで読んでましたw
言い訳をするわけではないが そもそもハムレットは狂気を装ってたわけで その狂いっぷりがユーモアまじりに良く出ててさすがシェークスピアと むしろ誉めた
スヴィドリガイロフは作劇上の要請から生み出されたがゆえにキャラに色々な機能が盛り込まれて あのような複雑な言ってみればキメラ的なキャラクターとなったとすると これまたラスコーリニコフ→イワン・カラマーゾフという悩める若きニヒリストの系譜かと思っていたスタヴローギンも 単なるニヒリストではなく作家が必要としたがゆえに生み出されたキメラ的キャラなのかという気がしてきた キャラのラインで言うとスヴィドリガイロフ→スタヴローギン とか
>>17 ノスタルジアっていう映画が気になっているんだけど見たことありますか
この映画の紹介で1+1=2ではなくて1+1=1(大きな1)がなんか意味をもっていて、それがこの映画のテーマになっているとかなんとか書いてあるんだけど、2の2乗の答えが4しかない世界は間違いと考える地下室とか、1984の2+2が5になるとか、なんかそういうのが問われていると興味がわきます
タルコフスキーの映画はすべて見ている 「ノスタルジア」は日本公開時に映画館で見たが、 これはロシアの大江健三郎だなと思ったね そしたら後に大江は『懐かしい年への手紙』という作品を発表した
>>24 『サクリファイス』しか観たことないけど、なんとなくドストエフスキーに通じるところを多く感じた。というか劇中で彼の名前がちらほら挙がっている。
特に原罪の扱い方が『おかしな〜』『悪霊』『未成年』の黄金時代と似ていたところが印象に残った。
>>25 やっぱ映画館で見るのが一番だけど、もうそれは叶わないので借りてみます
見る時はロシアの大江健三郎だと思って見てみます
>>26 ロシア人によるロシア的な原罪が映像化されているなら理解が深まりそうです
ぜひ近いうちにタルコフスキーの映画のどれかを見てみます
>>22 理解しました、それはオレの勘違いです
この論文を書いた人をあなたは狂人と言っている(そういう狂人の論文など読むに値しない)と言いたかったと深読みして勝手に勘違いしました
オレ側の想像知の不足です
間違っておいて人のことは言えないけど、人間の争いは想像のズレによって起こる、というのが戒めなのかもしれません
この辺は悪霊のテーマだとも思っています
>>28 オレ的には大いに蒙を啓かれるヒントになったんでありがたかった
また機会があったら面白そうな論文を紹介してください
もう一つ思いついた キメラ的機能キャラにスメルジャコフも該当するんではないか スヴィドリガイロフ→スタヴローギン→スメルジャコフ みんな最後に自殺するし頭にスが付くし
どんな作家でも登場人物の雰囲気が作品ごとに似通ってるというのはあるあるっぽい。 ドストエフスキーの場合はそれが分かりやすいような気がする。 【ラズミ・ロゴジン・ソコスキ若公・ドミカラ】 【ラスコ・イポリト・キリロフ・イワカラ】 【ソニャ・ムイ公・アレカラ】 【スヴィ・スタヴ・ヴェルシ・スメル】 【チホン・アルカー父・ゾシマ】 みたいなかんじかな。 特に女性は下女系を除くと聖女と悪女の2種類くらいしか種類がないような。これは現代でも女性経験が少ない作家にありがちな傾向らしい
子供の頃に見た映画『マタンゴ』に酷いショックを受け、30代くらいまではキノコを食べられなかった(byウィキ) という可愛らしいエピソードを持つ映画監督スティーブン・ソダーバーグによるリメイク「ソラリス」は期待外れだったな 主演ジョージ・クルーニーと名前は知らんがヒロインのB級映画感が芸術映画狙いとそぐわない感じ ファンがいたら申し訳ない
>>27 タルコフスキー映画で一番好きなのは「鏡」
母の思い出を官能的に描いた傑作
彼は黒澤明が映画化した「白痴」を褒めている
>>33 タルコフスキーについて適当に検査機してみたけど精神的で象徴的で宗教的ですね
エキュメニカルな人だと思っていたらそういう賞も受賞していました
まだ見ていないので見ていないものは語り得ませんが、普遍的な超越系を求めるところがロシア人には共通してあるようです
もしかするとあのバカでかい自然や大地がそうさせるのかもしれません
オススメは鏡ですね
オレは映画を見るなら基本的にレンタルなので、休みの日にでも何か借りてみます
鏡のことは気にして探してみます
>>31 人が妄想することはその人の願望そのものです
人は妄想の中で自由を謳歌します
純粋な幼少期は異性を偶像化する傾向に誰もがあります
初恋の人は理想的だし、だけどそれは思い込みの力に過ぎないことが多いけど、妄想と現実は同じ意味を持っているのかもしれません
やがて成長していくと妄想は現実性を失い始める
その原因は性への目覚めですね
欲望は理想を打ち砕くほどの力を持っているのかもしれません
幼少期に、父親の農奴の娘への性的な態度を目の当たりにしたドストエフスキーは、おそらくはこのことで、女性に対しては抑制的な印象を持っていたのかもしれません
性の目覚めから、近寄れば自分も父親のようなことをしてしまうのではないか、という心はやがて罪悪感につながる
相手は理想的な異性であるという聖女の側面と、罪悪感をもたらし自分を責めてくる悪女となって分裂する
未成年のアルカージーは、性の目覚めによって幼少期を終えます(PDFなので文字化けするかも) ようやく一息つくと、草の上に肘を付いて、私はじっと無意識に目の前の光景を眺めた。畑がまだらに点在する周囲の丘、その丘を迂回して流れ、さらに別の丘や村の間をぬってくねくねと目路の及ぶ限りはるかかなたへ続く川。 村は光あふれる遠方に点々と見え隠れし、かすかに 見える青い森は、焼けつく空の彼方でまるで燃えているかのよう。そしてこの光景の荘厳な静 寂が運んでくる何か甘美な静けさが、しだいに私の激した胸を鎮めていった。 私はいくらか楽 になり,呼吸も落ち着いてきた......。だが私の胸は、鈍く甘くうずいていた。 まるで何事か洞 察したか、何かの予感を覚えたかのようだった。おののく心は、期待にかすかに打ちふるえて、おずおずと、喜びをもって何事かを見抜こうとした......不意に、何かに刺し貫かれたかのよう に、胸の内に動揺が走り、うずきはじめた。 そして涙が、甘い涙が両の目からほとばしり出た。 両手で顔を覆うと、草の葉のようにふるえながら、はじめての自覚、心の啓示、自分の本性の、まだ漠とした開眼に、何患わされることもなく没入した。 ......この瞬間とともに、私の最初の 幼年時代は終わりを告げたのだ...。
>特に女性は下女系を除くと聖女と悪女の2種類くらいしか種類がないような。これは現代でも女性経験が少ない作家にありがちな傾向らしい この辺がドストエフスキーには言い得て妙、ということなのかもしれません
ドストエフスキーの二番目の奥さんアンナ・グリゴーリエヴナの書いた「回想のドストエフスキー」のさわりだけ読んだことがある アンナはロシア正教の聖人だったかと誕生日が同じらしい 最初の不幸な結婚や若い恋人とのヒリヒリするような愛憎関係でそれまで決して女性関係に恵まれたとは言えないドストエフスキーと1867年2月15日に結婚(当時作家は45か6歳で25歳の年齢差婚だって このロリコンおや…いや なんでもない)ニ女ニ男の子宝にも恵まれよかったなぁドストエフスキーと思わずにはいられない その上ちょっとゴツいけどまあまあ美人だし 確か罪と罰を書いた後積み重なった借金の返済に追われ借金取りに版権をごっそりとられそうになって 早く稼ぐためにはもう手書きで原稿を書いてられないと雇った速記者がアンナだった この運命の出会いは神様からの作家へのギフトなのかなぁと思ったりもする 以後の作品は夫婦の共同作業で生み出されており遺作となったカラマーゾフはアンナに捧げられてたはず
>>39 この記事面白いな
ただアンナの写真は他に無かったかな
ここで爆笑したw 兄たちが初めて私を娼家に連れて行き、私がその行為をやったとき、私は事が終わった後で、その女性のベッドの脇に立って泣いた」。トルストイは後に自分の童貞喪失をこのように回想している。彼は16歳だった。
>>41 トルストイのヰタ・セクスアリスか
もっと聖人ぽい人かと思ってた
戦争と平和とアンナ・カレーニナは読んだけど内容はほとんど覚えてない
内容をほとんど覚えていないんじゃ読んだとは言えない 字面を追っただけで頭に入れていないんだね
古典はしかたないところもありますよ オレも分かったような気でいても、2回目読むと見落としていたところがでてくるでてくるで、最近分かったのは、再読するなら時間をあけるのがいいと気がつきました
>>46 確かにそうですね
戦争と平和もアンナ・カレーニナも10年以上前に一度読んだきりで
記憶を手繰り寄せるとプラトン?という名の賢人が教え諭すシーンとアンナの自殺シーンくらいのものです
戦争と平和は時間があれば読み直そうがとは思いますがいつになることやら
万延元年のフットボールは面白かった あと初期の短編はいくつか読んだ 近年の作品は福田和也が酷評してたな 元から読む気はないけど
『万延元年のフットボール』はドストエフスキーの影響が顕著だ フォークナーの土着性とドストエフスキーの心理分析が融合した傑作
ドストエフスキーの小説の中で最も芸術的純度の高いのは『未成年』と『虐げられた人びと』である
>>51 いい命題だと思いますが
論証してほしいところではあります
>>51 オレは虐げられた人々がドストエフスキーの中でも特に好きです
この哀れな少女の物語にテーマがあるとすれば「許し」の他にはありえないし、もしくは虐げられた人々の恋愛譚であったとしても許しのテーマは省けないと言えます
許すもの、許さないもの、許されるもの、許されざるものがすべていて、それが過去の物語と現在進行中の物語と重なっています
時間の処理をこれほどまで上手くこなしている物語は、言われたように芸術的にも純度が高いのかもしれません
大それた発言という自覚はあるけど、ネリーはイワンの原型をもっていると考えられる
哀れなネリーは「許さない」ものだけど、この少女は「許されるべきもの」の存在も「許されざるべきもの」のことも「許さなければいけない」ことも同時に知っていた
「汝、敵を許せ」と私は聞いたしそれを知っている、それでも私は許さない、と少女は語る
彼らが捨てられないのは時間という存在だと思う
許しとは今までの罪過も過失的な時間もすべて帳消しにして「無条件に」裁きを放棄する行為とも言える
虐げられた人々が被った時間を許さないネリーは母親のために許さないことを選ぼうとして自らは愛を失いかけるが、彼女を愛する人たちが用意されていることはもう一つの許し、許さないことを選んだ少女への「無条件の」裁きの放棄がなされている
ここにもう一つ二重性があるとさえ思いました
だからオレはドストエフスキーの中でも虐げられた人々は別格に好きです
>>53 5ちゃんねるでは滅多にお目にかかれないレスをありがとう
ドストエフスキーは宗教や政治思想とも密接に関係する作家なので、
そちらの方面から分析され、高く評価される傾向にある
しかし、文学の芸術性のみから評価するアプローチも重要だと考える
『未成年』と『虐げられた人びと』は『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』
に匹敵する芸術性豊かなロシアの傑作だと思う
ドストエフスキーに限らず、文学や本から話題になるのは際立った性格を持つもの、つまりは特別に裕福なもの、あるいは特別に貧しいものや、特別に善良なものもしくは特別に悪いものだったりまします 話題になるとはそういうことで当たり前のことだけど、白痴には普通の人間、それも多くの中の一人として数えられるような人物がよくでてくる 平凡な普通の人間を芸術的に再現することそれが書く方としては難しいのだと思うが、現実的に存在するのは「こういう普通の人」が人間の大半を占めています ガヴリーラ・アルダリオノヴィチ・イヴォルギンはその最たる例と言える(イヴォルギン将軍の長男。エパンチン家の秘書。腹黒く欲張りで、癇癪持ちの羨望家。7万5000ルーブルを手にするためナスターシャと政略結婚をしようとしている。) 彼の自己紹介はこんなところだけど、この人はある程度賢くある程度裕福である 裕福と言ってもロスチャイルドほどではないが、今日の日銭に頭を惑わすほど貧窮してはいない ある程度ズル賢いけどある程度には善良でもあり、妄想に自惚れてしまいほど理性がないわけでもないし、人の裏をかいて何かを計るほどの才能は持っている こういう人間はやがて絶望する オリジナリティを持たない自分がいるという認識は自立心の問題となり人格的に苦悩するに違いない 彼は不幸ではあるが、彼の持つ苦悩とはとても高い やがて彼は葛藤に苦しむことになるが、何かを見つけるかもしれない 例えばイッポリートのように、事実、彼らの苦悩と発見されるべき対象人の思いはコロンブスやガリレオのそれに劣らない 「これからもばかなことをしてゆかなくてはならない自分には才能がないという深刻な、絶ゆることのない自覚と、同時にまた、自分はきわめて独立的な人間なのだと信じようとする押さえがたい要求は、ほとんどまだ少年のころからひどく彼の心を痛めつけていた。」
それとは反対の人たちもいる 彼らは幸福ではあるが愚かでもある サングラスをかければもはや自分が時代を引き連れている先端にいるように思い込み、妄想に埋没し確信してしまい、自分を疑おうとはしない こういう人たち、ドストエフスキーやトルストイでよく書かれるのは令嬢たちとして登場する 「心の中に何か人類共通の善良な気持を、ほんの露ほどでも感ずれば、社会発展の先頭に立っているという感じは自分以外の人にはわかるまいと、すぐに思い込んでしまう。また、何かの思想をほんのちょっとでも聞きかじるとか、何かの本の一ページでもほんのちょっとめくって見るとかすれば、もうこれは『自分自身の思想』であって、まぎれもなく、自分自身の頭の中に生まれたのだとさっそく、信じてしまう。」 彼らは愚かではあるが幸福な人たちと言える やがてくる独立心の葛藤もなく自分の妄想を信じきって人生を終えることにはなるが、それらの苦悩は存在しない 純真な厚かましさを持つ人間には苦悩という自省は似合わない、と言えるのかもしれません 思うのは、はたして、普通に賢い人間と普通に愚かな人間はどちらがいいのかは正直なんとも言えなくなります
>>55 宗教的もしくは政治的な分析が多いのは簡単だからだと思います
宗教や政治は基準がハッキリしているので対比しやすいし、分析もしやすかったりします
一方で文学を芸術から分析しようよすると美的センスが問われます
これはとても難しい作業のように思います
だから分析する時はついついオレも宗教や政治に頼りがちです
にしても、そこに上げられた本は読んだけど、戦争と平和の登場人物の多さには霹靂させられました
トルストイの頭の中を一回は覗いてみたいw
美は世界を救うと謎めいた言葉をムイシュキンは残しました 美についてドストエフスキーはこう言ったようです 「この世にただ一人本当に美しい人がおります。それはキリストです。(…) キリスト教文学にあらわれた美しい人びとのなかで、もっとも完成されたのはドン・キホーテです。しかし彼が美しいのは、それと同時に彼が滑稽であるためにほかなりません。」 それによると美とは滑稽であること、そしてキリスト、ドン・キホーテ、白痴、がキーワードのようです というわけで来年の抱負はセルバンテスのドンキホーテを読むことにしようと思いましたが、ナニコレめっちゃながい…
ドン・キホーテの読書リポート 週一マストでお願いしたい
来年からですけどね 今年中には集めます 出来るだけ読んだ分は書いてみます 進行状況にもよるけどね
比類なく善良な人間をユーモアたっぷりに描くのが得意だったのがイギリスの文豪ディケンズ ドストエフスキーもこの作家の愛読者だったが、『大いなる遺産』のジョーなどは途方もなく 善良な人物として見事に造型されており、『白痴』のムイシュキンもここまで美しく造型しきれていない
坂口安吾はドストエフスキーは比類なく善良な人間を描こうとしてカラマーゾフのアリョーシャでなんとか間に合った(大意)と書いてたが オレはどこか病的な人間をブラックユーモアたっぷりに描くドストエフスキーが好きなんだよね
先日言っていたノスタルジアを見ました まだ消化できていません これ映画じゃなくて(というかなんの分類と呼んでいいのかも分からない)文学とか詩の映像化みたいなものかもしれない 一滴に一滴を足すと大きな一滴になるという魂の拡張の話とか、精神と肉体の存在についての同時性の有無の話とか、その辺の解釈については精神的すぎて難しいすぎるけど、もし凡人のオレにも簡単に分かるところがあるとすれば、ロシア人がどれだけ哀愁に近い感情を祖国という土壌に思いを寄せているのかはハッキリと理解できました ドストエフスキーの土壌主義もそうで、ロシア、それもソ連下にあった彼らには国家、それも幼少期に過ごした大地というのは彼ら自身の自己同一性の中で基礎や礎になり得るような重要な役割を果たしていて欠かせない大きな存在になっているように感じました おまえは存在しないし、存在を持たない 神がおまえの代わりに存在する
久々に貧しき人びとを読んでる 清書専門の年配の下級官吏マカール・ジェーヴシキンと遠い親戚で破滅した領地管理人の娘ワルワーラ・ドブロショーロワの間の書簡体小説 この傑作を書いた時作家はまだ23歳だって 基本善良な二人の過去と現在を生き生きと描写しながら時に辛辣な毒を感じさせる書きっぷりが若書きとはいえさすが 女学校出でプーシキンを愛読するワルワーラにジェーヴシキンが知人である三流作家のクサさ満載の作品をさも立派な文学作品かのように紹介するが ドストエフスキーによる三流作家の文体模写(?)が実に上手に下手くそに書いてある
>>67 ええね
オレは全集制覇するぞ!と意気込んで1巻から読み始めても
いつもアッサリ『分身』で挫折してきた
次に読んでみようかな
>>53 『虐げられた人びと』の少女ネリーはディケンズの傑作
『骨董屋』のヒロイン、ネルから造型されている
ネリーがいるのといないのとでは、この小説の深さはまるで違っていただろう
『骨董屋』の連載当時新刊を積んだ船が入港するとイギリスの船乗りにアメリカの荷役夫が 「ネルはどうなった?」 と尋ねたという話がある 聞いちゃっていいのかよとも思うがそれぐらい大人気だったらしい 今では文学作品とされ敬遠され気味な小説も当時は娯楽の王様的存在だったわけで そう考えるとバルザックもディケンズもドストエフスキーも成功した大エンタメプロデューサーとしての側面もあるのかと改めて思う
バルザックやディケンズが生きた19世紀の英仏は市民革命を経て社会的には安定に向かいつつあったのに対し 当時の露はまさに共産主義革命前夜の混乱期で その混沌とした社会で生き構想を練り小説を書いたというある意味特権的地位を持ったことが ドストエフスキーに対する特異な評価を生んだんじゃないかとは思う もちろん本人の才能あってこそだが 政治的混沌が文学的な異才を生み出す例は マジックリアリズムで知られる南米文学にもあるらしい
イギリスはともかく19世紀前半のフランスは帝政、共和政、王政復古と めまぐるしい激変の時代で、とても安定期とはいえない
>>74 ドストエフスキーが今で言うネトウヨみたいな人だったからね。
その作品を愛す者もネトウヨたれという、創価学会員の熱い思いが込められているだよ。
ちな、ロシアの19世紀前半の時代背景です
カラマーゾフの兄弟の成立
https://textview.jp/post/culture/40134 まず、この小説が、1861年のアレクサンドル二世による農奴解放後のロシアを舞台にしていることは明らかです。
小説の第4部で、陪審制度(1864年に導入)に基づく裁判が描かれていることがその証です。
そこで私はこう規定しようと思うのです。
13年後の「いま」とは、ドストエフスキーがこの小説を書き始めた時点、すなわち、雑誌連載が始まった1879年である、したがってその 「13年前」とは、ずばり1866年である、と。
では、この当時のロシア社会はどのような状況にあったのでしょうか。
まず、まっさきに目に入るのが、1861年のアレクサンドル二世による農奴解放です。
まさにこの施策によって、約250年におよぶロマノフ王朝の屋台骨に鋭い亀裂が走りました。
近代化に乗り遅れ、クリミア戦争(1853〜56)に敗れたロシアにとって、ヨーロッパ的な近代国家の道を目指し、工業化を図るには、何よりも安価な労働力が欠かせませんでした。
これによって、第一に、ひと握りの貴族=地主階級と圧倒的な数の農民という二極の構造が崩れ始めます。
しかし、農奴解放は、より赤裸々なかたちで新たな二極化した社会を現出させました。
行き場を失った多くの元農奴たちが、都会の底辺にうずくまる「ルンペンプロレタリアート」と化していったのです。彼らはもはや、キリスト教の神に救いを求めることはできませんでした。
何よりも、欲望の実現をいとも容易なものとする金への執着とアナーキーな自由が、解き放たれた彼らの心と現実の生活を支配し始めていきます。こうして、農奴解放以後に書かれたドストエフスキーの小説のすべての中心的テーマの主役を金が担い始めます。『罪と罰』にしろ、『白痴』にしろ、ほとんどの登場人物が、金を中心に、車座に配置されたかのような印象すら受けるほどです。
『カラマーゾフの兄弟』も例外ではありませんでした。拝金主義は、登場人物たちの心理や行動を理解する上で欠かせない事実です。 父親のフョードル・カラマーゾフは自分の財産を息子たちにびた一文も渡さないと息巻き、長男のドミートリーも、婚約者に借りた3000ルーブルを返すために身も心も引き裂かれた状態で金策に走ります。 父親と長男が奪い合うグルーシェニカは、初め蓄財に励むエゴイスティックな女性として登場します。カラマーゾフ家の次男イワンも、料理 人スメルジャコフも、ある意味で金の囚人です。 もう一つ述べておきたいのは、この拝金主義の高まりと呼応するかのように革命の機運(すなわち人民主義)が台頭し始めたことです。 ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』に着手する時期は、まさに政治テロルがクライマックスを迎えようとしていました。 1878年1月 ペテルブルク特別市長官フョードル・トレーポフ将軍暗殺未遂事件 1878年8月 憲兵総監メゼンツォフ刺殺事件 1878年12月 陸軍将校ドゥブローヴィン事件 1879年3月 ドレンチェリン将軍暗殺未遂事件 1879年4月 参謀本部前皇帝暗殺未遂事件 1879年11月 皇帝列車爆破事件 驚くべき頻度と言わざるをえません。 ところが、さきほど「第一の小説」の舞台の年号として導き出した1866年は、その先駆けとなった事件、すなわちアレクサンドル二世の最初の暗殺未遂事件が起きた年だったのです。 ちなみに、この暗殺未遂事件を起こして処刑された人物の名は、ドミートリー・カラコーゾフ。この人物の名前をみなさんは、しっかりと記憶にとどめておかなくてはなりません。 ■『NHK100分de名著 カラマーゾフの兄弟』より
いま、帝政ロシア末期の大臣暗殺事件をめぐるコンラッドの『西欧の眼の下に』を 読んでいるが、とても興味深い ロシアと西ヨーロッパをまったく別の世界として対比して描いている ロシアは帝政から共産主義独裁へと暗黒の圧政が続いた
コンラッドですね 短くていい本だなと思って読んだ闇の奥は難しすぎて挫折しそうになったのを覚えています
コンラッドは読んだことないけどおもしろそうと思ってちょっと調べてみた コンラッドが元船員でドストエフスキーを嫌ってたことは知ってたが その理由がわかった気がする(以下ウィキより) コンラッドは没落したポーランド貴族の小地主の息子で 父はロシア支配下のポーランドにおいて独立運動を指導していたが投獄流刑の後両親を結核で失っている 文学研究者でもあった父の影響でシェイクスピア、ディケンズ、ユゴー、ポーランドの古典に親しみ、フランス語を習い、海洋文学に出会い感化され 裕福な母方の伯父に引き取られ教育を受けていたが海への思いが膨れ上がり 伯父が止めるのを振り切って船員となって武器密輸や国家間の政治的陰謀にも関与するようなヤバイ船にも乗ったりして世界をめぐり縁あってイギリスで世界的大作家になるってなんかスゲえ人だなこの人 コンラッドの文学作品は、チャールズ・ディケンズやフョードル・ドストエフスキーに代表される古典的小説とモダニズム小説との中間的存在として位置づけられる。 ただしコンラッド本人は、イワン・ツルゲーネフを除き、ロシア文学にはあまり良い印象を持っていなかった とのこと
マンガしか読まない知能なのに、ドストエフスキーの「罪と罰」をラノベ感覚で読んだらムチャクチャ面白かった。 表現が底知能を物語っていて恥ずかしいが。 江川卓訳で、読みやすい。下巻の終わりの方が胸熱展開。 ラスコーリニコフが周りに愛されすぎ。 「カラマーゾフの兄弟」に挑戦してるが、1巻が辛い。面白くなるんだよね?
萩原朔太郎は影響を受けた文学者3人について書いたエッセイで 詩人としてポー小説家としてドストエフスキー(あと一人は忘れた)を挙げ 好きなドストエフスキーの作品として白痴ハマらなかった作品として悪霊を挙げている 一方ドストエフスキーに傾倒するカミュは悪霊を自ら戯曲化するほど影響を受けているなど 人によってハマる作品は様々 でも罪と罰を面白く読んだのならおそらくカラマーゾフの兄弟も気に入るんじゃないかと わからんけど
>>84 あ
あと読み終えた もしくはつまらなくて読むのを止めたら
是非感想を聞かしてください
埴谷雄高もドストエフスキーとポーを賞揚していた 『死霊』は日本文学の金字塔
>>86 「罪と罰」の手に汗握るサスペンス感、伝わってくる暗い重い情景の表現、そしてラストの心地よさ、全て良かったです。こんなに面白い小説だとは驚きました。
ラスコリーニコフがソーニャに罪を告白するシーン、エロすぎる。
カラマーゾフ、頑張ってみるよ。原卓也訳です。
>>87 死霊全部読んだの?
てかあれ完結したの?
なにも知らんですまんけど
>>88 手塚治虫と野田秀樹も罪と罰がムチャクチャおもしろいって言ってたからね
キミは二人と同じぐらいの小説の読み手でしょ
>>81 人間の心にはどんなものでも入る−−過去と未来のすべてがそこにあるんだから。あの原住民の心のなかには何があったのか。歓びか、恐怖か、悲しみか、献身か、勇気か、怒りか−−それはわからないが−−とにかく真実が−−時という外套を剥ぎ取られた真実が−−そこにあったのは間違いない。原理原則を持っているべきだ?原理原則なんか役に立たない。あとから身につけたもの、服−−服なんてただの小ぎれいなぼろだ−−そんなものは、最初の身震いで吹っ飛んでしまう。そうじゃなくて、必要なのは、考えぬいた上での信念だ。闇の奥から
個人的に思ったのは、無人島で過ごす少年たちの人間の理性と獣性の対決の物語、蝿の王を思い出しました
でも闇の奥は植民地時代の大虐殺とかもあったところの物語だから本全体に暗いイメージがあったようにオレには思えました
闇の奥をガッツリはしょって言えば、崇高なものも醜悪なものもすべて一人の人間の中にある、みたいなことが言いたかったのかもしれないとオレは考えています
>>89 20世紀前衛文学は物語中心ではないから、『死霊』も『特性のない男』も
未完ではあるが、小説としての要諦は書かれており問題ない
もちろん両作とも自分は完読している
ムージルは他の作家には容赦なく手厳しいが、ドストエフスキーだけは認めた
『特性のない男』は『カラマーゾフの兄弟』同様壮大な観念小説だ
>>92 『死霊』も!『特性のない男』も!!
恐れ入りやした
どっちもいつかは読んでみたい
>>85 レス読んでていてなんか引っかかっていたけど、多分あと1人はホフマンじゃないっすか(砂男の人)
ポーと並んであげられる名前でホフマンはよく聞きます
>>94 あー! 確かに
猫町に潜む砂男 怖すぎる
いつになるかわかりませんが
わかったら報告します
>>83 1918年の独立までにポーランドは分割されたり歴史上地図から消滅したりした国なんすよね
コンラッドの話でロシアとポーランドの対立が出てきたけど、ムイシュキンにふられたアグラーヤは外国に家族で旅立ち、そこで会ったポーランド伯爵と婚約までする
結局は伯爵でもなんでもないただの亡命者なんだけど、彼に唆されてポーランド再興在外委員会の会員にまでなってカトリック教徒にまでなってしまう
ここでもポーランドはロシアにとって差別的な国として扱われている感じは否めない
ナスターシャとアグラーヤの間でムイシュキンは揺れ動くことになり、かわいそうなな人という理由でナスターシャを選んでしまう
愛するのに結婚など価値がない、というのはムイシュキンだけであって将軍の令嬢アグラーヤからしたらたまったものではないはず
ムイシュキンといえばロシア公爵であり反カトリックを公言するほどのキリスト者
そう考えるとアグラーヤはポーランドとカトリックの肩を持つことでムイシュキンに復讐したかったと結論が出せるけど、ムイシュキン吹っ切れない彼女はかわいそうに思う
いつまでもムイシュキンという存在の呪縛から逃れられないアグラーヤは絶世の美少女として描かれているのもなんとも皮肉でもある
アグラーヤがポーランド貴族と結婚してなんかヤサグレて可哀そうだなと思ったのは覚えてるけど カトリック教徒になったというのは読み飛ばしてた 超重要なくだりじゃないですか 大審問官のカトリック批判(?)の絡みで言えば異教徒になったようなもの? オレも一つ思い出しました ドミートリィ・カラマーゾフがグルーシェニカと捨て鉢のバカ騒ぎをした時その場にいたポーランド人と乾杯を交わすシーンで ミーチャはポーランドのために乾杯の音頭を取ったのにポーランド人はロシアのための乾杯では杯に口をつけず ポーランド分割前のロシアに乾杯とニヤついて言い出したのに対してミーチャが 「お前あたまバカだろ」(ちょっと脚色あり)と瞬時にブチ切れたのが間が絶妙でいかにも血の気の多い退役軍人らしくてカッコ良かった でもコンラッドにしたらそりゃ好きにはならんなと今になって納得しました
>>97 そうそう、カラマーゾフで思い出すのはこの場面ですよね
ポーランド人として、コンラッドからすればドストエフスキーは土壌主義者だったから好きになれなかったのかもしれません
アグラーヤはカトリックで懺悔室に入りさえします
密室で懺悔して神父が許しを与える、というのはカトリック独自の教義のようです
こういうのもムイシュキンからすればカトリックを批判する要素になり得ることで、まさに神にとって代わろうとする大審問官の話に繋がっていきますね
歴史上の話になりますが、懺悔室や神父が許しの特権を与えるのカトリックのやり方に反対して、許せるのはキリストのみと唱えてきたものは審問され殺されてきました
深読みしますが、アグラーヤが懺悔室に入るというのはムイシュキンへの殺意なのかもしれません
憎しみは愛と表裏一体なんて言われる言葉があるくらいにフラれた少女は憎悪すら抱いていたように思うます
>>99 心理的に深読みするとですけどね
懺悔室に入ることで自分の中にあるムイシュキンという想像知を殺して排除することを望んだかもしれない
アレゴリカルに解釈すれば、精神的な殺害を犯すことで関係を吹っ切ることを望んだりします
>>101 いや全然ありだと思いますよ
むしろその方が面白い
自暴自棄の末の精神的自殺と考えることもできるのでしょうが
私は面白い方が好きなので
いずれにしろ白痴の主要登場人物4人は結末で皆象徴的死を向かえており
作家はイヴォルギン将軍やレーベジェフというコメディリリーフを交えつつ
ハムレット同様最後は皆死んでしまうという悲劇として白痴を構想したのかもしれません
>>102 そうそう、象徴的な死っすね
白痴なんかを読んでいると、やがては死についても考えなくてはならなくなります(オレだけかもしれないけどw)
死とは存在の崩壊でもあります
自己を失うことが怖いのではなく、存在を失うことこそ恐ろしいのかもしれません
心理学なんかでは自己をよく取り扱うけど、オレは個人的に、ドストエフスキーは自己と存在を同じように扱っていたと解釈しています
なんで殺意と言ったかというと、オレは自殺も殺人だと思っているからです
自殺とはとりも直さず自分で自分を殺すこと
自分とは自己を含む自分の存在そのもののことです
説明があった通りに、アグラーヤは自暴自棄の末の精神的自殺と考えるのがおそらくは正しいと思いますが、その過程において殺人を犯さなければならなくなります
ここでもちろん彼らが失うのは自己自身ではありますが、自己自身を失うことは自分の存在を失うことと同じことである、と言ったとして何か間違いがある言い切れるのだろうかと思います
ハムレットなんかは象徴的な死がすごく強調されていますね 復讐をとげたハムレットも結局は死ぬ シェイクスピアで思い出したけど、マクベスで死について語る有名な一節があります 他者の喪失(殺人)は象徴的な自己の喪失(自殺)と変わらない、いわゆる、存在の喪失のこと、のように感じました マクベスはダンカン王を殺したあと彼はいいます 殺したのは王ではない、眠りを殺したのだと マクベス 一人が「神よ、われらに恵みを」と叫び、もう一人が「アーメン」と言った。 まるでこの死刑執行人の手をしたおれを見ているようだった。 彼らが恐怖のなかで、「神よ、われらに恵みを」と言ったとき、 おれは「アーメン」と言えなかった。 しかし、どうして「アーメン」と言えなかったのだろう。 おれに祈りが一番必要なときに、「アーメン」が 喉につかえてしまった。 「もはや眠るな、マクベスは眠りを殺した」 と叫ぶ声を聞いた気がする、無垢の眠り、 気苦労のもつれた糸をほぐして編むのが眠り、 眠りは、日々の生活のなかの死、労働の痛みを癒す入浴、 傷ついた心の軟膏、自然から賜ったご馳走、 人生の饗宴の主たる栄養源だ。
オレはやっぱりアグラーヤみたいな美少女が 「死ね ムイシュキン##」と無意識的にせよ思ってたって発想が面白くて 傷心の乙女が自暴自棄になってって可哀そうなアグラーヤって読むより カトリックに改宗して子だくさんのふてぶてしくもチョット昔の面影のあるおばあちゃんのアグラーヤになってほしいという ド氏が敢えてかなんか知らんけど罪と罰をエピローグであたふたとハッピーエンドに持ち込んだ気持ちと同じ? かどうかわからんけど そんな気持ちです わけわからなくて申し訳ない マクベスか 蜘蛛の巣城やね 黒澤監督はラストシーン弓道の名人集めてホントに矢を放って撮ったらしいけど 三船敏郎もそれをやらした監督も弓道の名人たちも 度胸あるよね… すまんマクベスは今まであんまり思い入れないから語れんねん
>>105 アグラーヤは強い子だからそうなる可能性もありますね
ラピュタのドーラみたいなw
反骨精神なんてコンプレックスがないと生まれないものなんだから、打倒ムイシュキンでカッコいい婦人になって欲しい
>>107 で腕には FUCK OFF IDIOT ! と入れ墨してあると
>>108 いや
基本2人でたまに他の人が書き込んでる
もっと人が増えればいいのに
というかスレ主はいるのだろうか
>>108 キリスト教の兄ちゃんと創価の二人体制です
おそらくスレを立てたのも創価
でもここでは創価がいつもの人格で書き込まないから安心していいよ
>>111 創価じゃねーわ
まぁ証明する手段もねーけど
>>112 家にある御本尊(笑)を燃やした画像をupしろ
腐れ無能が
>>113 まあまあまともにレスを重ねてきたつもりだが
お前みたいな低能に絡まれたら仕方ない
そもそも御本尊が何かも知らんが
お前の指示通りにしたら一体何が証明されるんだ?
自演する人がいるとこういうところでも弊害を生むんすよね 疑わなくていい人まで疑われて、疑う必要のなかった人まで疑わなければならなくなる どっちも巻き込まれて被害を受けることになる とくに誰が誰だか分からない匿名掲示板なんかでは、猜疑心を植え付けるのに自演はもってこいの手段でもある 賢さを持てば疑うしかない 彼はそこまで考えて自演していたわけじゃないと思うけど、第三者まで被害をもうむっている とりあえずオレは文体を変えないつもりでいるし、避難所として当分はここを使わしてもらいます ちなみにスレ建てたのはオレじゃないので確実に2人はいる 以下は予想だけど、彼がタルコフスキーを制覇していたとも思えないし、その時にレスしてた人が2人はいる シェイクスピアやコンラッド、白痴と罪と罰、もしくはドストエフスキーの短編に詳しい人がいる それと単発でたまにレスする人がちらほらいるので、もちろんそれらの人が同一人物の可能性はあるけど、少なくとも3から4人くらいはこのスレにもいると推測しています
創価のじいさんは最初からこのスレを意識してたよ じいさんがシェークスピアやらなんやらこのスレで話題になったワードをあっちのスレで使ってたからね しかしあっちのスレで誰かに出されたカラマーゾフの問題に答えられなくて手詰まりになってきたから イラついてる気がする
創価に向けてる
>>111 のレスから5分以内に返信したID:alDe1JA8はかなり怪しい
>>117 の内容も「創価はこのスレを見るが書き込まない」というようなニュアンスがある。本人だと疑われないように創価へ少しだけ批判を加えているところも匂う
マクベスはまだあまりよく読めてないが 悲劇絡みで言うと 今までアリストテレスのいうカタルシスがよくわからんかった 「悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし感情を浄化する効果」らしいが ハムレットで言えば見事父の仇を取ってめでたしめでたしの方がよっぽどスカッとするじゃんとか オイディプス王に至ってはもうなんであの結末で感情が浄化されるんだよと思ってたんだが 最近ちょっと見えてきたことがあって 他人の不幸は蜜の味と言ったら身も蓋もないし オイディプスザマーとも思わんが 人間の心に潜むダークな部分が悲劇を見ることによって浄化されるってことなのかなーと今のところ思ってる
>>118 だから創価じゃねーって
証明はしようがないがね
>>121 尋問する気か?
せめてまずは自分から書けよ失礼な野郎だな
>>122 なぜすぐに答えないんだ?
後ろめたいことでもあるのか?
A)創価としてのボロが出るから
B)特定されるような珍しい宗教だから
>>123 お前が書いたら書くよ
と言ってもオレは特定の宗派の信者ではないから大したことは書けんがね
はいどうぞ
>>119 アリストテレスやプラトンのいうカタルシスとは、日常的によく使われるトラウマやコンプレックスからの解放的な意味はないようです
カタルシスとは個体の体験や歴史的な個から普遍的な美徳の獲得であり認識の質をあげることを意味します
つまりカタルシスとは美徳という認識の問題でした
アリストテレスにとって良いものとは活動と状態です
良い状態にあるものは良い行いをし、悪い状態にあるもは悪い行いをすることになります
二者択一は存在しません
選択ではなくその人間が培った状態によって必然的に活動していく、という倫理学の問題でした
もう一つが模倣という特性が問題になります
人は他者を模倣して生きている、という前提があります
自分が良いと思う人を模倣し吸収しようと欲します
この場合でいう「良い」とは善という意味ではなく、快いという感情の良さも含んでいます
ある時に急になんの前触れもなく、不条理に不幸のどん底にいるもの、まさに不条理な苦難の中を漂っているだけならば悲劇になりません
ただの悪です、ただの不幸です
ここに悲劇を加えます
とても大切なことですが、悲劇とは「過ち」それも「滑稽」な過失がなければ成り立ちません
大雑把に言えば「あの時こうしていたら!」みたいな、本人の過ちが必要になります
それが劇としてあらわれた時、人はその人に同情という「恐れ」を共感して他者を「憐み」ます
こうして倫理は培われていきます
良いものを「模倣」して良い「状態」になろうとします
「良い」とは「悪い」を洗い流していく活動です
魂を浄化していくことをカタルシスと言います
マクベスとオイディプスの例も書こうと思いましたが、間違えて消えちゃった( ; ; ) スマホなんで割愛します
>>126 なるほど
アリストテレスが詩学で述べたカタルシス論もそういう感じですか
>>128 アリストテレスの詩学でいうカタルシスがこういう感じです(もっとも詩学は専門家でも解釈が異なるので断定はできませんが)
日常的な意味で使っているカタルシスは心理学のカタルシスですので意味が変わってきます
>>129 そしたらオレが考えた他人の不幸は蜜の味≒カタルシスはまるで真逆ですね
もうちょっと考えてみます
>>130 いや、その段階を経ていかなければならないとは書いてありますよ(記憶を辿っているだけですが)
だからまずはそれでいいようです
そのあとに憐むんすよ
ざまー、でも可愛そうだなって
この時に魂は浄化される、というのが詩学です
美徳を獲得していき人格が良い状態になっていく、というのがアリストテレスの倫理学です
>>131 今悪い冗談を考えていて とすれば観劇セラピーや観劇修行とかもありか とか そんな私の魂が浄化されるのはいつになることやら >>132 実はこのカタルシスの例として身近な物語がありますよ
カタルシスって一言で言えば無意識の意識化なんすよ
いつのまにか認識が逆転されてしまうような出来事が無意識的に行われて、それを契機に意識が変わることを言います
ある夢をきっかけに「認識」が一転してしまうような人がいたりします
ある日、鉄棒が回っている夢を見た少年が、次の日に、今まで出来なかった逆上がりができてしまったりとか、こんなのもカタルシスと呼んだりします
まったくの余談になってしまいましたが、ラスコリニコフのラストの夢はカタルシスですね
あの夢を見てからソーニャの愛に気がついていく
夢がラスコリニコフの認識自体を逆転させています
俺も若い頃はタルコフスキーをかなり観た 三百人劇場のリバイバルとかで リアルタイムではサクリファイスのみだけど 数年前タルが撮影のため牛を生きたまま燃やしたことを知り、どん引きましたわ タルは早めに死んでよし
>>133 ふーむ 難しいっすね
ユングの自己実現のようなってあんまりよく知らないけど
しばらく寝かしておきます
>>135 寝かしておけばいつか起きるかのしれまい
だけど繋がっていきます
オレもそうだったけど、聖書を読んでドストエフスキーにつながって、ドストエフスキーが心理学的なところがあるからフロイトとかユングとか読み出したりして、みたいな
本は連鎖していくのも読書の醍醐味っす
>>134 知らなかったです
牛さん可愛そう
こんなことは本来書くべきことじゃないんだが あっちのスレで創価のじいさんが例の質問から逃げ回っててホント失笑を禁じ得ない
とても役に立つスレでありがたい 読了後忘れかけていたことが思い出されてくる スレ主としてうれしい なお、オレは創価学会関係者ではない
>>138 俺はあなたの役に立っている書き込みの人ではありませんが
このスレの2つめを立てる際はぜひ
>>1 から朝鮮人の3文字をオミットしてほしいです
>>138 スレ主さん乙です
いいシェルターを立ててくれてありがとう
オレも創価のじいさん(の人格の一つ)とか言われて心外極まりないが
こればっかりは違うと言っても信じない奴は信じないだろうしまぁ証明のしようもないので
このままこのスレで遊ばせてもらいます
話変わって
クリスマスで思い出すのがディケンズの「クリスマス・キャロル」
もそうなんだけどオレは四年間のシベリア流刑にドストエフスキーが処せられた時の体験記「死の家の記録」のクリスマス・シーン
曰く「だいたいにおいて、お互い同士の盗み合いはすさまじかった…想像できることと思うが、ここは泥棒の達人どもの集まりなのだ」
と獄内で所持を許されていた唯一の本である聖書を、彼に敬意を持って接してくれてた囚人に盗まれたエピソードを紹介しているが
そんな世間の除け者ぞろいの囚人たちがいつになく妙にとりすましながらうきうきワクワクする様子が微笑ましい
>>140 よく覚えていますね
もう細かい部分は忘れてしまった
ドストエフスキーで書かれている囚人て意外とキリストとか聖書を大切にしている人が登場しますよね
余談ですが、ロシア正教ではユリウス暦という暦を昔から今でも採用しているため、クリスマスは1月7日になるようです
ということは新年→クリスマスの順番だけけどなんか(変
新年についてなにか死の家の記録には書かれていなかったですか
ちなみにオレはスレ主じゃないいっす 横入りしましたw
>>141 文学板で知ったかして間違ってた日には鬼のように叩かれるのはわかってますから
書く前に裏は取ります
覚えてるのはクリスマスのワクワクあったなと聖書盗まれた話あったな
でパラパラ読み返しながら書きました
でクリスマスが12月25日じゃないとかオレのレスを根底から揺るがすような新ネタを…
確かにドストエフスキーの誕生日も旧暦と新暦で違いますよね確か
新年については覚えないなぁ
だいたいクリスチャンてクリスマスが一年の最大のイベントで正月ははーん??て感じらしいじゃないですか
ロシア正教徒が「新年あけましておめでとうございます」って
異教徒としてポグロム仕掛けられそう
>>141 でポグロムの裏を取るためにググったら酷い写真が結構な数出てきた ロシア革命はユダヤ人がロシア人に復讐するために起こしたって陰謀論がありますが これだけのことされ続けたらそりゃ復讐心も積み重なるわな と感じさせられましたね 別にユダヤ人の肩を持つわけではありませんが 宗教が違う人間は人間ではないから何をしてもいい 逆に言えば宗教が「仲間である人間」と「敵」(カール・シュミットから適当に借りました)を分ける枠組みとなってるわけで 宗教って怖いと一般的日本人が思ってしまうのもやむを得ないかもしれないなぁと思わされました ついでに読み直して目についたエピソードを一つ 「最後にもう一つ、囚人の懐ろをあたためはしないが、いつもきれないで、ありがたい収入の道があった。 それは施しものである。わが国の上層階級の人々は、商人や町人や一般民衆がいわゆる『不幸な人たち』にたいして どれほどの思いやりをもっているか、理解していない。…わたしははじめて金の施しを受けたときのことを、覚えている。 それは監獄について間もないころだった。わたしは看守につきそわれて、一人で朝の労働からもどってきた。 向こうから母親と、十歳ばかりの天使のようにかわいらしい少女がやってきた。… 少女はわたしを見ると、顔を赤らめて、母親に何ごとかささやいた。 すると母親はすぐに立ちどまって、包みの中から四分の一コぺイカ銅貨をさがして、それを少女にわたした。 少女は私を追ってはしってきた…… 「さあ、『不幸なおじさん』、このお金をどうぞ、キリストさまのためよ」と少女はわたしのまえへかけぬけて、 わたしの手に銅貨をおしこみながら、叫んだ。わたしはそれを受け取ると、少女はすっかり満足して母親のところへもどっていった。 その銅貨をわたしは長いこと大切にもっていた。」 件の聖書もペテルブルグからシベリアに行く途中トポリスクでデカブリストでの妻たちに贈られたものらしい。
訂正 デカブリストでの妻たち→デカブリストの妻たち 大事なトコを打ちまちがえてしまった…
>>143 オレが思うにキリスト者の一番のイベントは復活祭、イースターだと思っています
復活祭はキリストの復活を記憶する、言うなれば、キリスト教の最大の原理である「復活」、死の克服を意味するため大切に扱われているのかもしれません
イベントにならないイースターは、日本人では馴染みがないようですが、ロシアでは日曜日に教会に行かない人もこの日だけは参加する祝日のようです
https://jp.rbth.com/arts/2017/04/16/743513 そもそもクリスマスは1世紀頃のローマ帝国が国教を変えたために定めたキリストの誕生日であり、ローマ帝国ではミトラ教の太陽信仰がもともとあり、そのお祭りが12/25だったためキリストの誕生日と仮定したようです
キリスト教国家のフィリピンではクリスマスを祝わないようです
同じ宗教でも考え方によって見方が変わってくるのはどこの国でも同じようです
正教会とラスコーリニキとかみたいに
>>144 悪とはシステムを無批判に受け入れること、なんてアーレントはユダヤ人迫害を分析したけど、これは全体主義に言えることで特定の宗教対立に限る話ではないと思います
悪にも種類があるけど、量的な悪はおそらく受動的な追従による悪に違いないはずです
上手くやっていきたい、出来るだけ楽にこなしていきたい、誰もが思う当たり前の理屈だけど、考えることを放棄した時に悪はうまれるのかもしれません
「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。
そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した者なのです。
そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。
ハンナアーレント」
>>145 なんか死の家の記録を思い出してきた
寄付文化が習慣として根付いているのは聖書の影響っすね
貧しいものに与えよ、はキリスト教の基本ですが、オレの解釈では運命についての考え方の違いがベースになっていると推測しています
貧しいもの、悪を行うもの、不幸な人になるのは「環境」によるためであり、誰もがそうなってしまう(そう生まれていた)可能性が本来的に存在していた、もしくは現にそうなっているからに過ぎないと考えるからでもある
逆に経済的な成功や実現があっても、自分の力で獲得したというよりそれだけの力を与えてもらった、そういう人生にたまたまか必然かはさて置き運命付けられた、と考える人が多いため寄付文化が発達しているのではないか、なんて思っています
話ついでに言えば、日本は世界寄付指数がかなり悪いです
人助けランキングでは最下位をとりました
アジアではワースト3位をいつも争っています
自助とか自己責任とかよく言われるけど、まるで反対の価値観を持っている国もあることをもっと学ぶべきだし、それが出来るのも読書によると考えています
そういえばカラマーゾフでも出てきたけど、ロシアなんかは囚人のように貧しいもの以外でも「神がかり」と言われる人たち、言葉は悪いけど要は頭のおかしい人たちも保護しています
神がかりな人と言えばスメルジャチシャヤ、スメルジャイコフの母親はフョードルによって保護されることになるけど、ロシア的にはあり得ることだったのかもしれません
>>147 本屋学問のオレとは学識量が一段違いますな
イエスの誕生が福音の始まりとしたら復活は福音の本質たる奇跡
で奇跡はイエスが神の子であることを担保(スンマセン下世話な表現で)するがゆえに最も重要ということですかな
イースターの日が「春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日」と定められているとググって知り
だいたい冬至の日に生まれだいたい春分の日に復活してる
人間の血の来歴が太陽と地球に規定されるがゆえに宗教的祭日もそれに纏わって定まっていくものなのかと思うと面白いものですね
ハンナ・アーレントとシモーヌ・ヴェイユが今まで何となくごっちゃになってましたが
当たり前のことながら全然別人ですね(恥)
ハンナ・アーレントはハイデッガーの下で哲学を学びながら不倫関係になりフッサールやヤスパースの指導も受けてるって何者ですかこの人
って書きながらレーベジェフ主義者のオレの興味は下世話に走るなぁと
彼女は保守主義なのか進歩主義なのか
それともそんなに単純に分類される思想家ではないのか気になりますね
あと共和党支持か民主党支持かもって下世話すぎるか
ドストエフスキーの全集に土壌主義宣言なる文章が収録されているんですね 今度読んでみよ 私は最近は悪について取り立てて考えたことはなく とりあえず人の支配じゃなくて法の支配と自由主義・人権尊重・民主主義という人類の英知に沿った思想・制度を守っていくしかないよね と単純に漠然と思っており あと人権や自由も無制限はダメねやっぱり秩序とのバランスを取っていくことが大事 という小市民的穏健主義なんですが 全体主義の暴力を身をもって体験したアーレント女史の”悪の凡庸さ”ですか 初めて接した概念なので新鮮に感じました(というかググったら女史の影響を受けた人物の中に丸山正男が入ってて 読んだことはないんですが丸山のファシズム論はアーレントの影響下というかパクリ?と言ったら怒られるか) イタリアのファシズムの縁起は知らんのですがナチズムは第一次大戦後宿敵ドイツを殺しにかかったフランスの責任も大きく 狂ったようなインフレで経済が崩壊し生きていかれない状況になったらドイツ人も発狂するよなと かと言ってナチズムが許されるわけもないし肯定するわけではないので不快だったらごめんなさい ドストエフスキーが悪についてどう考えていたかちょっと思い返してみたんですが 傲慢な英雄免罪思想によって罪を犯したラスコーリニコフは結局は内面的に罰せられ大地に接吻して自首し法的に罰せられることとなり ロシアの大地を離れたデラシネスタヴローギンは一時その富と才能と魅力によって多くの若者のカリスマ的存在となり生を謳歌することがあってもついには枯れる時が来て 理知的に有神論を切り捨てたイワンは無神論を教えたスメルジャコフによって殺人教唆犯となる 結局キリスト教/ロシア正教への信仰と土壌主義(これはまだ私はよくわかってない概念なんですが)に基づいて悪を考えていたということでしょうか
>>149 アーレントについてはあまり詳しくありませんが、読んだ本から推論すると保守でも進歩主義でもありません
確定できる概念があるとすれば自由と新生です
まず自由とは何かを考えます
誰もが好き勝手に責任を誰も負わない世界は時に自由に見えますが、この自由の中には生命を脅かすほどの危険が伴います
それだけ人間は卑しく、わがままであり、自分勝手だとアーレントは考えました
アーレントは共生するためにまず教育が必要になると言います
教育において私的領域というものがあります
最初は家族です
子供にとっての最初の教育の場所は家庭です
次に公的領域があって、これは学校などと広がっていき、やがては社会や正解へと人は向かっていくのです
教育の場所ではまずまとめる権威者がいて、子供は服従すると同時に外部の危険から保護されます
ここに権威に対するアーレントの考え方があります
権威者は、もし暴力的な強制や理性的な説得があったとしても子供を服従させることは可能かもしれません
しかしながら、権威とは尊敬によって樹立されるべきだとアーレントは考えます
権威が喪失される場合は軽蔑によります
尊敬によって樹立される権威は、強制された権威と違って軽蔑を排除できるのです
この私的領域において大切なのは保護されているという意識づけです
子供は守られていると実感できるとアイデンティティを確立し、自らの存在を肯定します
これは自由につながります
自由なものは自律的であり、創造的であり、活動的であり、共生的です
共生の敵は対立です
恐怖は自らの存在を不安定にし、安定のために他者と対立し、そして対立は疎外を生み出します
安心を持って成長した子供は「旧い世界を(私的領域)を持ったまま更新」します
自由に社会へと参加するのです
これが新生です
自由には存在論的な安定の心と人格が自律的であること、新生には存在の確立が必要であること、アーレントは保守にとどまらず、また進歩主義にも留まることはなくその両方を批判して更新することを選んだとオレは思っています
>>150 読んでいて思想面面白かったです
土壌主義やその他についてはまた後でね
なんと答えていいか整理してみます
>>150 やっと見つけた
ドストエフスキーの土壌主義がよくあらわれているのは、作家の日記に記されたプーシキンのオネーギンの登場人物についての言及から読み取ることができます(最後に引用しておきます)
土壌主義を理解するために簡単な方法があります
それは土壌主義の反対を考えると分かりやすいようです
それは拡張主義です
拡張主義では文明の伝達、都市化、近代化、効率化、工業化もそうだし、とにかく没個性的に出来るだけ均等になるように「発展」していくことです
現代でうたわれるグローバル化の正体こそ拡張主義です
日本にもありました
ご存知の通りそれは文明開花と呼ばれています
明治の時代、文明開花によって日本はとても豊かになっていきます
食事から運搬具から何まで発展するのです
そもそも最初に拡張主義を取り入れたのはヨーロッパでした
これがルネッサンスです
ロシアでは、スラブ主義と西欧主義が貴族階級の人たちにもたらされることになります
文明が近代化(西欧化)するために生活は向上しました
(起源はバベルの塔、いわくバビロン文明なんだけど、この辺は宗教的な説明になるので割愛します)
ただし拡張主義には代償がありました
それは伝統の喪失です
この伝統を守ろうとする意識を土壌(大地)主義とドストエフスキーは言いました
土壌、大地、「土地」とは「伝統」のことです
作家の日記 プーシキンについての演説より 「彼は幻想を愛しているのだ。が、彼自身も幻想なのである。まったく、もし彼女が彼に従って行ったならば、彼は明日にも幻滅を感じて、自分の一時の熱中を冷笑の目で見るだろう。 彼にはなんの地盤もない、これは風に漂う草の葉なのである。 ところが、彼女はまるで違う。 絶望の中にあっても、自分の生涯は滅びたという悩ましい意識の中にも、彼女にはなんと言っても、魂の寄り掛かる強固な揺ぎなきなにものかがある。 それは彼女の少女時代の追憶である。 彼女の慎ましい清らかな生活の始まった、淋しい田舎にある故郷の思い出である。 それは「彼女の哀れな乳母の墓の上なる十字架と、木立の陰」である。 ああ、これらの思い出と、昔の様々な人の姿は、今や彼女 にとっては何よりも尊いものであり、彼女に残された唯一のものであるが、これが彼女の魂をどんづまりの絶望から救っているのである。 これは決して些少なことではない。 否、そこには多くのものが含まれている。 なぜなら、それは完全な土台であり、一種ゆるぎのない、破壊しがたいなにものかなのである。 そこには故郷、郷土の民衆、その聖物との接触がある。」
>>150 >結局キリスト教/ロシア正教への信仰と土壌主義(これはまだ私はよくわかってない概念なんですが)に基づいて悪を考えていたということでしょうか
ここまできて文明が開花することや発展することを善とするのか悪と呼ぶのか、伝統に留まることを善とするのか悪とするのかは自分自身です
どちらかしか選べません
貧しいままでいるか豊かになるのか、そのかわりに個性を残すか没個性になっていくのかは必ずついてきます
あくまでキリスト教では、という限定付きの枠組みで語るのならば、伝統の喪失は悪です
>>154 ドストエフスキーのプーシキン演説は聴衆の熱狂的支持を得て晩年における一つの達成だったとアンリ・トロワイヤが書いた伝記だったかで読んだ記憶があります
大成功に感動したドストエフスキーが興奮して夜眠れずにわざわざ一人で演説会場に戻って感激を噛み締め直したってエピソードに
ボッチかよ!!
と要らぬ思いが頭に浮かんだのを覚えています
演説もオネーギンもこれを機会にじっくり読んでみたいと思います
で
確かレーニンも愛読してたらしいチェルヌイシェフスキー(合ってるかな)の「何をなすべきか」にドストエフスキーは批判的で何かの小説で揶揄してた記憶があります
若い頃にはオーウェンだかサン・シモンだかのマルクスのいう空想的社会主義を信奉してた時期もあったが
死刑判決からのシベリア流刑体験を経ていわゆる「転向」したということなんでしょうね
土壌主義は保守主義と同じと考えていいものなんでしょうか
違うとしたらどこが違うのでしょうか
>>157 オレもそうやって次に何を読むか決めています
ようは読んでいる作家に次の作家を紹介してもらうと探す手間が省けますね
ちなみにドストエフスキーが傾向した空想的社会主義者はシャルルフーリエですね
何冊か読んだけど、まさに奇人変人でした
アレはまぎれもない天才です
保守主義の大前提は政治の分類と思っておけば間違いないんじゃないかと思っています
土壌主義とは文明の分野も含んでの主義思想です
保守とは問題解決の方法論です
知られた方法(やったことがある、誰かがやった)で問題を解決する方法論に基づいて政治を行う人たちを保守主義者と定義できます
反対が改革主義者もしくは進歩主義者
「事実確認」が保守、「行為遂行」が進歩主義
土壌主義は伝統が廃れない範囲なら解決策は何でもOK
土壌主義の目的は問題を解決していくことではなく、伝統を保存していくことが目的なので、触れてはいけない部分だけ残せるならば方法については寛容的です
伝統が守れる範囲の自由ならOK
日本に限ってはなぜか保守と土壌が同じ扱いになっているため混合しやすいようです
伝統を愛しながら進歩主義を支持する、なんて人たちは世界では珍しいことではありません
必然的に、もっとも自己を保存しようとする保守は守るという目的の土壌主義と家族定期類似性があるために同じになる傾向はあると思います
オレはなんだかんだ言っても保守的な性格なんすよw
行為遂行を簡単に口にするのは好きじゃない
事実確認を前提として解決していきたいと思っています
あなたはどうですか
これはオレの主観から偏見も含んだ見方ですが、現在で土壌主義に近いのはイスラム圏の人たち 彼らからすれば日本人とかはありえない人種にみえます 神は信じない、豚肉も食う、性に対して奔放 だけど気にしない 自分たちの伝統には関与してこないからです ユダヤ人へ対しては同じ神を信じていても敵対する パレスチナなどの聖地を奪還しようとするからです 伝統を破壊しようとするため対立します 土壌主義者たちが問題にするのは宗教のことが多いようです 彼らにとって守るべきものは伝統が上位なんだと思います ドストエフスキーでも言えることで、正教会がカトリックを嫌悪するのも伝統の違いがあるから だからムイシュキン公爵はローマカトリック、西方の教会文化の伝統を嫌うのです
>>158 ああフーリエか
そのフーリエも何冊か読んだって貴方は何者なんですか
ってのは置いといて
オレはド氏とレベルは全然違いますが流れは一緒で昔は社会主義や共産主義にわけもなくかぶれ
とは言ってもオレの場合難しい本を読んでもよくわからんので
レーニンの国家と革命とかエンゲルスの私有財産とうんたらかんたらをわからないままページをめくってた時期もありましたが
今じゃすっかり(貴方の定義とは違うでしょうが)保守主義土壌主義です
>>161 自覚があるくらい偏ってますけどね
本はドストエフスキーから辿っていって、読んでる本に紹介してもらうだけ
プラトンは大好きだけど、ギリシャ哲学もドストエフスキーは関係あるし、やっぱりドストエフスキー関係ばっかり
日本人でありながら日本人の作家に関しては遠藤周作と宮沢賢治くらいだけ
これだってキリスト教で繋がった作家だし
古典以外はここ10年くらいまったく手も出していないっす
あとは全然話にもなりませんw
だからオレは保守で反土壌主義なんだと思います
ちなみにフーリエとかもキリスト教社会主義者なんすよ
ムシャする無神論なんかよりこれが一番厄介なんだ、ってカラマーゾフで誰だっけ、そんなことを言っていた気がします
>>161 うんうん、社会主義や共産主義が主義としては完璧なので傾向する気持ちはわかります
意外に日本の共産党って話す内容もしっかりしてるし
ただ歴史的に共産党でまともな国がなかっただけで、多分だけど社会主義やれるほど文明が発達していなかったからだと思われます
もしかするとこれだけ発達した今ならベーシックインカムできる国もあるかしれないとさえ思う ベーシックインカムも社会主義みたいなもんすからね
>>163 共産主義国家は人の支配の亜種である党の支配ですからね
人権も自由も党の掲げる理想のためには侵害弾圧するもやむなしという考えで
まともな国家運営ができるわけはありません
>>165 自由や人権が守られるなら社会主義的政策もいいですね
ただ人間が理想のままに生きられるとは思えないので
難しい部分もあるのだと思います
>>166 >>167 そこに行き着くとは、過去にか社会・共産主義にかぶれた甲斐があったってことっすね
まさに意識の逆転ですね
カタルシスされたのかもしれない
やっぱり理想だから理想なんですよね
理想が根底にある主義は現実で運営するとなるとレベルが高すぎるようです
カエサルみたいな人が出てきてくれないもんだろうかw
>>168 お!!
カタルシスしちゃったってこと?
は冗談として
よく知らんのですがカエサルってそんなに政治的手腕があったんですか
逆に剛腕を振るいすぎてブルータスにまで裏切られた とか?
>>169 優秀な政治家の代名詞みたいなもんです
実際にはもっと凄腕だった人はいるけど、雰囲気で有名になってる人っているじゃないっすか
そんな感じです
裏切られてグサっとやられますね、シェイクスピアで知った口だけど
>>170 いろいろと面白い話をありがとうございました
オレは落ちます(もっと人増えるといいですね…)
似たようなスレがアゲられてて
毎年同じようなことやってんのが面白い
http://2chb.net/r/book/1558140286/l50 去年のスレの方が人がいっぱいいた様子 あと学術という固定さんがいた
同じ作者のスレッドの数が増えれば人はばらけますからね どこに書き込んでいいか分からない人もいるだろうし ていうか最近知ったんだけど、5chにはスレッドだけじゃなく「創価・公明」の掲示板まで用意されているじゃん…
おもしろかったのでコピペ 1吾輩は名無しである2019/05/18(土) 09:44:46.64ID:pmpuyLd1 ドストエフスキーを真面目に語り合うスレ。 キチのソーカと学術は立ち入り禁止! 馬鹿がうつるからw 10学術2019/06/01(土) 10:25:14.23ID:DaWjqq9V 座っているので書き込んでみる。
これは違う意味で面白かったのでコピペしてみる 0085 吾輩は名無しである 2019/08/17 01:03:51 死は我々から意識を永遠に奪うものであるが、不思議な利益もあって、深い夢のない眠りは最も幸福な人生のいずれの日よりも好ましい。 (プラトン) この世は、苦悩と不安に苛まれている生物が、互いに食い合うことによって生を繋いでいる修羅場である。 墓石を叩いて、もう一度生き返りたいかと死者に問えば、彼らは首を横に振るだろう。 そして、ソクラテスの意見もこれと同じである。 (ショーペンハウアー)
ドストエフスキーやトルストイと同時代のロシア人で、 この二人から自分より格上だと認められ尊敬されていたのは、 フョードロフという人物で合ってる?
この人か フョードロフ伝 スヴェトラーナ セミョーノヴァ (著) 安岡 治子 , 亀山 郁夫 (翻訳) アマゾンでも売ってるね 膨大な百科全書的知識に基づいた、宗教的かつ科学的なその夢想的理念によって、 ドストエフスキー、トルストイ、プラトーノフらにも多大なイマジネーションを与えた、19世紀末ロシアの「幻の思想家」ニコライ・フョードロフ。 再評価の進むロシア思想のなかでも、もっともラディカルなその思想と、ユニークな生涯の全貌を明らかにする、本格的評伝。 だって 試しに最寄りの図書館にあるか検索掛けてみたらナントあったので予約してみた
遥か昔に新潮文庫のソクラテスの弁明とソクラテス最後の日々(そんなの無い?)を読んだが 確かソクラテスが死は来世の始まりかそれとも無のどちらかで無は夢を見ない最も快適な眠りと同じ 怖れる必要ゼロ と大意そんなことが書いてあった記憶がある 子供の頃は自分が死んだら永遠に消滅してしまうんだと思うと消えてなくなった自分に対する永遠の時という存在にビビりまくってたが 今は自分が消滅し無になるということは 少なくとも自分においては永遠も何もかも消滅するということで少しは永遠くんにも親しみ(?)を感じるようになった ヒョードル・カラマーゾフは死神がすぐそこに近づいている気配を察したかアリョーシャとイワンに死後の世界の有無を尋ね アリョーシャは「ある」と答えイワンは「ない」と断言した ヒョードルはイワンに対しそれにしても少しぐらいは何かあったっていいだろうとブツブツ文句を言うというくだりがあるが まぁどうなるかは死んでみなけりゃわからない 面白いのはギリシア人に近代人同様 死すなわち無 という概念があったということで 来世なり輪廻転生なりを原初的宇宙観に包含するのが人間の文化の当たり前かと思ってたが そうでもないのか それともギリシア人と近代人が特殊なのか
いくつかコピペさせてもらったレスにも同様の箴言があるので三度めのコピペ 0084 吾輩は名無しである 2019/08/17 01:03:18 今ある、ということは何物にも変えがたい恩恵なのに、生まれてこない、死を賛美するなんて悲しい ざっとググったらこんなに出てきた、なんて世の中だw しかもショーペンハウアーばかりじゃないかw 中略 結局、私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし 私は死を恐れない。私は産まれるまで何十億年もの間死んでいたのに、少しの不自由も感じなかったのだから。 (マーク・トウェイン) マーク・トウェインてトム・ソーヤーやハックルベリー・フィンの冒険あとアーサー王宮殿のヤンキーだっけか を書いてるとこからまるっきりオプティミストって感じだけど晩年の不思議な少年(未読ですが)て小説では完全にペシミストになってるらしい 何があったのかは知らんけど
>>179 ロシア宇宙主義の元祖みたいな人物のようだけど、何で日本ではあまり知られていないんだろ?
ドストエフスキーとトルストイの二人から一目置かれるって、何気に凄いと思うんだが
>>183 亀山郁夫が翻訳に絡んでるということは
ネクストブレイクを狙ってるに違いない
というのは冗談として
世界にはそのような埋もれた思想家なりは山ほどいるってことではないでしょうか
というかこの世には知らないことの方が圧倒的に多い
>>180 プラトンの国家に「エルの物語」という逸話があります
それがプラトンの輪廻転生です
プラトンなんかが死後についてどう考えていたのか理解できるようです
とても短いのでググってみて下さい
もしかするとどこかで全文も載っているかもしれません
仏教の輪廻転生は死ぬとそのまま肉体が違う肉体に転生します
人が死ねば、輪廻転生というシステムが因果応報に基づいて違う肉体に転生しますので、裁き主は必要ないし、神も必要なくなります
魂がなくても輪廻転生は成り立つのです
プラトンでの輪廻転生では、死は魂と肉体の分離で、魂は不滅で肉体は朽ちると考えます
ここまではカラマーゾフで語られた(フョードフが尋ねた)キリスト教の死後と同じです
プラトンによれば、死後、魂は変わらず前のままですが、まずは前世の行いによって裁かれて、1000年の後、魂はそのままで肉体は新しくなって転生します
この時に前の世界でのことをすべて忘れてしまいます
人は生まれる前のことを忘れてしまうため、生まれる前は無であったと言うのです
これが古代ギリシャの人が考えた無です
つまり忘れてしまうため生まれる前が無だった、と人は呼んでいるのです
現代人、日本人でいう無は唯物論の無です
現代ではなんでも科学を根拠にするので、魂なんてものは想像の産物にすぎず肉体の生が終われば死と考えます
意識は脳が作り出した映像なので、死ねば意識もなくるので文字通り無になります
なので古代ギリシャの人たちが言っている無と現代人が考える無は「同じ無」だけど意味は変わっているようです
>>183 フョードロフって人は目立つのが嫌いな人だったようですね
>>184 どこかでよく聞いた名前だと思ったら亀山さんが書いていたのか
ほんとにそう思います
世界は知らないことだらけで埋もれた思想家がたくさんいるけど、発掘される人とそうじゃない人の違いってなんなんでしょうか
そういうことを考えると運命なんてものがあるんじゃないかと思いたくなります
○フョードル スマホなのでいつもいつも誤字脱字すみません
>>185 「エルの物語」とりあえずウィキで粗筋だけ読みましたが
唯物論的無よりもよほどマシ(言い方が悪いか)
と言うか勇気づけられる物語ですね
ユングが来世の存在という考えは人生に意味だか味わいだかを与える塩のようなもの (全くうろ覚えで適当な記憶ですが)と書いてたのを思い出しました
ダンテの神曲はこれをモチーフにしたのか?というかパクった?と言うと怒られるか
とするとソクラテスは夢を見ない眠りと死をたとえた時
このような来世観をもってそう語ったってことになりますか
>>189 あれはきっと煉獄のことですよ
カトリックは死後の世界を天国、地獄、煉獄としました
ダンテはカトリックなので神曲で煉獄を書きました
ドストエフスキー、トルストイ、正教会、プロテスタントも煉獄の概念を否定しています
聖書のどこにも煉獄なんて書かれていない、という単純なことです
きっとそういうことっすね
正しく生きてきたものはエルの世界でも裁かれない、それが終わって転生するときだって正しい来世を選ぶことができる、と考えていたので死は恐るべきものではなかったのかもしれません
それとソクラテスが死が幸福の日より好ましいと言ったのは「生は苦痛である」という側面があって、死ぬことで生の苦しみから解放される、という見方があったからだと考えられます
肉体は魂の牢獄である、としていました
名前が一緒にあがっているショーペンハウエルもそうだけど、人間は根拠を持たずに何かを求めています
これがショーペンハウエルのいう「意志」です
世界は私の意志と表象であるとかなんとか言うんだけど、簡単に言えば、肉体は「肉」だから肉体がある以上は何かを求め続けること=生きていること、なんですよ
で、満足すると「退屈」が訪れる
退屈は苦痛です
で、満足できないと欲求不満なわけです
欲求不満は苦痛です
なのでどっちになっても生きてる=苦痛なわけです
で、安定の時があるとすれば意志がなくなった時と考えます
すなわち死は意志からの解放であるため、深い夢のない眠りは最も幸福な人生のいずれの日よりも好ましい、というわけです
ちなみにこれらを真っ向から反対するものがいます 何を隠そうニーチェです 生きる意志こそ肯定せよ、というわけです つまり「神がいないならば私が神である」と言ったキリーロフは神のあるなしにまだ確証を持ってはいないわけですが、ニーチェに限ってはこうです 「神はいない、だから私が神である」 キリスト教も肉は克服するもの、しかも生きたままで肉なしに生きる、という教えがあります あくまでキリストの力を借りてということになりますが カラマーゾフの兄弟で引用された聖句が思い当たると考えられます ドストエフスキーの思想もこういう感じだったのではないか、とオレは個人的に考えています ヨハネによる福音書 12:24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
>>191 ニーチェは難しいですね
才能を嘱望されて大学教授に招聘されたながら悲劇の誕生という学会からしたら規格外のものを発表したがゆえにアカデミズムからはまともに相手にされなくなり
ツァラトゥストラこの人を見よ等を書いた後に発狂するもその後評価され世界的哲学者として今も読み継がれるという計り知れない人生
思想的にも超人とか永劫回帰とか
難しい
ただエルの物語の1000年経つと復活するというイメージと永遠の時を経て自分と同じ人間が再び生まれ出て再び自分と同じ人生を繰り返すというアイデアが似てるのかなと感じました
というか 神が死んだことを理知的に悟ったニーチェが フロイトやユングのいう無意識において神と来世の代替として超人と永劫回帰を発想したのかも と今回思いました 人は虚無に耐えきれないのか イワン・カラマーゾフの懊悩にも通じる のか?
で思ったのですが 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」 の「死」はキリスト教でいう悔い改めること 本スレ(?)において459氏が「これは、ゾシマの兄→ゾシマ→アリョ−シャ→アリョーシャの兄ミーチャへと伝えられていく、そしておそらく第二の小説でコーリャに伝えられることになるはずだったと思われる」 と明解されてますが ゾシマの兄が言ったように「われわれはだれでも、すべての人に対してあらゆる面で罪深い人間だけれど、なかでも僕はいちばん罪深いんですよ」 「人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです」 と悟ることなのか と教えられました エゴ/利己心を捨てること 利己心が服を着てるような私やおそらく普通の人でもそうそうできるものではないのでしょうが そういうことだったのか と思いましたね
>>194 そんな感じっすね
オレはゾシマの思想の本質は「一括り」にして考えることがあると思っています
主語はすべて括られた人間になります
同じものとして共に生きている、という共生の思想です
原罪もそうで、もちろん幸福もそうで、何かを考える時に対象になるのは人間である以上はみんなが括られることになります
「人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです」
>>195 とは言えオレはあまり良いドストエフスキーの読者ではないので
彼が訴えたかったであろう愛や善よりも
どちらかと言うともっとダークでヒリヒリするところに惹かれちゃうんですよね
だからゾシマ長老で一番印象に残ってるシーンは序盤で信者の農婦たちに祝福を授けるところで
おそらく夫を殺したために死後の裁きに恐れおののいているやつれきって見るからに結核らしい農婦に神の愛と赦しを説くところで
チョット読み返してみたけどいいこと言うね長老
「長老は女に十字を三度切ると、自分の首から聖像をはずして、彼女にかけてやった。」っていい人だなこの人と結局感心してしまった
>>196 他人の戯言だと思ってもらえたらと思うけど、いい読者ですね
アリストテレスの悲劇論じゃないけど、作者だって普遍的な善より個人的な心の暗部を読みとってもらいたいと思って書いていると思います
善は完成されているので省みる必要がそもそもないけど、悪には完成を目指すべくして内省が必要となるようです
というオレも、イワンやキリーロフが好きなので、ドストエフスキーに心地よい物語は求めていませんw
>>197 好きなキャラで イワン わかる キリーロフ え?? 珍しいって言っちゃあ失礼かもしれませんが かなり珍しい好みじゃないですか? もっとも オレは5大長編の中では悪霊が一番好き(と言う表現が合ってるのかわかりませんが)で おそらく奇人変人しか出てこないこの小説(常識人と言えるのはダーリアくらいのもの?)の登場人物の中で誰が一番好きかと聞かれたら 語り手である「私」(K だったかな)なので 人のことをあれこれ言える立場ではないんですが
ググったらGか しかもアントン・ラヴレンチエヴィチという名前まであって新聞記者でした この人も常識人ですね 作家の分身的人物 Kはカフカかw
>>198 ドストエフスキーが存在論の立場で書いたのはキリーロフだけだと思うんすよね
なので一際目立ってキリーロフがお気に入りです
犬でも飼ったらキリーロフと名付けますw
かつてこの地上に一つの日があった。 そしてこの地球の真ん中に、三つの十字架が立っていた。十字架の上 にあった一人は、きわめて深い信仰を有していたので、いま一人の者に向って「お前は今日わしと一緒に天国におもむくだろう」と言った。 やがてその日は終わって二人とも死んでしまった。 そして、ともに旅路につい たけれど、天国も復活も発見できなかった。予言は適中しなかった。 いいか、この人は全地球における最高の 人で、地球の生活の目的となっていたのだ。その上にある一切のものを含めてこの一個の遊星全体もこの人が いなかったら、ただの狂乱にすぎない。この人の前にも後にもこれほどの人は決していたかったし、また絶対に現われないだろう。 それは実際、奇蹟といってもいい位だ。 こういう人はこれまでにあいなかったし今後も決して現われないだろうというところに奇蹟が含まれているわけなのだ。 もしそうとすれば、自然律がこの人童容赦しないでその奇蹟さえ容赦しないで、彼をして偽りの中に生き、偽りのために死なしめたとすれ ば、当然この遊星全体が虚偽で、虚偽と愚かしい剛笑の上に存在しているわけなのだ。 して承ると、この遊星 の法則そのものが虚偽なのだ。 悪魔の喜劇なのだ。一体何のために生きるのだ。 前に三本の十字架の話で触れたけど、ここに出てくるセリフ「一体何のために生きるのか」こんな話はドストエフスキーの中でキリーロフくらいです
>>202 この宇宙の存在意義を論じたものでしょうか
おもしろいですね
これ出典は悪霊ですか
ちょっと記憶にないので
来年はドストエフスキーメモリアルイアー、略してドスメモですからね 悪霊は岩波文庫改版でよかですか?
>>203 悪霊のキリーロフのセリフです
もし本当に復活なんてものがなかったとすれば、壮大な喜劇なんすよね
どれほどの人たちが復活を信じて自らの命を犠牲にしてきたか測ることすらできなくなる
>>204 https://www.aflo.com/ja/editorial-images/features/1144 フョードル・ドストエフスキー生誕200年(1821年11月11日)
苦悩と矛盾に満ちた人間の内面を巧みに描き20世紀文学に多大な影響を与えたロシアの文豪。代表作『カラマーゾフの兄弟』『地下室の手記』。
200年前の作家、と言われると不思議な気持ちになります
ちなみにオレは新潮がよかったです
キリーロフってとても良心的なんだと思います スタヴローギンなんかはとことん世界の欺瞞を否定してやろうと思っている節がある 例えばキリーロフとスタヴローギンの会話でこんなことがある スタヴローギン この地球で散々悪行の限りをつくし千年も万年も爪はじきになっていても月の世界に居を移してそれを眺めていれば何の揃痒も感じないだろう。 キリーロフ わかりません、ぼくは月に住んだことがないから そういえば、ゴーンが逃亡した時なんかはスタヴローギンを思い出した 月とは別世界という象徴でもある 日本の法の下に逸脱する行動をいくらとろうとも、レバノンに帰ってしまえばなんてことはない 誰も裁けない法律なんて、起訴されようと、重刑を課されようと、その国から出てしまえばゼロでもある この問題にキリーロフは、そんなこと考えたこともない、と答えます キリーロフは思ったより良心的なんだと思います
>>208 良心的だし純粋
しかし考えようによってはキリーロフほど恐るべきキャラはそういないんじゃないか
自らの思想に忠実であるために悪党ピョートルの注文通りの文書を残し思想を実践するとか
ふと三島由紀夫が思う浮かびました
>>207 どうもありがとうございます新潮ですか
新潮は表紙のでかい字での悪霊がかなり気に入りません
ただあなたには一目置かせていただいてるので、
図書館で両方借りて最初だけ読み決めたいと思います
>>207 このキリーロフのセリフとかはキリスト教を知らないと理解できないでしょうね
そもそもどの作家であれより深く理解するためにはその作品が書かれた背景
例えば作家が生きた時代や生まれ育った文化・宗教・思想などを知ることによってさらに見えてくるものがあるから
それらを知っておいた方がいいのは火を見るより明らかですね
むしろ背景知識なしでは単に理解することすらままならないでしょう
>>210 幸運な時代です
翻訳が一冊ではなくて数冊ある恩恵の時代に生まれました
評価してくれたことを感謝します
ぜひ自分にあった訳を見つけて下さい
>>211 背景を知るということは分析することでもありますね
分析には理性の働きが欠かせません
人は何かを知ろうと欲すると、まずは対象を想像する
想像知によってどういうものであるのか判断します
ただし想像は間違えやすい
なぜなら想像は多種多様であり人の数だけ存在し、想像は対象物に触発されるという受動の働きが先になってしまう
対象を正確に理解して、理解の間違いを避けるためには「共通の概念」を探さなくてはならないと仮定でき得る
つまり分析です
その人を知りたいなら「私からどう見えるのか」ではなく「その人が見ていたもの」知らなければならなくなる
ドストエフスキーを分析するにあたって「キリスト」はその共通概念になり得る、とオレも同意します
>>202 を理解するために聖書を知らなければなりません
該当部分はルカによる福音書などです
これを知らずしてキリーロフが語った「三本の十字架」は理解できないと考えます
ルカによる福音書 23:35-43
民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。
兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、
「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。
イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
新潮文庫の『悪霊』江川卓訳はスタヴローギンの告白を巻末に置いているのが気にいらない 米川正夫訳は岩波文庫でなく河出の全集を持っていて愛読している
新潮文庫『悪霊』江川卓訳 「序に代えて 今日までなんの特記すべきこともなかったわが町において、最近、相次いで起こったまことに奇怪なる事件の叙述に手を染めるにあたり、私は、おのが非才のいたすところとはいえ、いささか迂遠なところから、 すなわち、才能ゆたかにして最も尊敬すべきステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキー氏の一代記にかかわる若干のディテールからして、稿を起すことを余儀なくされている。…」 光文社「古典新訳」文庫『悪霊』亀山郁夫訳 「序に代えて 今日まで何ひとつきわだったところのないわたしたちの町で、最近たてつづけに起こった奇怪きわまりない事件を書きしるすにあたり、わたしはいくらか遠回りを覚悟して、 まず手はじめに、才能ゆたかにして敬愛すべきステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェンスキー氏の経歴にまつわる細かい話を、いくつか紹介することからはじめなくてはならない。…」 残念ながら名訳で知られる米川正夫訳は手許にないので併記できません
新潮文庫『悪霊』江川卓訳(1回目) ↓ 光文社「古典新訳」文庫『悪霊』亀山郁夫訳(2回目) なんでも文庫で読みたいので大体この順番で新潮社と光文社にはお世話になってる
河出書房新社ドストエーフスキイ全集第9巻『悪霊』米川正夫訳 「序に代えて わたしは今この町、―べつにこれという特色もないこの町で、つい近頃もちあがった、 奇怪な出来事の叙述にとりかかるに当たって、凡手の悲しさで、少し遠廻しに話を 始めなければならぬ。つまり、スチェパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイ という、立派な才能もあれば、世間から尊敬も受けている人の、やや詳しい身の上話から 始めようというのである。」
それぞれ訳文の味わいが微妙に違っていて面白いですね 米川正夫訳 →「凡手の悲しさで、少し遠廻しに話を始めなければならぬ。」 江川卓訳 →「私は、おのが非才のいたすところとはいえ、いささか迂遠なところから、…稿を起すことを余儀なくされている。」 亀山郁夫訳 →「わたしはいくらか遠回りを覚悟して、まず手はじめに、…いくつか紹介することからはじめなくてはならない。」 明治の頃には英語やドイツ語からの間接翻訳しかなかったけどロシア文学者である米川正夫が初めてすべての作品をロシア語から直接翻訳したということですね その歴史的偉業を受けてドストエフスキー研究も進み江川卓訳も名訳として知られてますし 用語も言い回しも現在の読者に合わせてアップデートした亀山郁夫訳はまだ評価が定まってないようですが 今の若者にはより読みやすいのかもしれません
>>215 >>217
俺のためにだけではないでしょうが親切にありがとうございます
スタヴローギンの告白を調べたら上巻に収められている方がよさそうに思います
亀さんのが1番読みやすいのですが、新カラ兄弟の出版は俺にはまったく相容れないものですので可能な限り避け続けます
河出書房新社か岩波文庫を買ってみようと思います
そして恩を仇で返すようになってしまい当方も心苦しく思いながら、
この後映画鬼滅の刃について書こうと思っています
もちろん俺としてはおもしろいことだと思ってのことです
せいぜい2回に留めますので
米川「慶賀慶祝の至りにて誠に喜ばしく存じ奉ります」 亀山「あけおめ」
アイデアを借りて悪ふざけ 新年早々ゴメンナサイ 「オレらの地元はゼンゼンふつーの町なんだけど、最近なんかチョーやべー事が起きまくったんで、今からその話をすんだけど、 オレ頭わるくてウマく言えねーから、初めにオレらが全員リスペクトしてるステパン先生の話からしていい?」
皆様明けましておめでとうございます 新年早々暗い話題はなんですが、ーとか、倒置法を使っていたりして、江川訳の地下室のこの文章は大好きです 『地下室の手記』 江川卓・訳 新潮文庫 ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった−意地悪にも、お人好しにも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。かくていま、ぼくは自分の片隅にひきこもって、残された人生を生きながら、およそ愚にもつかないひねくれた気休めに、わずかに刺戟を見いだしている、−賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない、何かになれるのは馬鹿だけだ、などと。 さよう、十九世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格をもった人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ。
映画鬼滅の刃で描かれるエピソードは物語の途中、全体の3分の1(原作コミック全23巻のうちの7、8巻)に位置するものです 現在の動員数はのべ2千5百万人です 俺が言いたいのはこの映画に登場する人物の生き様を点とした時、 物語の始点とこの点に定規を当てて線を引いた延長線上に物語の終点があることがすばらしいと思うのです つまり物語の結末から振り返ってみても正しかったことがわかるのです そればかりかこのエピソードが物語にふさわしい結末に向かう定規の役割りとなったとも思うのです 人は誰でも数十年ほどで人生を終えます そしてその後も世界が続いていくことを知っています 自らの人生を大まかにいって1つの点ととらえたとき、 世界の始点と終点を結んだ線上に自分の人生の点が含まれるということはこの上ないことだと思うのです 以上はキリスト教とドストエフスキーに決して無縁なことではないと思います コロナ禍に映画に行くことを薦めるのは常識的ではありませんが、 果たしてこの作品をたとえば俺の自宅の23インチのモニターで観て、同じように感動できたかというとできなかっただろうと思うのです
『地下室の手記』という語弊を恐れずに言えば厭な奴を描いた中編が 作家の転換点になったというところが面白いですね 興行収入歴代1位って凄いよねマンガも映画も見てないけど でも観客をこれだけ熱くさせる作品だからこその大ヒットなんでしょう それにしても無限列車編てタイトルがロマンチックかつどことなく文学的で惹かれるけど列車は出てくるのかと疑問 無限列車編が分量にして3分の1で序とするなら破・急と作られるのかしらエヴァみたいに
>>216 オレも悪霊はそのパターンで読みました
亀山訳は読みやすくてあれはあれでありだとは感じました
亀山訳はベストセラーになったために、ロシア文学者から嫉妬され、 重箱の隅をつつくような貶し方をされたが、決して悪い訳ではない 数十年前流行したシドニー・シェルダンの超訳に比べれば、まともだ
>>225 興味があまりないでしょうけど、少なくともレンタルになったら早めに観ることをお薦めします
俺はこの映画をどんな理由であっても観られなくなったら、人間としては終わっていると思っています
だからといって観れれば人間として大丈夫だという訳でもありませんけどね
いつか観ようと思ったらぜひ観てくださいというだけです
>>228 口コミ喚起力ハンパないですね
それほどおっしゃるならいつか見てみたいと思いますが
何故に無限列車編なんでしょうか
>>229 東京駅と無限駅(架空)を走る蒸気機関車が舞台となるからです
知性の高い人でも観てよかったと思える映画だと強く思っています
全員じゃないでしょうけれどね
といっても特に新しいところがあるとは思えないんです
でもおそらくあなたの人生にしろ俺の人生にしろ、新しさばかりが重要ではないのではないでしょうか?
映画はまだ見てないけど、かなり頻繁に名前を聞くのでアニメは一応全部見ました 映画はレンタルされたら見る予定です 映画を見ていないから物語論はなにも言えないけど、内容の一角の部分、罪の強調をしているところは触れられるかもしれない 罪によって堕落して鬼となる、そういうストーリーだったと思う この罪を犯して鬼になるものにはキッカケがあった 人間側を善として鬼側を悪とする二元論的な立場はあるんだろうけど、主人公は鬼にも同情的であり、鬼になってしまった、つまり堕落してまった「理由」には心を寄せていたように見ていて感じた ようは、自分も鬼になった人たちと同じことが起こっていたら鬼になっちゃっていたかもしれない、みたいな見方が含んでいるところがよかったと思いました
悪に対してどう対処していくのかは日常的な問題だったりもします そもそも悪には2種類あります 一つは生存に不利益を与えるという意味での悪 多くの人がコレを悪と勘違いしやすい 自分の生活における、快/不快、利益/不利益、などを悪としてしまうと、自分の欲望をさまたげるものはすべて悪と考えてしまう もう一つは道徳的な悪 問題となるのは道徳的な悪についてであるし、ドストエフスキーで語られるのも道徳的な悪についてがほとんどでもある 道徳はそもそも「自分」に集約される戒めである 他者が自分に与える行為を道徳とは呼ばない 道徳は、自分が他者にどう接するかを問題としている 問題は、この生存を脅かす悪と道徳的な悪はたまに連鎖するということ この連鎖によって行われた悪に責任をどこまで問うことが出来るのか、そもそも人間がその責任を負えるのか、そういう問題は法解釈にもつながっていくし、各人の倫理にも関係していきます 死の家の記録では囚人たちを「不幸な人たち」と呼びました 囚人は悪い人たちではなくて不幸な人たちと表現されました 彼らは彼ら自身の不利益をはらった人たちでもある はらうために道徳的な悪を「手段」として行った人たちと言える 囚人になるのは不幸な環境に不運にも置かれた人たち(演繹:なので罪人こそ裁かずに哀れんでやらなければならない)というのがドストエフスキーの考え方だったりします 誰もがそうなっていた、もしくはそうなる可能性を秘めている ここにドストエフスキーの線引きが存在します 連鎖の渦中に陥った不幸な人たちは(神に)許される 行いは許されざる人たちではあるけど、哀れみがその上をいく可能性を認めている 許されざるべきは、悪意だけに寄せて道徳的な悪を犯した者たちである 虐げられた人々でも、この類の人は許されざる人たちとして書かれています この法則は他者の道徳には語りやすい 最大の問題は、自分が当事者になった時にこの道徳律を維持でき得るのか、それが問題です この連鎖に「自分が巻き込まれた被害者」である時、果たして人を許せるのだろうか
ちょっと話がずれるかもですが キリスト教のような一神教では善と悪は絶対的に峻別されるべき概念であり神及び神にまつわるものは当然かつ絶対的に善とされ 神に敵対する者や概念は絶対的悪として排除・矯正の対象となるのでしょう (それゆえに人間においては「悪」は規範の侵犯/原初的欲望の開放/自由などの概念と親和性が強くそれがカウンターカルチャーとしての悪魔信仰発生の契機となる) つまりキリスト教的一神教の世界では「キリスト教徒=味方にして善なる仲間」と「アンチキリスト=悪なる敵」が峻別される 一方多神教や無神論においては善悪は相対的概念であり 例えば日本人の多くは恣意的な概念である「人としての道に沿って生きる」ことを善としますが何をもって「人としての道」とするかはまちまちです 日本においては悪魔すなわち鬼は絶対的悪とはならずむしろ日常を超えた力を持つものとして神と同じ範疇で考えられたりもするので 鬼滅の刃が日本人の心を打ち大ヒットした理由も人間vs鬼(善vs悪)という善悪二元論に打ち勝とうとする人としてあるべき姿としての兄妹愛が日本人の心の琴線をかき鳴らしたからではないかと 鬼滅をよく知らないままに思いました
>>234 ずれていないですよ
いつかは善悪の話になるしかないですからね
旧約聖書と新約聖書でも一神教は変わらないけど、裁く主体は変わっていますので、神学的な話だと聖書も旧/新の時代で道徳的な基準は分けていかないとだと思います
ドストエフスキーは新約聖書の時代の基準です
旧約聖書の時代では、人が神の代理(預言者からの伝達)として人を裁きました
新約聖書の時代では、裁き司が遣わされ、その右に座するものがすべてを裁く権能を持っています
ヨハネによる福音書 5:22-23
父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。
それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。
裁く主体が変わったということです
新しい契約により道徳律は変わりました
迫害するのではなく愛することが新しい戒めとなりました
悪は対峙するのではなく避ければいいのです
それがドストエフスキーで問われている道徳的基準だと思っています
>日本においては悪魔すなわち鬼は絶対的悪とはならずむしろ日常を超えた力を持つものとして神と同じ範疇で考えられたりもする
ほんとその通りですね
アニミズムが根底にある日本人は自然を神と見做したりもしますので、多神教では神は身近なものに宿ると考えられるのかもしれません
>>235 ちょっとわからないところがあるんですが
>旧約聖書の時代では、人が神の代理(預言者からの伝達)として人を裁きました
>新約聖書の時代では、裁き司が遣わされ、その右に座するものがすべてを裁く権能を持っています
のところで
(モーゼ五書くらいしかまともに読んだことはないんですが)
出エジプトの頃は神が直接教えに従わない人間を裁き(罰し?裁くことと罰することは別概念ですか?)てたような気がするんですが
そのことと「人が神の代理(預言者からの伝達)として人を裁きました」とは
どう理解すべきなんでしょうか
また
「裁き司」と「その右に坐するもの」ってどっちかがイエスなんだろうと思いますが
だとしたらイエスはどっちでもう一人は誰なんでしょうか
自分を含めたうえで善悪を語ろうとする機会はなかなかないんじゃないでしょうか? 多くの場合は善悪といいながら自分の損得になっているのではないでしょうか? 大抵の人は自分が悪いこともしているのを自覚して生きていると思います だから目をつむったりあまり深く考えないようにして生きている でもこれでは本当に生きているとはいえないと思うんですね でも俺もほとんどはそうしているのではとも思います 過去の自分の罪を突き詰めていくとそれだけで崩壊するのに十分ではないでしょうか? 別の視点からするとそれはそれで知性が高いとはいいきれないとも思います 非常に難しいことで、まったく考えなくなっても終わりで、突き詰めてしまっても終わってしまいます
>>236 言葉が足らなかったようです
オレの中で「罰」は生存を保証されている叱責と理解しています(罪と罰とかもそうで)
「裁き」は生存を問わないかたちでの叱責、殺すことも含まれています
裁きの概念で真っ先に思いつくのはノアの洪水です
ノア一家以外の人類は裁かれて命を失います
これが裁きの概念だとオレは理解しています
>人が神の代理(預言者からの伝達)として人を裁きました
これは、旧約聖書では神が預言者に語りかけます
どこどこの民は腐敗しているので殺せとか奴隷にしろとか
で、預言者は自分たちの民を引き連れて侵略します
なので、神の代理として裁いている、という意味で書きました
> 裁き司とその右に坐するもの
両方ともイエスのことです(説明を省きすぎました)
地上でのリーダーと天上でのリーダーという象徴でオレが勝手に使っただけです(聖書から引用したあだ名みたいなもんです)
実はオレ自身、言葉が足りないことが多い自覚はあります
分かりずらい表現があるときは指摘して下さい
すいません
>>238 なるほど
旧約では神が直接もしくは神の代理人である預言者を通じて間接的に人間を裁いていたが
契約が更改され
新訳ではイエスが裁き司すなわち神の右に坐するものとして人間を愛をもって赦し人間を他者を許せというルールで縛ったという理解で合ってますかな
このスレもドストのテクストから離れてしまっている また別のスレを作ろうかな
>>241 スレ主降臨キターーーーーー
万能の創造主たる貴方にこんなこと言ったら即バン地獄行き決定という事なんでしょうが
ここは敢えて言わせてもらいます
ドストエフスキーがパロディ(先行するテクストを利用して作品に笑いや深遠さなどの作用を引き起こす手法)を随所に取り入れていることはバフチンにも指摘されており
ドストエフスキーのテクスト内に埋め込まれたそれ以外のテクストとの関連性を分析する間テクスト性の視点は
ドストエフスキーのテクスト分析には欠かせんもんでしょましてや
ドストエフスキーの思想のバックボーンである聖書にまつわる話題が
ドストエフスキーから離れてしまっているわけがない
と思いませんか
ドストエフスキーが知る由もない日本の仏教の一宗派のテクスト並びに一知半解の一宗徒の理解を延々と並べるような単なるスレ荒らしとの違いを全能なる貴方ならわかるはず
まあ別スレ作るかどうかは貴方の勝手だし面白そうなら遊びに行きますがね
というかドストのテクストで語りたいことがあるならどんどん書き込めよスレ主!
あ すいません生意気言いましたゴメンナサイ
>>239 その通りです
トルストイもそうだし、ドストエフスキーの道徳の基準は新しい契約をベースに考えられています
裁き主が定められた以上は裁いてはならなくなりました
人が人を裁いたならば、もうそれは越権行為です
すべては「拡大解釈」です
神を愛すること、隣人を愛すること、これに留まる行為は善としこれに違反する行為が悪になります
ドストエフスキーの善悪はすべてこれで理解可能だと思っています
新しい戒め ヨハネによる福音書 13:34
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
マタイによる福音書 22:37-39
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
1864年のメモはこの「新しい戒め」が人間の本性(自己保存の努力)と相反しているのかを問題としました
ちなみにトルストイの人生論もこれと同様です
「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする……人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。
そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう。」
>>241 希望するルールがあるならば是非言ってください
秩序のためにルールは必要だと思っているので、気になることがあれば是非ご提案を
>>237 まだ若いだろうに自省できるってだけで
オレなんかキミに感心しちゃう
>>243 なるほど
概念として旧い契約と新しい契約があってぐらいはわかってた気になってましたが
そんなにでかい差があるとは正直思いもよりませんでした
>>237 そのパラドックスを定義したなら身も蓋もないっすよ
死に至る病じゃないけどすべて絶望になってしまう
けど、その欺瞞を克服する良心がないなら動物と変わらないと思います
動物は自己を保存することのみが原動力だし、罪に対する概念は人間だけに与えられたロゴスでもあるとオレは信じています
言われたように、もっと鈍感に生きていく方が別の意味では賢いと言えると思いますけどね
>でもこれでは本当に生きているとはいえないと思うんですね
結局はこれがすべてじゃないんすか
少なくとも人間にとどまるしかないように思います
>>245 なんというか若くはないです言いにくいですが
>>247 やっぱり善人であろうとする意志だと思うんです
そこには知性伴ったうえで
>>248 じゃあ青年ということで手を打ちましょう
カラマーゾフの兄弟は若いうちに読んでほんとうによかったと思っています 数年前読んだ時はアリョーシャが毒にも薬にもならない影の薄い人物に感じてしまいました でも若い頃に読んではっきり印象に残っているのは、アリョーシャが善人であるということです もっともここで指摘されたようにリーザの告白に同意した面もありますけれど でも河合隼雄が名著猫だましいで書いているように、 どんな人間にも必ず暗い部分はあると思うのです これは以前まったく同じことを書いた気がします 坂口安吾も言ってたはずです、アリョーシャを書いたからドストエフスキーを評価するみたいなことを 俺はドストエフスキーの本はそれほど読んでいないので想像にすぎませんが、ずっと書くことを望んでいたのに書けなかったんでしょうねアリョーシャのような人物を カラマーゾフの兄弟という物語のなかでアリョーシャは光輝いている これが若い頃読んで今もはっきり覚えている感想です この間否定された意見をまた書いてしまいました それは違うと前書いた等、否定は短めでかまいません 2度目ですから
否定することはないように思うけど リーザの告白に同意したってどういうことでしょうか
たしかにわかりづらいですね 過去スレからコピって来ましたご容赦ください 悪魔がでてくる夢を見ると言ってニヤける少女に、僕も同じ夢をみる、 という指摘です
>>242 聖書を語りたいなら、ここで今後も書き込めばよい
別にドストスレが立ったから、もうこのスレに用はない
聖書の話題もお気に召さないとはハードですね 新しいスレを確認しました そちらにはスレタイにそぐわない書き込みはしないようにいたします
>>251 見つけましたよ
リーザの無意識の描写に違いないけど、何を意味しているのか解釈するには前後を読み直さないとのようです
捕まえられそう、ということは「何かを恐れている」と推測できるけど、追い返すやり方も知ってはいるようです
そして最後の、面白い、という感情で終わる夢
一体なにを意味しているのか考えることはとても楽しい
私は時々夢で、悪魔を見るの。夜、私が自分の部屋でろ うそくをつけると、突然、あちこちに、悪魔がいるの。部 屋の隅やテーブルの下にもいるし?扉を開けると悪魔は扉の向こうにたくさんいて、中へ入って私をつかまえようと しているの。近寄ってこようとするやつや、つかまえようとするやつがいるの。
そして私が急に十字を切ると、悪魔 たちは後ろに下がって,怖がって入ってこようとはせずに、扉のところで待っているの。そして私が突然神様の悪口を言いたくなって、悪口を言い始めると、悪魔たちは急に一 斉に私のほうへ寄ってきて、喜んで私をつかまえようとするの。
私がまた急に十字を切ると、また彼らは後ろへ下がるわ。
とっても面白いわよ。」
>>254 文学的にとは難しい縛りをかけたな
あとキミも相当ユニークな人だね
オレはドストエフスキーに宗教も哲学もぬいて論じるのは味気ないと思っています もちろんそれぞれ思惑や希望は違うんだから、そのスレにあったことをレスしていけばいいと思いますけど ということでオレは当分ここで、宗教的側面や哲学もしくは心理学的な側面からドストエフスキーを論じようと思っています
匿名なわけだからそこはおのおのシレッと書き込めばいいと思うんです 新しいスレは専門性に留意して
大げさすぎるけど俺はドストエフスキーは彼の作品の内に、特にカラマーゾフの兄弟の中に世界を作ったと思っているんです そこにははっきり言って創価学会も存在することができます ただ彼には限度がないので非常に困りました
悪魔がウジャウジャと出てくるリーザの夢 言われてみればあったかも 悪魔がらみで覚えてるのはゾシマ長老が亡くなる前後 修道院で暮らす奇人的な修道僧フェラポント神父が ウソかマコトか悪魔が辺りにうろちょろしてると言ったとこ あと神経衰弱に陥ったイワンの前に悪魔が現れるシーンもあった記憶があるし カラマーゾフの兄弟には悪魔のイメージが繰り返し出てくる ドストエフスキーは何らかの意図をもって書いてるのは確かだろう
>>256 はっきり覚えてないので少し違和感がありますがおそらくそこです
読んで今はなんかパイーシー神父みたいだと思ってしまいました不本意ながら
>>260 彼は、ドストエフスキーを使ってそうかを語りたかったのだと思っています
そうかを使ってドストエフスキーを語るということはしませんでした
その違いがよく分かっていなかっただけったのかもしれません
>>261 あれ?俺の記憶違いでしょうか?尻尾をドアで挟んでやったという
>>263 いい意見だと思います
彼が創価を通してドストエフスキーを語っていたら
>>261 結構カラマーゾフではみんな悪魔をみているんすよね
怖いけどw
悪魔は甘いもの好きとかなんとかもイワンが言っていたし
>>264 そうでしたか
今日はもう眠れなくなるので、あとで読んで該当部分を探してみます
>>264 >尻尾をドアで挟んでやった
そうです
あれは誰だったっけなと新潮文庫をパラパラめくって名前を確認しました
近くでパイーシー神父も出てくるのでごっちゃになったのでは
よくあることです
>>267 申し訳ありません
自分の間違った記憶を通さなくてよかったです
宗教や哲学の知識に触れずに大審問官についてのレスをするって可能なんだろうか って思ったら大審問官にも悪魔が出てくる!! カラマーゾフは悪魔だらけや
>>268 申し訳ありませんなんてそんな
申し訳ないことしたわけでもないのに
逆に恐縮です
自分で調べなかったことにに引け目を感じてのことです それではまた夜が明けたらです
スレ主の新スレ >>2-3と素晴らしい内容のカキ込みが続いてる 持ってんな
リーザの残虐性の話が出たので気になったので少し読み返してみました リーザは明らかにイワンに影響を受けている節があるのかもしれない リーザ 「最初まず両手の指を全部切りおとして、それから壁にはりつけにしたんですって。 釘で打ち付けて、はりつけにしたのね。そのあと法廷で、子供はすぐに死んだ、4 時間後に、 と陳述しているのよ。これでも、すぐにですってさ!その子供がうめきつづけ、うなりつ づけている間、ユダヤ人は突っ立って見とれていたそうよ。すてきだわ!」 「すてき?」 「すてきよ。あたし時々、その子をはりつけにしたのはあたし自身なんだって考えてみる の。子供がぶらさがってうめいているのに、あたしはその正面に座って、パイナップルの砂糖漬けを食べるんだわ。あたし、パイナップルの砂糖漬けが大好きなんですもの。あな たも好き?」 イワン 「赤ん坊をあやし、何とか笑わせようとして、しき りに笑ってみせる。やっと成功して,赤ん坊が笑いをたてる。と、そのとたん、一人のト ルコ人が赤ん坊の顔から20センチたらずの距離でピストルを構えるんだ。赤ん坊は嬉し そうに笑い声をあげ、ピストルをつかもうと小さな手を差し伸べる。と、突然、その芸術 家がまともに赤ん坊の顔をねらって引き金を引き、小さな頭を粉みじんにぶち割ってしま うんだ・・・芸術的じゃないか、そうだろう?ついでだけど、トルコ人は甘いものが大好きだ そうだ。」
俺も2回読んでますが、 2人とも雑誌などで見聞きした話を元にしてますよね 仮に自分でしたなら大問題ですがセーフじゃないでしょうか 1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365で、罪と罰をあげてドストエフスキーのことを現代人の意識を記した先駆けとして紹介していることを思い出しました 話は変わりますがイワンの幻覚について思うのは、 彼が統合失調症ではないかということです むかし少し知り合った人がある時虚空を凝視して怒鳴っている光景を見たことがあります 彼が精神科を受診していることを周囲に言っていることを伝え聞いていましたが、 見るにいたたまれない光景でした どうも統合失調症の罹患率は人口の1%らしいですね そんなにいるとは信じられませんが
イワンが大審問官をアリョーシャに聞かせる前に延々と幼児虐待の例を挙げてこの宇宙の存在に刻まれた罪を告発してたのは記憶に残ってるけど リーザの方はエキセントリックな女の子だとは思ってたけどこんな子だったか と改めて読むとちょっと衝撃的ですね これがアリョーシャの内々の婚約者ですからね アリョーシャをからかう為の偽悪の意味合いもあるんだろうけど それにしてもエッジが効いてる リーザで思い出すのは文芸評論家の対談かなんかでドストエフスキーの作品で明確なマゾヒズムの表現は少年に指をかなり深くまで噛みつかれたアリョーシャが帰った後リーザが自分の指を窓枠で思いっきり挟むところだって指摘してたけど こんな子と結婚してアリョーシャは大丈夫なんだろうか
言うまでもないことですがドストエフスキーの急逝により予告されていた物語は書かれることがありませんでした ですからリーザやアリョーシャの話はこれ以上ないことになります でもここでふと思うのです俺や他の人の話はこれからも続いていくのだと ちょっと前にドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟という世界を作ったと書きましたが、 それは自分の人生に今でもつながっていると感じるのです つまりカラマーゾフの兄弟の続きは私やあなたの人生だと思うのです 亀さんが新カラを書きましたが以上をふまえるともっともなことだとも思えてきます読む気はないですが
>>274 ある人間が精神病であるかどうかを決めるのは、彼と私との一致の欠如、不一致、衝突である
レインはそう定義しました
テーブルの上にリンゴが置いてある
私にはそのリンゴは青色に見える
多くの人にはリンゴ自体が見えていない
この場合は病気と認定できるのかもしれない
彼が嘘を言っている、もしくは曖昧な言い方をして何かを隠している、そういう理由がなければ妄想とみなします
より多くの人が「そこにリンゴはない」という立場であるならば、「青色のリンゴがある」という人が精神病とされます
で、結局のところリンゴはあったのかなかったのか
「私」には青色のリンゴはテーブルにあるのです
この「私」がなんと言われようと、精神病と認定されようとリンゴは妄想ではなく実在を伴った現実として確かに存在しているのです
「私」には、リンゴがないという人が妄想に陥っている人である、と確かに言えるのです
これがイワンの幻覚、悪魔と言われる正体だとオレは思っています
悪魔
「僕は君の幻覚でこそあるけれど、ちょうど悪夢の中のように、君がこれまで頭に思いうかべたこともないような、独創的なことを話しているだろう。だから、こうなるともう僕は君の考えを蒸し返しているわけじゃない。にもかかわらず、僕は君の悪夢でしかないし、それ以上の何物でもないんだからね」
イワン
「嘘をつけ。お前の目的は、ほかでもない、お前が一個の独立した存在で、俺の夢ではないってことを、俺に信じこませることじゃないか。だから今だってお前はわざと、自分が夢だってことを強調しているんだ」
>>275 オレが思うに、だからアリョーシャはリーザに惹かれるんすよ
アリョーシャがリーザに傾くのは蓋然的なことだと思われます
ムイシュキンがナスターシャだったのと同じ理由です
苦しんでいる人、腐敗している人こそ自分を必要としてくれるんすよ
医者は健康な人にはいらない、病人にこそ必要です
> 亀さんが新カラを書きましたが以上をふまえるともっともなことだとも思えてきます読む気はないですが 亀山さんいいね、すごく分かる まあ読みはしないけどね シュールで爆笑しました その気持ちは分かるw
>>278 >医者は健康な人にはいらない、病人にこそ必要です
これだって聖書からの引用です
ムイシュキンがアリョーシャのひながただし、キリストがムイシュキンのひながたです
リーザが残酷になればなるほどアリョーシャは傾いていくのだとオレは結論づけました
マタイによる福音書 9:10-12
それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
ガチ訂正 ○アリョーシャはムイシュキンのひながただし、ムイシュキンはキリストのひながたです 反対にしてしまった、すいません
2回目を亀さんで読んだとき虚空への怒号を目の当たりにした経験もあり、
イワンを統合失調症だと思ったのですが、
>>277 を読むと、そうでしたイワンの幻覚の登場人物はめんどくさいことを言ってくるんでした
それでも俺はイワンは精神病だと思うのですが、
あなたは違うという意見のようですね
イワンもフェラポント神父のように見たいから見えているんでしょうかね?
俺はフェラポント神父は見たいから見えているんだと思っています
>>281 訂正の必要がないと思うのですが?
ひながたを元という言葉に置き換えても最初の方だと思うのですが
このスレを立てた人が新しいスレを立てましたね そちらにも注目はしていますが まずはこのスレを立ててくれたことに感謝します 今までだけでも学ぶところがありましたから 新しいスレにもそのうちふさわしい書き込みをする人が現れるとまた学べることになると思っています 別にすぐ結果が出る必要はないでしょうし
>>282 誤解だらけの言い方で申し訳ないけど、オレは基本的に精神病という概念自体を疑っているんすよ
それならあらゆる神秘が説明できなくなります
という個人的な見解の上で、という「注」を入れるべきでした
イワンは明らかに精神病ですね、同意します
現代だったら、イワンは一時的にか否かはともかく、精神が分裂しているので統合失調症に間違いないと診断されると思います
言いたかったのは、病気としてしまうと、イワンの苦しみ=妄想だから「ない」ものとされれしまうような結論も出せる気がします
特殊な人に起こっている現象だから、みたいな差別化を避けていかないと、遠い国での御伽噺ってことになりかねないような気がしたのでレスしました
妄想の現実化は架空の想像ではなく、実在論的に現実を伴った不一致なんだとオレは理解しています
と、哲学的にしか説明できません、ごめんね
>>283 もう頭がこんがらかってきたw
前の方(訂正する前)でいいみたいっす
>>284 文学的ってどういうことだと思いますか
オレはいまいち文学的の意味が分からないようです
>>280 病人(ぽい人)に惚れちゃうパターンてドストエフスキーの最初の結婚とそれに次ぐ恋人との愛憎劇を考えると
骨がらみの性(さが)ですかね
悪女に惹かれる無垢な青年てパターン? しかしアンナ・グリゴーリエヴナは悪女ではないな
ドストエフスキーは登場人物を精神的拷問に近い状況にわざとおいて作品を書いていった(バフチン)らしいけど
>>281 ひながたって実物模型って意味だから前ので合ってる?
よくわからなくなってきた
>>288 >ドストエフスキーは登場人物を精神的拷問に近い状況にわざとおいて作品を書いていった(バフチン)らしいけど
なるほどー、そういう読み方もできるかしれない
思考実験みたいな感じですね
まあ、ドストエフスキーで恋愛譚の対象になるのはかわいそうな人が多いので(アンナを省く)、哀れみは恋に落ちやすいと分析してみるw
>>289 哀れみの感情を抱いているうちにその人を好きになっちゃうパターンが
ムイシュキン→ナスターシャ
アリョーシャ→リーザ
と繰り返されているってことですか
やっとわかりました確かにありますね
そう考えると
ラスコーリニコフ→ソーニャ
も哀れみ→無関心又は奉仕に対する感謝→愛情という感情の流れの大枠は
哀れみ→恋愛感情というパターンと似てますね
それはオタク風にまとめると ドストエフスキーにおける純情男子が地雷系女子を好きになる構造 ということになりますか スミマセン飲み疲れで脳がバカになっちゃってて
>>276 亀山郁夫の『新カラマーゾフの兄弟』と同じ疑似続編として
乱歩賞を取った高野史緒の『カラマーゾフの妹』というのもありますよね
どっちも未読ですが
新カラ兄弟は読んだことない ぴんから兄弟の「女のみち」なら知っている ラスコーリニコフに恋するソーニャがモデル
『演歌の虫』で直木賞を獲った作詞家山口洋子が作詞した「よこはま・たそがれ」(五木ひろしの唯一のオリコン1位獲得作)に ハンガリーの代表的詩人アディ・エンドレの詩「ひとり海辺で」からのパクリ疑惑事件があったように 当時の先端ポピュラーミュージックの一角を担っていた演歌の作詞家が文学的素養を備えていたのはある意味当然と言えば当然だけど 「女のみち」のモデルが『罪と罰』のソーニャだったとは知りませんでした 面白い話なので出典があれば知りたいです
当時、レコード大賞を争った「喝采」と「瀬戸の花嫁」より、 「女のみち」の方がレコードの売り上げは上回っていたのに、 あれは売春婦の歌だからという理由で賞レースから外されたという
>>295 穿った見方をすれば「喝采」を選ぶため選考委員会があえて外す理由を探したのかもしれませんね
というのはいいとして
煽る気はさらさらないのですが
売春婦の歌なら例えば「肉体の門」が元ネタの可能性も出てきませんか
>>296 こういうの素顔が分かって面白いと思う
誰を被写体にしていたのかすごーく気になります
けっこう続編書いている作家がいるもんですね 亀山さんだけかと思っていた 時間ができたら一度読んでみたいとか思うけど、どうせオレのことだから粗探しが始まるんだろうと思った こんなのアリョーシャじゃない!とか言って
レ・ミゼラブルや高慢と偏見の続編を書いた人もいたような
>>277 横から失礼します
オレはレインを読んだことはないですが今でいう統合失調症(以前は精神分裂病と呼ばれてましたね)に関心があって木村敏が書いた講談社現代新書「異常の構造」とかの一般書は読んだことがあり
あと精神と物質が別々に存在するってどういうこと?と考え込んだ時期があります
レスを読んでお聞きしたいことが二つあって
正常(健全な状態とされる状態)と異常(精神病とされる状態)について
オレは人間は遺伝子の存続と承継に沿った状態を正常と判断するようにできてると考えてますが
ご自身は正常と異常についてどうお考えですか(スイマセン質問が曖昧で)
もう一つは存在論というか認識論について
イワンが悪魔と対話していた時イワンにとって悪魔は実在していたというお考えのようですが
とすると物が存在するかどうかは認識する人次第ということになりますよね(オレはそっち系で考えてます)
では物が存在するってどういうことだとお考えですか
もっとオレの問題意識に引き寄せて質問させていただけば(一知半解の素人考えですが)
デカルトやカント風に精神と物質は別ものと考えるのか
それとも物自体が実体として存在するかどうかはいったん置いといて
精神に現れる現象を問題にすべきだ(フッサール?)
とか
精神と物質が実体として存在するに先立ってその間の関係が存在する(ソシュール?)
とか
精神物質二元論ではない方向でお考えなのか
それとも別のお考えをお持ちなのか
お時間がありましたらお願いします
>>304 質問されたのは、人格的な正常と異常についてということっすよね?
どの分野に置いて正常か否かを判断するかで意味合いは変わってくるけど、人格的な場合について言うとすれば、それは他ならずアイデンティティの問題だと思われます
世界の構成は自分と他者です
対自存在と対他存在が一致していないものを異常とオレは定義します
対自存在とは自分の目にうつる自分
対他存在とは他人の目にうつる自分
これは人格に問題がない場合は大体が同じになるんすよ
簡単に言うと、「自分がこういうことをやれば相手はこういう印象を持ってくれるよね」と想像して人は行動するわけです
「一致しないこと」ではなくて「どうやっても一致できない」人は異常と言えます
この二つが一致しないならば、彼は世界と分裂していると言えるからです
他にも色々あるけど、大きなところでは、もう一つは時間的連続性の欠如がある場合も異常だと定義できます
簡単に言えば、過去の自分が自分であることを「どうやっても同じだとは思えない」人は異常です
「私」は自分という存在を時間の中で認識します
過去の自分が現在の自分と同じであり、同じ自分が未来でなにをやろうとも自分であることを疑ったりはしません
それが出来ない場合、彼は自己と分裂しているといえます
ここまでくれば分かると思うだろうけど、イワンがとても例なんです
イワンは、アリョーシャが「犯人じゃない」と言ってくれても信じられません
自分の目にうつる自分と他人のそれが分裂しているからです
イワンは、悪魔が過去の自分であることをいつまでも疑っています
過去の自分が自分だと思えないからです
受け入れられないのではありません、思えないんです
彼は時間的な感覚を失っているからです
イワンは異常であり精神病者である、と結論できます
このへんの定義がオレが思う正常と異常です
>>304 >精神物質二元論ではない方向でお考えなのか
>それとも別のお考えをお持ちなのか
オレは基本的に観念論だけど、肉体の存在が「ない」とか世界は「現象」にすぎないとか考えるのは危ういと思っています
人間の本質が魂であるにしろ精神であるにしろ、この「私」は肉体をもった、受肉した存在として現在なお生きていることを分離すべきではないと思っているからです
魂と肉は並行するのかもしれません
そして上下する概念も必要だと個人的には考えています
それをなんと呼ぶか、キリスト教なら霊というのかもしれません
形而上の言葉を並べることになってしまうので割愛しますが、観念論がオレには一番近いのではないかと自覚しています
あなたはなんですか?
>>307 オレは魂とか霊とかはまだよくわからないんで
ヒョードル・カラマーゾフと同じです
で存在論認識論的にはソシュール的な関係論ですね
精神も物質も実体はなく関係が生じると世界が現象するというイメージです
お聞きしたいのですが
対自・対他の概念て吉本隆明やサルトルが使ってたと思いますが元はどこですか
(ググれって話ですが)
あと観念論というとカントが思い浮かぶんですが
ご自身の考え方に近い思想家なり哲学者はいますか
>>308 精神分析なんかで使うんすよ
なので今回は心理学的な用語として使いました
元はサルトルの言葉であっているけど、イワンを例にあげられるように「精神的な異常」についてレスしたので、つまり精神病者の判定についてなので、「自分の目から見た自分」の自分と他人という意味で使ったのはレインです
今回はサルトル的な解釈ではなくレイン的な解釈に基づいて対自/対他としました
参照されるならばレインについてググってみてください
プラトンです、ティマイオスを読んでみればオレなんてすべて見透せますよw
短いし、文庫は出てないけど、読みやすいので機会と時間があったら読んでみてください
あとはキルケゴールかな
キルケゴールの宗教的な部分ではなくて、自己を分析している箇所についてはドストエフスキーとかなり近いものがあると思っています
短絡的にいえば破滅型なんすよね
究極に自分について問い詰めると破滅するしかない、みたいな感じが好きなのかもしれません
>>309 プラトンとキルケゴールですか
シックリきますね
>>308 一つだけ伝えておきたいことがあります
今誰もが持っている常識とか、もっと言うと、自分自身についての見方もそうだし、目に見えるものの存在を「本当のところはどうなのか」は別にして、なんの疑いもなく存在していると確信していると思います
精神も物質も現象ではなく存在していると確信していると思います
で、本当は何もないことを知るとか、すべては空であり色にすぎないとか、もちろんその類の探求は魂の質を向上させより高いところに流れられるかもしれません
でも、当たり前の確信があるから正常でいられるということを忘れるべきではないと思います
善悪もそうです、誰もが持っている倫理観を興味から手放してしまうと人格が分裂します
伝統的な言葉で言えば「魔境」です
心理学的に言えば自己肥大化です
なのでこういう話を読む時も、誰かと話す時だって、思想は思想、自分は自分だとおもって飲み込まれないようにしてもらいたいと思っています
道具は道具なんです
余計な一言かもしれないので、そうだったらスルーしてください
これはドストエフスキーの言葉では以下です
「善悪、すべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手にいれた瞬間、私は破滅する」悪霊
>>311 ご心配いただきありがとうございます
思想や観念に呑み込まれないように気を付けます
>>311 それにしても
関係論が色即是空で野狐禅でやると魔境/自己肥大に陥るとまで見抜くとは
恐るべき慧眼ですね
自分でも善悪のリミッターが外れてたら確実にサイコパスだったと思います
ちびちびと読み進めてる「貧しき人びと」 折り返しを過ぎてワルワーラの保護者然としてきたジェーヴシキンが保護者然とするために借金を重ねていたことがワルワーラにもばれて 逆にワルワーラから小銭を恵んでもらったり ワルワーラにちょっかいを出してきた小金持ちの若者の家に飲んだくれて押し掛ける等の醜態を見せ始め 前半のほのぼのした雰囲気が一変 再読ゆえ結末はしってるものの 処女作とはいえ構成もしっかりしてると感心する
『貧しき人々』 ドストエフスキーの処女作とされる中編小説。1846 年『ペテルブルグ文集』に発表。物語は、ペテルブルグの裏 町に住む 50 歳に近い小官吏ジェーブシキンと薄幸の娘ワ ルワーラとの往復書簡の形で進められる。二つの善良な魂 の間に芽生えた恋は実らずに終わるが、作者はこの不幸な 恋を語りながら貧しく無力な人々の孤独と屈辱を訴え、人 生の意義を追求する。この原稿を読んで感激したグリゴロ ービチとネクラーソフが早朝に作者をたたき起こし、「新 しいゴーゴリの出現」を祝福し、彼をベリンスキーに紹介したことが、24 歳の無名作家を一躍文壇の寵児と押し上げ る契機となった。 【参考出典:江川卓解説、『原久一郎訳『貧しき人々』(岩 波文庫)▽木村浩訳『貧しき人びと』(新潮文庫)
江川卓大先生に楯突くつもりは毛頭ないけど あれは恋なのかなぁ ジェーヴシキンは表向きかわいい娘と疑似家族的関係ができてウキウキで実は秘めた恋心があっただろうけど ワルワーラは全然でしょ 母親を亡くし天涯孤独の身となり 世話になってた遠縁のおばさんに望まぬ縁組を押し付けられそうになって困窮してたところを助けてくれた ジェーヴシキンを恩人友人として親しく思いこそすれ 恋? それはないと思うがどうでしょう
解説に限っては恋愛譚なんでしょうね ただし、ワルワーラの思いを恋心と認めない人はおそらく誠実な人でもあるとさえ思います 個人的に面白いのは、書簡のやりとりで恋心を抱くということ 真っ先に思い浮かぶのは、現代でもゲームやメールからいつのまにか「会っていないのに」恋におちる人々がいるということ ワルワーラの思いを恋心と言えるのかどうかは怪しいのかもしれないけれど、もし恋心は身勝手な相手へのイメージの執着と仮定するのならば、ワルワーラもそれと同じであるとさえ言えるのかもしれない 貧しい少女は素直で穢れなき存在と盲信する中年も、それを、いつかこの貧窮から救い出してくれる王子様と思い込む少女も理想が恋心に変わっていたのかもしれない 捻くれた解釈で恋心なんていうものを説明すれば、という話ですけどね
「貧しき人びと」は書簡体小説ですが 二人の手紙の中にはワルワーラの手記やジェーヴシキンの知り合いの三流作家ラタジャーエフの小説(作家によるセルフ引用) 更にはプーシキン全集やゴーゴリの外套など様々なテクストが顔を出します バフチンのいうパロディの手法なのでしょうが 似たようなテクストごちゃまぜ小説(と言ったら怒られそう)として思い出したのが ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」とスティーブン・キングのデビュー作「キャリー」 あと小説ではないけれど放送時アメリカにパニックを巻き起こしたと言われるオーソン・ウェルズによるラジオ放送「宇宙戦争」 で思ったのがこのパッチワーク的手法って雑誌や新聞の編集と似てるのかなと という事は雑誌等の出版文化が花開いた19世紀(かどうか知らんけど)的小説作法なのかなと思ったりした それはそれとして そのワルワーラの手記の中に薄幸の青年ポクロフスキーとの淡い恋の思い出がでてきますよね その時のワルワーラの感情とジェーヴシキンに対する感情はちょっと違うものなのかなぁと今は思ってます 余談ですが病で亡くなったポクロフスキー青年の葬式の場面 言葉は悪いけどベタでメロドラマ的(と言ったらまた怒られるか)な場面ですが 息子を亡くした父親の悲しみが切々と胸に迫ってきて上手いなあと感心する
パッチワークと言えばあれだ 夢野久作の「ドグラマグラ」もそうだ オレの片寄った読書歴から思い浮かぶのはエンタメばかり 海外では純文学と大衆文学という区分けはないらしいが 芸術系とエンタメぐらいの区分けはあるのかしら
純文学っていう区切りは日本特有の分野みたいですね エンタメかそれ以外、という認識みたいです あとは作者が死んでるか生きてるかの違いもあるみたいです ちなみにオレが海外で本棚で見かけた人第一位は村上春樹だったけど、エンターテイメントのジャンルで売られていました
>>318 貧しい人々って、プーシキンやゴーゴリのテクスト出てきてました?
そうだったのか、やはりロシア作品はつながりまくりですね
>>321 文章の引用はされてませんが
作中の三流作家が三流たる所以をプーシキンと対比して表現したり
下っ端官吏のジェーヴシキンがゴーゴリの「外套」をのぞき見趣味だ的に憤慨したり
ドストエフスキーは敬意をもって二人の名前を作品の重要なモチーフに使ってますね
なるほど、やっぱり外套はいつか読まなきゃと思う ドストエフスキーを読んでいるとプーシキンとゴーゴリあたりの名前をよく聞く よく思うのは、オレらからすれば古典であり純文学でもあるけど、当時の人からすれば大衆文学だったし、雑誌に搭載されている1コマに過ぎなかったんだと思うとなんか不思議な気持ちになります
外套なんて短いからさっさと読めばいいのに。あの小説は味があって好きだ
忙しいとちょっとした短編でもなかなかね ググったら青空文庫にもあった「外套 ニコライ・ゴーゴリ 平井肇訳」 青空文庫の横書きで小説を読みたいとは思わんけど
外套は短編なんですね ほんとだ、岩波で外套と鼻になっている
>>325 まだはじめたばかりの読んでる本があるのと、物語って新しく読み始めるのに、よし読むぞ!みたいな気持ちが必要じゃないすか
登場人物も新しく覚えていかなきゃいけないし、世界観も作者によって変わってくるし
もちろんこういう気持ちは初めて読む本に限ってのことで、再読にはわきおこらないですけど
それにしてもカラマーゾフなんていう長編を、オレは初めて目にした時によく読む気になったと思う
みんなそういう感じを持っているんだと思っています
わかります 話はズレますけど オレなんかドストエフスキーの小説を読んでる途中でさえなんていうかお腹一杯になっちゃって 食休みに半月とかあけてよし読むぞ!みたいな気持ちになってからまた読み始めることの繰り返しです ホントは読みだしたら止まらなくなって徹夜で読んじゃいましたみたいでありたかったけど
>>329 文字による物語はイメージが必要だからなのかもしれないし、想像することが満たされるとお腹いっぱいになるのかもしれないっすね
漫画やアニメなんかだとすでに映像化されていて、イメージは代行されているから徹夜気味になったりする
そう考えると、ドストエフスキーも漫画化されているのをちらほらみるけど、漫画で読んでみるのもあるなのかもしれない、なんて思ったりしました
そういう意味で言うと、オレは本でも物語じゃなくてなんかの解説とか評論文なんかは疲れないんすよね
多分、イメージ化する想像力を必要としていないからだと思っています
話は変わるけど面白いサイトを見つけた
テクスト論と作品論について
https://liberal-arts-guide.com/the-theory-of-text/ テクスト論は多様な解釈で読み手側に委ねられていると考えるようです
作者自身も意識していないことを読み取っていこうとする解釈論
作品論は、作者=作品を前提としている
作品を書いた作者が正しい解釈を持っているはずだから作者に委ねられていると考える解釈論
読む限り、バルトが考え出したような感じだけどオレは彼について縁がなかったのでよくは分かりませんが、スレが分裂した(このスレとのこと、前スレは違う)理由もこんなところなんだと思いました
個人的にはテクスト論を支持するのかもしれない
なぜなら理由は単純で、オレは無意識の部分をかなり重要視しているから
作者ですら気が付かずに書いてしまったものが作品にはあると思う、それが作者の無意識的創作だと思うからです
今誰か漫画やアニメと言いましたね? 書きづらかったけど書きたいことを書きます(強引) 先日アマゾンプライムでどろろ(2019年版アニメ)を観て登場人物のどろろと百鬼丸のことが大好きになってしまいました ちょうど映画天気の子もテレビで観て、どろろと天気の子ってテーマが一緒じゃーん!と感心してしまいました 天気の子は1、2年前に映画の歴代興行収入13位を記録したので、最近多くの人が支持したものと言えましょう またドストエフスキーと関係ないことを。とお怒りになる方がいるかもしれません ですが俺はこの2つの作品に共通するテーマに対し、それぞれの主人公たちがとった行動をみなさんにも観てもらいたいのです これはキリスト教に重きを置きながら日本という東洋で生きる人間にとってぜひふまえる必要があることだと強く思うからです どろろはトータルで8時間ほどになってしまいますが、ぜひ最後まで観ていただきたい 手塚治虫の原作1巻を今日借りてちょっと見たのですが、原作とは違うところがけっこうある印象です 天気の子は実はそれほど好みではないのですが、このテーマを多くの人に受け入れられるように作り上げたことに頭が下がります これらの作品を観てみなさんはきっと、こんな話は前から知っていたと思うことだろうと思いながら、それでもこうして書かずにはいられないのです
>>331 「ある作品が「永遠」なのは、さまざまな人に唯一の意味を強いるからではなく、ひとりの人間にさまざまな意味を示すからである。」
なんなんこの人 天才? あ これがロラン・バルトか
>>334 視点をどこに置くかで物事や事柄さえも変わりますね
あらゆる解釈の客体は主体に含まれている、と考えるのは正しいのかもしれない
認識論や独我論は人間存在について語ることが基本だけど、読書そのものの性質が主体にせざるを得ない気がする
書く人間の目的は読んでもらうことであるし、読まれる意図を持たないならば日記と変わらない
もうそこで作者も作品も誰かの客体を演じることを目的としているような気がする
だから主体は読者である、と言い切ってしまってもいいとさえも思います
> 「ある作品が「永遠」なのは、さまざまな人に唯一の意味を強いるからではなく、ひとりの人間にさまざまな意味を示すからである。」
>>335 名前だけは知ってたロラン・バルト
それこそ文学的と言うか詩的な表現で通念を180度転換する物事の本質を突いた視点をサラッと書いて見せる洗練された知性に舌を巻きました
俗っぽいオレのイメージするフランスの知識人そのままを地でいく知の巨人という感じ(オレの表現がダサい)
『作者の死』から読書は始まるってことですかね
今まで敬遠してたけど著作に手を出してみようかな
このスレ(?)で話題に挙がってたので図書館から中央公論社のお手軽世界の名著「オウエン サン・シモン フーリエ」「ショーペンハウアー」を借りてざっと読んでみた このスレで誰かが言ってた通りフーリエは天才 というか狂人? いややっぱり天才? かわからんけど 空想的社会主義者とマルクスに煽られた3人だがその信者がアメリカでその思想を実践すべく武者小路実篤の新しき村的な実験を行ってたことを知った 「悪霊」でシャートフとキリーロフがアメリカに行ってどっかでゴロゴロしてたってエピソードがあるけどそれってこれのことかなと思った フーリエの「新しき村」に参加してゴロゴロしてロシアに帰ってきたってこと? フーリエはオウエンのことをボロクソに書きショーペンハウアーはヘーゲルのことを蛇蝎のごとく忌み嫌ってて 二人とも思想廃人的な晩年を送ったところも似てて(ショーペンハウエルは最晩年大逆転の大人気文筆家になるが)面白かった フーリエはドストエフスキー(ただし青年時代限定)一方ショーペンハウアーはニーチェという弟子(?)を持ったという事でもって瞑すべし という感じかな
>>337 読んだんですか、ちなみにオレは愛の新世界と四運動の理論を読んだけどほとんど理解できませんでした
デカルトの情念論を延長させて天体の運動と関連付けれたら立派なフーリエが出来上がる、みたいな感じでした
アソシアシオンで人間は生きていくべきとしました
ようは協同体ですね
ちなみに意外ですが、幼稚園なんかはアソシアシオンの「ファランジュ」です
アソシアシオンとは非営利の福祉団体のことで、今で言うボランティアの延長ですね
フーリエが目指すユートピアでは、その団体にキリスト教社会主義を足した世界観なんだと思われます
ドストエフスキーはフーリエ主義を研究するサークルであの有名な逮捕に繋がります
協同体はある意味で独自のルールを設けるので、政府から見れば異分子なんすよね
ショーペンハウエルは「生きる意志を否定せよ」です
ニーチェは「生きる意志を肯定せよ」です
ニーチェはショーペンハウエルの「意志」については影響を受けていますが、演繹された答え、最後に行き着く結論は背反対になったようです
ちなみにオレのオススメは「自殺について」です
>>338 読んだは盛り過ぎました
正直に言うとページをめくりながら印字を眺めたってところです
デカブリストの乱を経験してるロシア官憲からしたらフーリエ主義は超危険分子でしょうね
きっとそうですね 奇人狂人の本なんでしっかり読もうとするならかなりの覚悟が必要だと思われますw
ロシアのロマノフ王朝は最終的にフーリエ主義等の後継のマルクス主義信者によって命脈を絶たれるわけですから ドストエフスキーが生きたロシアの19世紀が激動の時代であることは間違いないですね
ついでにゴーゴリの外套を再読してみようと光文社古典新訳文庫版ゴーゴリ「鼻/外套/査察官」浦雅春訳も図書館から借りてきた 冒頭部分を無断引用すると 「えー、あるお役所での話でございます……。まあ、ここんところはそれがどこのお役所であるかは申し上げない方がよろしいでしょうな。なにしろ、省庁にしろ、連隊にしろ、官庁にしろ、ひとことで申しまして、お役人ってえ人ほどこの世で気のみじかい人はございませんから。」 この調子で延々と終わりまで続くんだが正直最初のページで読む気が失せた ゴーゴリのおもしろさを広く現在の読者に伝えようと編集部と翻訳者が決めたんでしょうな 落語の文体で訳せばみんなおもしろがるに違いないと 初代三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にして二葉亭四迷が『浮雲』を書いたと言われ明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼしたということは聞いたことがあるし オレ自身も5代目古今亭志ん生が好きでCDを何枚か持ってるけど この翻訳は少なくともオレには合わなかった 今の時代の若者はあまり本は読まないけどお笑い好き→お笑い?なら落語で って発想はどうなんでしょ 昔志ん生の落語をそのまま本にしたのを読んだことがあるけどイマイチだった覚えがある 落語は噺家が話すのを聞くのが面白いのであって素人が落語を読んでも噺家の話術レベルで読むことは難しいってことなのかもしれない しかも江戸落語文体 上方こそがお笑いの本場とおそらく思ってるであろう上方の読者に受け入れられるんだろうか 「落語言うたら上方落語や辛気臭い江戸落語ことばで書いた本なんか読んでられるか」と一蹴されるのではないか 青空文庫からコピペ(岩波文庫版「外套・鼻 」平井肇訳と同一) 「ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。おしなべて官房とか連隊とか事務局とか、一口にいえば、あらゆる役人階級ほど怒りっぽいものはないからである。」 岩波文庫を借りてくればよかった
>>343 赦してつかーさいよ
ウィキによると
「ドストエフスキーは、「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と語ったと言われる。」
がそれは誤りで
「ドストエフスキーの全著作および書簡に、この言葉は存在しない(『作家の日記』に書いたとする松岡正剛の記述は誤り)。
この言葉(Nous sommes tous sortis du Manteau de Gogol)の初出は、フランスの外交官で文人のウージェーヌ=メルシオール・ド・ヴォギュエ(Eugène Melchior de Vogüé, 1848-1910)がその著作『ロシア小説』(Le Roman russe, 1886年刊)のドストエフスキーを論じた章で、
「四十年来文学の歴史に深く関わってきた一人物」の口に託した言葉であり、それがあたかもドストエフスキーその人の発言であるかのように誤って広まったとされている(青山太郎著『ニコライ・ゴーゴリ』(河出書房新社、1986年9月)、411ページ)。」
とのことです
ちなみに(前にも書きましたが)オレがいまだに読み終わらない「貧しき人びと」で言えば
ゴーゴリの「外套」が作品の重要なモチーフとして使われていますよね
(続き) ところでこの作品のエピグラフ 「いやはや、世間の小説家たちときたら、困ったものだ! ……ただもう地下の秘密を洗いざらいほじくり出すばかりではないか…… いや、なんとしても、あの連中がものを書くのを禁じるべきだ…… V・F・オドエフスキー公爵」 オレは昔からなんでドストエフスキーは処女作であるこの書簡体小説のエピグラフにこれを置いたのかわかりませんでした 今回 下っ端官吏のジェーヴシキンがゴーゴリの「外套」を読んでのぞき見趣味だ的に憤慨する場面を読んで ああこれかと つまり バルザックが大成させた写実主義小説は貧富にかかわらず市井の人々の生活・心情の実際を掘り下げて活写する面白さが身上だと思います 下っ端官吏の悲劇(?)をペーソスとユーモアを持って書いた「外套」を読んだジェーヴシキンは オレの惨めな人生を世間にバラしやがって## と憤慨するわけです この作品を書く前にドストエフスキーはバルザックの「ウジェニー・グランデ」を翻訳しています 文体修業ですかね ドストエフスキーは自らも写実主義で小説を書くにあたって 人々の人生をリアルに切り取って物語にする写実主義小説というものが 一面から見れば暴露趣味露悪趣味のケシカランものだ しかしそこが面白い という思いをこのエピグラフで表現したのかなと思いました それにしても処女作の冒頭に小説家がモノを書くのを禁止しろって文章を置くあたり やはりタダ者ではない?
>>342 なるほど
岩波の方が良さそうですね
これから読もうと思っているオレにはタイムリーなレスに感謝します
>>346 是非感想を教えてください
ゴーゴリスレにも 是非
ナボコフはドストエフスキーは芸術未満下手くそで仰々しいだけの三流作家と こき下ろしてますが、もちろん悪霊扱いされた西洋化したロシア人そのもの、ユダヤ人の妻を 持つナボコフからしたらあらゆる意味で否定しなければいけない存在だと思いますが 今、日本人がドストエフスキーを読む価値ってどういうところにあると思いますか?
光文社の外套はあれはあれで好きだけどね 外套も鼻も真面目に読むというよりあれくらいバカバカしい態度で読んだほうが楽しいのでないかい
>>348 完全に芸術音痴のオレがお返しするのも烏滸がましいのですが私見として
個人的には時間に余裕のあった学生時代にはいろいろな作家の作品に手を出す余裕がありましたが
だんだんと暇も興味もなくなり今となっては娯楽趣味として単におもしろいから読んでるだけなので
今、日本人がドストエフスキーを読む価値とは何かという問いは難しいですね
ここからは脱線しますが最近思ったことを書きます
ユングによると個々の人間は思考・感情・感覚・直観タイプに分かれ
それぞれ生まれつき得手不得手の分野がありしかもそれぞれ外向的内向的に分かれるらしいんですが
例えばたまの休みにチェスの修行に海外へ行く棋士の羽生さんは(たぶん)思考タイプ
死の床の枕辺に夏目漱石の草枕の翻訳本が置いてあったというピアニストのグレン・グールドは感覚タイプじゃないかと
芸術(美)を好み素で楽しみ批評できるのが感覚タイプの人なのかなと思います
オレはむかし俗流心理テストでどのタイプかやってみたところ感情タイプと直観タイプに同点で当てはまるということでした
つまりものを考えることと感覚的に世界を感受し美しいものを美しいと感じる能力に乏しいと判定されたということで非常に憤慨した覚えがあります
でも当たってるなと
いまだにそのまんま生きているオレにとってドストエフスキーの芸術的価値を語るのは荷が重いですスイマセン
>>349 同意です
でも関西人の方にはどうなんでしょうと今でも思います
>>351 ゴーゴリ作品の語り口が上方言葉であろうが江戸弁であろうが、ほとんどの読者はそんなこと気にもしないと思うけど、どうですか
>>348 価値自体が個人的な側面を持つので、すべての人に値する実りを求めることは難しいように思われます
まずは社会的な基準という意味で価値を求めれば教養です
世界的な文豪の内容を知ることは知識の獲得であり、特に知識を重んじる文明国において教養がある人間とは、社会的な人間の評価につながります
もう一つは私的な意味での価値
私が持つ形式の中でどれだけ根拠を求められるかどうかによっているような価値基準です
質問は、日本人が、ということなので、教養としての価値くらいしかないんじゃないでしょうか
>>350 いえいえとんでもないです。
ただキリスト教圏の読者と日本人では明らかに享受のされ方が違うと思うのですが
ドストエフスキーをきっかけに作者の思索する魂の問題に同化するために東洋の島国の人間が
聖書を読みだしたりする例も多々あるじゃないですか、そういう魔術的というか一種の洗脳下というかそういうところでまともな批評は成立しないし、それはもちろん聖書も教養としてはいいと思いますけれど、文学者は教祖でも聖人でもないのでそうではなく文学(虚構の作り話)としての面白さを今みなさんどう受け取られているのか興味があります。
とても簡略化してしまうと、ドストは知性より心を大事にせよと 言いたいがために物語を構築している 心を重視する日本人に人気があるのは当然だ
>>355 たまたまスマホのオススメ記事に
「佐藤優氏が解説、生誕200年ドストエフスキーの今読むべき2作品と読み方」というのがあったので知ったかぶりして貼ろうとしたら2ページめから有料でした(泣)
怪人佐藤優は「未成年」の愛読者としても有名ですが未成年とカラマーゾフをあげてるようです
ただタダで読める最初のページに
彼が外交官として赴任していた末期ソ連で
カラマーゾフの大審問官が予言書のようによく読まれてたというエピソードがあり
記憶にないのですが聖書の黙示録から苦よもぎ(国家崩壊の前兆?)の話が大審問官に引用してあって重ね合わせて読まれてたようです
ロシア語で苦よもぎのことをチェルノブイリと言うんだそうです
このスレでもどなたかが苦よもぎの話を書かれてますが
ドストエフスキーをより深く理解しようとした時どうしても聖書の知識は避けて通れないようですね
かく言うオレもロレンスの黙示録論は読みましたが黙示録だけでなく福音書も使徒行伝も手紙もましてや旧約もパラパラめくったことがある程度ですけど
でも考えてみると作品を享受する価値が問われる作家というのも珍しいかも知れませんね 例えばキューブリックが監督しナボコフ自身が原作を脚色した映画「ロリータ」は名画らしいですが(読んでもないし観てもないオレが語るなって話になりますけど でも時計仕掛けのオレンジと博士の異常な愛情は好きです) 今、日本人がキューブリックを観る価値はあるのかとかナボコフを読む価値はあるのかとかは考えたり話したりする機会は余りないかなと
>>356 小説には作者の主張が書かれているという考えは根本的に間違っていると思います。
比較検証できない以上日本人が地球上の他地域の住人よりも心を重視しているとは言えない。
そもそもドストエフスキーが扱っているのは心というよりもっと具体的な自意識では?
>>357 予言書のように小説を読むって危険ですね。。それって権威の信奉ですよ、いかにもロシアな話ですね。
>>359 ハインラインのSF小説「異星の客」は1960年代アメリカのヒッピーたちに経典とあがめられ
チャールズ・マンソンが自らの聖典として愛読していたという噂(ウィキによるとデマらしい)があるくらいですから
予言書のように小説を読むって危険というのはあるかもしれないですね
でも権威の信奉すなわち悪いことという評価はどうなんでしょう
確かに無批判に権威を信奉し他者を巻き込んで不幸にするとしたらそれは完全に悪でしょうけど
そうでないなら権威を信奉するもしないも個人の自由ではないでしょうか
いかにもロシアというのもちょっと決めつけすぎてるかなーと
聖書の言葉は象徴の解釈の歴史でもあるのかもしれません 言葉通りに理解するか、象徴として解釈するかはその時々によるため分かりません 黙示録だと、「第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。」になります この通り受け取るならば、物質的に何かかが落ちてくると解釈できますが、象徴として解釈するならば、ニガヨモギとはある種の苦難や不正、不道徳、偶像的廃教を指します ニガヨモギという単語は旧約からあるようです 旧約において、ニガヨモギとは神からの解離を意味していると理解できます 申命記 29 17-18 またあなたがたは木や石や銀や金で造った憎むべき物と偶像とが、彼らのうちにあるのを見た。 それゆえ、あなたがたのうちに、きょう、その心にわれわれの神、主を離れてそれらの国民の神々に行って仕える男や女、氏族や部族があってはならない。またあなたがたのうちに、毒草や、「にがよもぎ」を生ずる根があってはならない。 ドストエフスキーもそうだけど、終末論における予兆(その時、もしくはその前の期間)はとても苦い苦難の訪れがあると多くの聖句に書かれています 産みの苦しみと呼ばれる苦難はキリストの再臨の条件になるため、再臨を望む人たちにははずせない患難なのかもしれません 正教会、とくにドストエフスキーでよく取り上げれた分離派の人々は「苦しみ」を重く見ていたように思います 個人的に虐げられた人々が好きだけど、心に引っかかって無意識的に染みつくような言葉があります 老人は言う、苦しみは違う苦しみで贖うしか方法はない、と
>>362 老人は言う、苦しみは違う苦しみで贖うしか方法はないってなんなんですかこの絶望的なフレーズ
虐げられた人々は未読ですが(犬が出てきて老人が死ぬ出だしまでは読んだことがある)
このフレーズが出てくるんでしょうか(自分で読めで終わる話ですいません)
>>363 反証可能性がないことなんてあり得ないから、個人的に断言することはしない主義なんだけど、そんなオレでも「虐げられた人々」はあらゆるドストエフスキーの中でもオススメです
時間が許すならばぜひ読んでみてください
この本のテーマは「あわれみ」だと思っています
アゾルカという犬が死んでスミス老人が死んで物語は始まりますね
ちなみに今、再読中です
どこの何ページだったかをメモっとかなかったので分かりませんが、このセリフに行き着いたらレスしておきます
まだ先になるだろうけどね
>>355 レスの流れを読んできて思うのが
人間がナニを面白いと思うかというと
コレは真実を突いてるな!ってことをオモシロイと思うんじゃないかと
昨今のテレビ離れツイッターユーチューブ等SNS全盛の時代の趨勢を見ても
手の込んだ作り事より単純でも人間の生の姿に人はより興味を持つのかと
ドストエフスキーの小説がいまだに日本で読まれ続けているのは
作品は手の込んだ作り事なのでしょうが人間の生の姿を表現することに(少なくともある程度は)成功しているからなのかなと思いました
>>361 いや読んでるロシア人のことではなく、佐藤優の物言いがロシアくさいなーと
『ソビエト崩壊末期、人々はドストエフスキーを予言書のようにこぞって読んだ』
(引用元がないので実際の発言は知りませんが)
こんな抹香臭くて大仰な物言いをする日本人はちょっとないなと、あ、この人正教の信者でしたっけ?
>>366 昨日はスマホで書いたんで貼れなかったですけど
引用元を貼っときますんでご自身でお読みになってご判断ください
https://diamond.jp/articles/-/259168 日本ドストエフスキー協会のホームページに良い記事があったので少し長いですが引用させて頂きます。 ロシアの研究者の方のようです。 目的としてのドストエフスキー-------- リュドミラ・サラスキナ 「ドストエフスキーはもうすみずみまで研究されつくしているのではありませんか」――私は何とも答えに窮する質問をこれまで幾度となくされたものである。そんな場合、私はいつもこう答えることにしていた。ドストエフスキーの本当の理解はたった今始まったばかりです、なぜなら、ロシア古典作家の偉大な作品の真の読解をかつて妨げていた様々な足枷がようやく解けたのですから。 だが、どの時代にもその時代なりの足枷が存在する。思想的には無内容、倫理的には無節操、美学的には雑食性といった現今の風潮を目の当たりにするにつけ、そんな答えでは精神的には不誠実だし、言葉の上では不正確なことになりかねないと言われれば、確かにその通りだと納得せざるをえない。新しい状況になっても、さしあたりはある記号が別の記号に入れ替わっただけで、ドストエフスキーの測り知れない精神的自由と底知れない深淵性を、状況は相変わらず扱いかねている。ドストエフスキーをめぐる論争が、ものごとの些事ではなく、本質それ自体に関わることはいつの時代でも変わらない。
人々はいつもドストエフスキーの中に真実=正義の可能性を探し求めてきた。「ネクラーソフを超え、プーシキンを超え、民衆を超え、ロシアを超え、森羅万象を超える」あの真実=正義である。だが、それと同時に人々は効用の可能性も探し求めてきた――それはまるで、具体的な課題の数々、政治的、国家的あるいは宗教的な課題の遂行にドストエフスキーをあたらせ、その任務に差し向けることができるといわんばかりであった。ソヴィエトの政治宣伝が推奨したのは、資本主義体制に対する有能な論敵、公式的宗教とロシア貴族に戦いを挑む闘士、自由主義および小市民(プチブルジョワ)的なユートピア社会主義への批判者としてドストエフスキーを遇することであった。ドストエフスキーを知ることは有益でもあり、不可欠なことでもあると考えられたが、それは民衆にとってではなく、イデオロギー戦線で階級の敵との闘争に従事するインテリゲンツィア層にとってであった。ドストエフスキーが自ら引き受けることになろうとはよもや思いもよらなかったようなくさぐさが、彼のはたすべき任務と見なされたのである。 今や彼に期待されているのは、教導者、指揮者、精神的指導者としての役割である。ドストエフスキーならば、読者の手を引いて、どこかの終着点に先導して行ってくれるだろう、というわけだ。それというのも、その終着点はどうやらドストエフスキーの読者が目指すべき真の目的地のように考えられているからである。作家は予定のルートを律義に踏破した後で、終着点に向かって出発せんとする新たな一団を先導するために、ふたたび出発点に戻ってもかまわない。なぜならば、一度、終着点にたどり着いた人々は、もう決して彼を必要としないからである。
ドストエフスキーの中に手段――作家の思想や言葉のはるか彼方に存在する結果を達成するための効果的にして強力、確実な手段――しか見いだそうとしない人もいる。 だが、ドストエフスキーは手段ではない。ドストエフスキーは目的である。 ただこのことによってしか、文学史家における、そして何より文学それ自体におけるドストエフスキーへの一心不乱の熱中を(「偏執」でさえも)正当化することはできない。目的と見なすことで初めて、ドストエフスキーは、彼を読み、彼について考え、書く人に対して、本質的なことを明らかにする。彼本来の価値、最高価値において理解することで初めて、彼は人間を実際に甦らせることができる真の創造力、変容力を備えたものとして立ち現われるのであって、だんじて当座必要な――「最新の」と言いたければ、それでもかまわないが――使用説明書としてではない。
卒然と世を去り、わが身もろとも偉大な秘密を持ち去ったプーシキンに、ドストエフスキーはまさに目的として相対した。「かくして私たちは今や彼亡き後にこの秘密を解こうとしている」(1)。天才の秘密を解明するというこの人間の使命は、ドストエフスキーの目には小さなものとは映じなかった。どんな人間、もっとも惨めな人間でさえも、彼もまた秘密である以上、その謎を解明するという課題はドストエフスキーの目には屈辱的なことと映らなかった。まだ若かった少年時代に、彼は人間の秘密について予言的な言葉を口にしている。「人間は謎です。その謎は解かなければなりません。そして、その謎を解くために、たとえ一生を費やすことになろうとも、時を空費したなどと言ってはなりません。僕はその謎に取り組んでいます、なぜなら僕は人間でありたいと願うからです」
(2)。これに関して、私は次のことを指摘しておきたい。ドストエフスキーがこの時、念頭に置いていたのは、ロシア人の秘密、感覚的な自然人の秘密、あるいは神の恩寵にあずかる宗教人の秘密ではなかった。彼が信頼を寄せているのは、「人間」という言葉の普遍的な意義、そのもっとも一般的な意味――知性、自由意志、言語能力を授けられた被造物中の至高の存在、一人ひとりの人間――だったのである。 訳註 [1] 引用は、一八八〇年六月八日にロシア文学愛好者協会の大会でドストエフスキーが行った、いわゆる「プーシキン講演」の結語による。この講演原稿は、『作家の日記』一八八〇年八月第二章に発表された。 [2] 一八三九年八月十六日付の兄ミハイル宛の書簡。ドストエフスキーは当時一七歳、工兵学校在学中であった。 (訳:杉里直人:すぎさと なおと・ロシア文学) Title: Достоевский как цель Author: Людмила Сараскина
>>369 ソ連の共産党がドストエフスキーを政治宣伝に使ってたとは驚きです
「お前らシャートフみたいになりたくないだろ?」と国民を脅してたとか
冗談です
でも確かにロシアの自由化によって新たな発見とかあるかもですね
ヒョードロフ伝の訳者は亀山さんと安岡さん(光文社文庫で貧しき人びとの新訳を出した)ですがこれもドストエフスキーを含むロシア文学研究の成果でしょうか
日本でも研究が進んで作家の日記とかもう少し身近に読めるようになるとおもしろい
なんでやんねん いつやんねん やんねん三段活用 (≧∇≦)♪
>>374 さすがはわれらがスレ主
ええネタいっぱい持ってますやん
なんでもっと書き込んでくれんの
今や物語の享受媒体としては主流でなくなった小説なのだから 自分が面白いと思うものをそれぞれ好き勝手に読んだらいいと思うのだが ことドストとなると凄いとか面白いとかいう声を聞く機会が割りと多いせいか知らんが なんのために読むの?権威主義?と聞いてくるお方がたまにいらっしゃいますよね 何を読もうが勝手でしょとしか言いようがないし 逆にあなたの方がドス・コンなのでは?とも思ったりもしたりして話は変わるけど 中上健次はドストエフスキーが性に合わなかったらしく好きではなかったようだけど 当時は今より教養主義が強かったせいか 作家たるものドストエフスキーぐらい読んどかなくてどうすると全集を買い込んで 折りにふれてページを開いてはちょっと読み こんなものならオレの方が上手く書けると気を引き立たせて小説を書いてたらしい かなり前に彼のエッセイを読んだので 細部は違ってるかもしれません悪しからずご容赦ください
その中上健次を敬愛する21歳の美人女子大生が今夜芥川賞を受賞した
>>374 >>378 大天才!
諸学問「物理学、精神医学、哲学、心理学」等。現代的意味での源流はドストエフスキーに間違いないからね。
(蛇足ながら卑近な例では、文学(芥川)漫画(手塚)刑事ドラマ(コロンボ)もかな……)
21歳8か月での受賞は綿矢りさ金原ひとみに次いで芥川賞としては史上3番目に若い受賞だって 若けりゃいいってもんでもないだろうけど 慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部出身で現在慶應義塾大学文学部在学中って金持ちのお嬢様だな で中上健次が好きだと 2020年「かか」で三島由紀夫賞を最年少で受賞し今年芥川賞受賞 華々しいな
読んでみようか?となる? ならないなぁ、芥川賞も直木賞も糞の中の糞だ
M1が今や若手(吉本)芸人を一気に全国区に引き上げるための吉本興業の仕掛けであるのと同様に どっちの賞も菊池寛の思惑通りか知らんが 今や(メディアの華の座を映像文化に譲り売れなくなった)本を売るためのお祭りだからね でも宇佐美りんが村上龍と中上健次を愛読してるってのはおもしろいなと思った 時間があれば読んで… その時間を作るのが億劫なのが問題だが
あれこれ色々調べてみても話を聞いてみても、ちゃんとドストエフスキーを読めてる人なんてほとんどいないんだな。やはりどんな意味だろうと娯楽で読むような代物じゃないし、そもそも自意識の矛盾に苦しむとなどという精神的人間そのものがすでに絶滅寸前の希少種。しかしツイッターによく流れてる ドストエフスキー作中人物の引用文、なんか本人たちはアフォリズムのつもりで自分が賢く見えると思ってるのかなんか知らんが本当に莫迦でどうしようもない。
>>383 ちゃんとドストエフスキーを読めてるとは
どういうことを意味するんでしょうか
原語で読むのは当然の前提になるんでしょうね
翻訳でしか読めないオレには遠い世界です
娯楽で読むような代物じゃないというのもどうなんですかね 研究の対象にしかならないということなのかのか それとも読むこと自体が何かの修行なのか それとも楽しんで読む力がないだけの話なのか
>>383 若々しくていいレスだと思いますよ
寺山修司には書を捨てよ、町へ出よう と煽られるでしょうけど
関係ないけど 萩原朔太郎の「無用の書物」という詩を思い出した ググってみたらあったんでコピペさせてもらいます 無用の書物 蒼白の人 路上に書物を売れるを見たり。 肋骨みな痩せ 軍鶏の如くに叫べるを聴く。 われはもと無用の人 これはもと無用の書物 一銭にて人に売るべし。 冬近き日に袷をきて 非有の窮乏は酢えはてたり。 いかなれば涙を流して かくも黄色く古びたる紙頁の上に わが情熱するものを情熱しつつ 寂しき人生を語り続けん。 われの認識は空無にして われの所有は無価値に尽きたり。 買ふものはこれを買ふべし。 路上に行人は散らばり去り 烈風は砂を巻けども わが古き感情は叫びて止まず。 見よ! これは無用の書物 一銭にて人に売るべし。
ドストエフスキーと同じく金持ちの医者の息子に生まれ 詩集「月に吠える」「青猫」という大正モダン溢れる口語自由詩によって近代詩の確立者とも称される朔太郎だけど 私生活は思いのままに生きられたとは言えず 晩年に文語自由詩で諦念感の滲む「氷島」と言う詩集を出版してるんだがその中の一篇 自分の人生も読んできた書物も蔵書もすべては無用のものであったという破滅者の身もふたもない叫び声が吹きすさぶ空っ風にかき消される寂しさ 寒風で砂埃にまみれたこれらの書物の中には朔太郎が愛読したドストエフスキーも含まれているのかも知れません
亀山(俺の出身校先輩)・訳を初めに読んでしまった奴はドストエフスキーを一生涯ミスリードする運命。 郁夫くんはキリスト教理解が浅すぎる、「的外れ」な読解が多過ぎ。テレビドラマ化されたが内容冗談の域を出ない。 「罪」のアントは「信仰」である。
カラマーゾフの兄弟 詳註版はどんな感じですか? 買った人おられるか?
>>391 図書館にないですか?
場合によっては他の地域からも借りられますよ
たとえば世田谷区とか杉並区などは身分証だけで借りられるはずですよ
図書館しばらく行ってないけど置いてあるもんですかねえ 出来たら購入したいので新訳の評価ちらっとでもこのスレで聞ければと思いましてねえ
『カラマーゾフ』には100箇所は誤訳があるらしいからな 夏頃までには水声社のを買いたいと思っている
再読のために買う予定です
こんな高いの買ったんだからともう一度読まないわけにはいかない
http://www.suiseisha.net/blog/?p=12018 しかしね?キミ、2万とかするなら羊皮で設えて貰いたかったとは思いましたよお
話かわるけど春馬君の罪と罰舞台BDで出して欲しいな 演技いいな 春馬君独立すれば良かったのに
水声社の高価本の造本はなかなかいいよ チェーホフのを2冊もってる 書店で買うのではなく、直接水声社から送ってもらうほうがいい 少々安く買える
水声社のはもうほとんど在庫がないんじゃないですか? 買うなら今でしょ! でもおすぎとピーコと杉里ってほんとですか?
ロシアのテレビ局が2007年頃に製作したテレビドラマ「罪と罰」を見た 大作映画ほどの背景の作り込みはないかもしれないがロシア人製作スタッフがそれなりの製作費と思い入れを込めて作ったなりの19世紀のペテルブルク及びシベリアとそこに生きる人々の姿が見られて面白かった 印象的だったのがラスコーリニコフがオレが犯人なんじゃないの?と裁判所書記官だったかに凄んで見せるシーンで裁判所書記官がイケてる金持ちの伊達男っぽいいで立ちをしてたとこ 小説を読んだときはもうちょっと小物で貧相なイメージだったが考えてみれば裁判所書記官は19世紀ヨーロッパでも社会的エリートなわけで服装もピシッとしてるのが当たり前だわなと ラスコーリニコフ役のウラジーミル・コシェヴォイがオレのイメージよりちょいバイタリティあり過ぎかつちょいワイルドだけどイケメンでまあイメージには合ってるし上出来のテレビドラマかなと
>>401 ロシア現地で見たの?
ロージャは頭でっかちのひょろひょろイケメンのイメージ
イケメンのイメージはないけど、春馬もロシアドラマ版もイケメンだね
>>403 イケメンだと書かれてるよ。三浦春馬はぴったりのイメージだった
書いてあったか 因みにどこらへんで表記ありました?
>>405 一番最初に宿から抜け出して金貸しババアの家にいくところに書いてあるよ
「ついでにいっておくが、彼は美しい目にくり色の毛をしたすばらしい美男子で、背は中背より高く、ほっそりとしてかっこうがよかった。」
米川訳
「彼は美しい暗色の目と栗色の髪の毛を持ったすばらしい美男子で、丈は中背よりも高く、 ほっそりとしてスタイルがよかった。」 小沼文彦訳
ついでながら、彼は黒い目がきれいにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はややたかく、やせ気味で、均斉がとれていた。 工藤精一郎(訳)
ドスちゃんの主人公ってだいたい美男子でしょ ムイシュキンもスタヴローギンも でも我々が考えるより髭もじゃで青白い風貌だよね
>>402 字幕付きDVDです
>>411 ありがとう。Amazonで高評価だね。見たくなったよ
高い買い物になりますがよろしければ オレのあほ話をしますと同様のシリーズで「カラマーゾフ」と「白痴」も新品で購入したのはいいんですが アリョーシャとリーザと公爵のイメージがしっくりこずに全部見ずに二束三文で売ってしまいました で今同シリーズの「悪霊」に興味津々だけど同じ轍を踏まないとは言い切れず アマのレビューで何なんだあの後日談は##とありでもいつかは見てみたい
カラマーゾフに関しては映像化作品避けたいとこだな、例え出来がよくとも 永遠の書物として人生に残しておきたい
読む前に観るのはまだしも、 読了後に観るのは避けたほうがいい 映像の方が記憶に残りやすいから 苦労して読んで得たイメージに上書きされる
映像で見るなら普通のドラマのほうが面白いんじゃね?物語的に 時間の無駄ってことはないだろうけど
>>415 確かにそれは一理あるかもしれないが
ドラマの作り物とはいえロシア人が一応時代考証もしたであろう当時のペテルブルクの街並みや就中ラスコーリニコフとマルメラードフが出会う酒場の様子を見てみたかったのよ
このスレで話題に出てた「フョードロフ伝」をドストエフスキーが出てくるとこ(ほんの数ページ)を中心に拾い読みしてみた ニコライ・フョードロヴィチ・フョードロフ(1829-1903)はルミャンツェフ博物館の伝説的な司書かつ独創的な思想家として知られてるそうで 司書で思想家というとパリ国立図書館で司書をしてたバタイユを思い出す フョードロフがまだ無名時代に彼の思想をペテルソンという友人兼弟子的な人がまとめた原稿をドストエフスキーに宛てて送り 読んで意見を「作家の日記」に書いてほしいと依頼したのが縁の始まりで ドストエフスキーは1876年の「作家の日記」3月号で好意的に論評している(新潮社版ドストエフスキー全集17にも載ってる) 1876年と言えば未成年を連載中でカラマーゾフの構想を練っていた頃だろう ドストエフスキーの反応に勇気づけられたペテルソンは師フョードロフの教えの基本的な命題を十分に記述した手紙をドストエフスキーに送り ドストエフスキーはその返事(1878年3月24日付け書簡)で熱を帯びた調子でフョードロフの思想に感銘を受けたことを伝えている その後フョードロフたちは彼の思想をまとめた著作の作成に取り掛かったが完成したのはドストエフスキーの死後まもなくだった しかしフョードロフの思想の核はドストエフスキー宛の手紙で伝えられておりそれがカラマーゾフにも反映していると筆者は述べている
>>419 俺もそのレス気になってた
報告サンクス!
未成年は1875年刊行だな
長編で影響を与えたとしたらカラマーゾフのみということになるのか
>>418 あ、あんな序盤で?あそこでダメなら怒濤の超長文のセリフを読み続けるのはムリですね
罪と罰はめちゃくちゃ読みやすいしな ムリっていうよりつまんねえって思ってやめるんじゃね
しかしながらフョードロフの思想は日本人にはちょっと馴染みにくい 訳者の安岡治子の解説をそのまま写すと 「フョードロフの思想は、いかにもファンタスティックに見えるが、それでいて、理性や科学に基づいた合理的側面もあり、 しかもロシア正教や専制を重視するスラヴ派的保守の伝統も受け継ぐという、一見矛盾したさまざまな要素を総合した実にユニークなものである。 ……ソルジェニーツィンによれば……フョードロフの著作を持っているだけでラーゲリ送りになったという。…… フョードロフの思想の根幹を成すものは、何といっても、あらゆるものを分離分化する近代の知のあり方への不信である。…… フョードロフにしてみれば、復活に関しても……文字通り肉体の復活をも念頭においている…… フョードロフの言説は、奇想天外、荒唐無稽とも思われるほど荒削りなもので……われわれ日本人は……馴染みにくいものだろう。しかし、 ……フョードロフの提案は、やはり何かを切実に訴えかけてくる……ミクロコスモスとしての人間をマクロコスモスとしての宇宙に関連づけ、 人類がこの先どう進むべきか、、その方向を、永遠の時間、無限の空間にまで拡大して、これほど具体的に示した例は、めったにないからである。……」 オレは精読してないので何とも言える立場にないが 博物館の司書をやってたくらいだから当時の自然科学の最先端にも造詣は深かった上での思想ではあろうが 死者を肉体的にも復活させることが可能ってところはちょっと理解が難しかった スラヴ派進歩派革命派入り乱れて思想的混迷のさ中にあった当時のロシアに出現した一人の特異な思想家といったところか
ついでに目についたエピソードを一つ 「トルストイとフョードロフの困難かつ不釣合いな関係は、トルストイ自身にとっても奇妙なことに、八〇年代をとおして続けられていった。 フョードロフに対するトルストイの行き届いた、いささかおもねるような態度や、二人の口論、衝突については、それを実際に目撃した人々の多くの話がある。 息子のイリヤ・トルストイはこう回想する。「会話では、いつもかっとなって抑えがきかなくなる父が、ニコライ・フョードロフが話しだすとなると、ことに注意深く耳を傾け、彼に対していきりたつようなことは一度もなかった」 トルストイとは実際に行き来があったようですね 安岡女史の解説を再度引用すると 「……一九三〇年代以降、ソヴィエトではフョードロフの名はタブーとなった。しかし、フョードロフの復活や不死の思想は、革命後の多くの芸術家や科学者にも豊かなインスピレーションを与えていた。」とのことで このスレでもどなたかがドストエフスキー(をはじめとするロシアにおけるロシア文学)研究は今現在新たな出発を始めているという論文を引用されてましたがまさにその通りのようですね
>>425 フョードロフについてのレスがあったのでググってみたら少し出てきました
どうやら少しの範囲ではなくて多くの範囲に渡ってドストエフスキーに影響を与えている人のようです
しかもドストエフスキーとは正反対に、実践的生活面においてかなりできた人格者だったようです
一つの逸話(ロシア語から自己翻訳で読んだので正確ではありませんが)があります
教師だった時代、教え子の父親が病気にかかってしまい、その治療費のために全額与えてしまい、「葬儀代もすべて払った」ようです
ここで思い出さずにいられないのはラスコリニコフのこと
葬儀代を全財産を放棄して全部払ってやる、まさに罪と罰に書かれた逸話です
フョードロフ ロシア宇宙論
「自然の盲目の力を統御し、操ることは、人類が共同でおこなわなければならない偉大な事業だ。」「ついには敵意と無知と盲目、すなわち非親和性の究極の表現である死そのものを、殺さなければならない。」「すべての人が認識者となり、すべてが知の対象とならなければならない。」「同時にそれを人間を通じておこなうのだ。自然のなかに合目的性がないのは、人間自身がそれをもちこまなければならないからである。そして、そこにこそ最高の合目的性があるのだ。」(『ロシアの宇宙精神』110頁前後)
>>426 >ドストエフスキーとは正反対に、実践的生活面においてかなりできた人格者
非人格者ドストエフスキーww
そうなんだろうなあ
>「自然の盲目の力を統御し、操ることは、人類が共同でおこなわなければならない偉大な事業だ。」
なるほどだから死者の肉体的復活なんだ 納得 かつ面白い
フョードロフに聞けたら聞きたい
不完全な人間が科学の発展によって万能の神と同様の力を手に入れられたとして
死者を復活させることができたとして不完全な人間を復活させて何の意味があるんですかと
これは東洋の日本人就中非人格者中の非人格者のオレだからこそだから抱く疑問かもしれませんが
フョードロフが「敵意と無知と盲目、すなわち非親和性の究極の表現である死」と死を否定的にとらえているのに対し 同じ司書仲間(?)のバタイユが「生(個々人の意識/存在)=非連続」に対し「死=連続」と死を肯定的にとらえているのも真逆やんと面白いと思いました
「自然の盲目の力」に対する神の似姿としての人間という自然観も日本人と違ってて面白いですね ロシア(ヨーロッパ?)的自然観は自然と人間を切り離して考え 一般的日本人は人間を自然の一部としてとらえる だからフョードロフの思想が多少縁遠いのもやむを得ないのかもしれない
皇帝がそういう人だったもんね。 名前忘れたけど。 科学の力で自然を征服、みたいな。 ロシアは寒いから、あと権力者だから、そういう思想になるのかな、と思ったりしないでもない。
あーそういえば聞いたことがあるような ロシア近代化の立役者にしてペテルブルクを作ったピーョトル大帝だったか誰だったか
比較対象になるようなもんでもないけど、息吹は感じる
ググってみた 1920年、ドイツ人の母、カタリーナ・フェットとポーランド系アメリカ人の軍人の父、ヘンリー・チャールズ・ブコウスキー・シニアのあいだに、ドイツのアンダーナッハで生まれる。第一次世界大戦後のドイツの経済崩壊により1923年に一家はアメリカ合衆国のメリーランド州ボルチモアに移住、その後カリフォルニア州ロサンゼルスへ転居。幼年時代、ブコウスキーはしばしば失業状態にあった父親から虐待を受けていた。 1966年、ロサンゼルスの地下新聞『オープン・シティ』紙のコラム Notes of Dirty Old Man を担当。 1994年3月9日、カリフォルニア州サンペドロで白血病により死去。遺作となる「パルプ」を完成したすぐ後のことであった。彼の墓には「DON'T TRY(「やめておけ」)(「突っ張るな!」)」と刻まれている。 大文学者さん? しかし詩人となると原文で読まんと味がわからなそう クラシックを生んだヨーロッパではなくジャズを生んだアメリカに現れた才能って感じか
Notes of Dirty Old Manて 地下室の手記的な ポーランド系だとロシアは嫌いかも知らんが
ビートルズの実質的ラストアルバム「アビーロード」のメドレー中の一曲「Mean Mr. Mustard」に Dirty Old Manて歌詞があるけどもしかしてここからいただいてたりして ジョン・レノンはアイ・アム・ザ・ウォラスでエドガー・アラン・ポーの名前を使ったりしてるから読んでる可能性はあるかも ノーベル文学賞を取った(オレはいいと思うけど一応草を生やしておこう)ボブ・ディランとも親交があったようだし
>>432 短編だけ読んだことあるけど、
そこまで好きじゃない。嫌いでもないけど。
全然違くね?
ていうかドストエフスキーの真似なんて誰もできないだろうけど。
>>1 「朝鮮人の立ち入りは厳禁とします。」
なんだこれ。気持ち悪い。一回スレッドを落としたほうがいいよ
こんなスレッドで、よく何事もなかったかのように議論できるものだ
>>439 いろいろあったからね
気に入らなければ前から続いてるドストエフスキースレか
スレ主が新たに立てた文学的ドストエフスキースレを使えばいい
ドストエフスキーといえばむかし安部公房がTVを見てたらイラクかどっかの中東の戦争報道で コーランの詠唱が響く中、画面に一瞬ドストエフスキーの本が落ちているのが写っていて とてつもない衝撃を受けたと同時にかすかな希望も感じたという発言があってずいぶん印象的だったが、 ようやく最近になって意味がわかってきた。 作家の作り話にせよこれはドストエフスキーの作品について真価を語っていると思う。
>>439 あなたの言っていることが正しいと思う
俺も一応
>>74 で疑問を呈したつもりだったけど、今見直したら呈していなかった気もします
とにかくあなたに他のスレに行くよう促している人はどうかしていると思う
それと彼と別人であればこのスレを立てた人もね
まードストエフスキーもイワンにトルコ人の虐待の話をさせているから、そういった偏見があったようにも思うのだけど
カラ兄の話中ではアリョーシャに対し誰もが、父親でさえもが本音トークを繰り広げていることに感嘆するのだですが、 スメルジャコフだけは接点がなかったのはなぜだか考えたことがありますか? 接点があったらあんな事件に発展しなかっただろうからとか、思うところはあるのですが あとスメルジャコフの育ての親夫婦も接点がなかったといえばなかったですね ちなみに完全に俺の読んだ記憶だけをもとにしているので、違っていたらあやまります
>>443 >>あなたに他のスレに行くよう促している人はどうかしている
ってオレのことだろうけど
彼はこのスレを落とせと言ってるんであって
元からこのスレにいるつもりはないし
気にしないでここにいたっていい
それは彼の自由だろ
他人をどうかしてるとディスるなら
せめてそれぐらいは確認してからにしたほうがいいよ
>>441 いい話だ
ちなみにドスト関係なくて恐縮だが
中東の紛争地帯で今読まれているのは漫画「進撃の巨人」なんだってね
創価学会関係者並びに朝鮮人の立ち入りは厳禁とします。ってのは確かによろしくはないのだろうが 本スレを創価学会員と思しき人物(朝鮮人かどうかは知らない)に荒らされてスレ主がこのスレを立ち上げ 渡りに船とばかり何人かこっちに移ってきたんだろうし まあ言ってもたかが5chのスレッドだし次スレで直しゃあいいじゃんとオレは思ってる まともな学会員と朝鮮の方には申し訳ない
>>444 カラマーゾフ家の育ての親は同じだけど、兄弟の中でスメルジャイコフだけは身分が違うので仕方ないのかもしれません
使用人の子供はどこまで行っても使用人として扱われるし、愛情表現もまた変わってくるように思います
人種排除は因果関係がないですからね 差別せずに特定の何かを具体的に除きたいならば、それなりの根拠が必要になるように思います そうしないと差別になってしまう そうかについては因果関係があるので排除を宣言しても差別にはならないでしょう 散々煮湯を飲まされてきて、現に今だってスレチを辞める気配がありません 本スレはもはやドストエフスキーの面影がなくなってしまったし、その因果は根拠としては十分だと思います 一度落とす、という意見は最善の策だろうけど、スレッド成立(物理的な意味で)の現実的な観点から考えれば、落とすのも苦労するし、時間もかかるし、その間に誰かがレスすればその苦労も水の泡になるし、悪意の第三者には抵抗できないので、次スレから直せばいいというのにオレは賛成です まあ、そろそろスレッドの半分になるのでその方が早いというのが思うところだけど、スレッドは総意さえあればなんとでも出来るのでお引っ越しもいいかもしれません
朝鮮人に対する差別の根っこは、自分が絶対に当てはまらない対象を悪者と決めつけることで、自分を安全な場所に置くのことにあると思うんで、決定的な暴力だと思うんだよね 朝鮮人は汝の隣人だと思う しかしキリストとかは2000年以上前なのになんであんなに知的なの?
>>451 論理的な論と演繹に同意します
差別は一方的な他者への暴力の源になりえる大きな要因だとオレも思っています
キリスト教については聖書ではないでしょうか
アブラハムの時代から、彼らのすべての規範は聖書にあるので、その聖書の中ででさんざん言うのは知恵を身につけよ、です
相変わらず、このスレもドストから遠く離れた書き込みばかりだ ドストの文学のみを意見交換したいなら、文学的に語るスレッドがお勧めだ
深夜に書き込みしてるヤツ 仕事はなに? ニートか?
オレは個人事業主、なので労働開始時間はある程度自由 生活習慣がもう夜型なんで書き込みも夜になる ランチ休憩は変わらないですけどね だけどニートだっとして、何か問題があるんでしょうか
>>456 「へえ、あなたはよくもまあ臆面もなく、えらそうな口をききますね!」
「働いてお金を稼がなけりゃいけないということは私にもわかってるんです」 ○メラードフ
ここと向こうはドストエフスキースレじゃないぞ。なんたら学会員とかいう知恵遅れを罵る為のスレだ。 ここだとアイツは言い返して来ないから好きなだけ詰っていいぞ。
>>449 このスレにこのままカキコむのもなんだかなって感じですし
ドストエフスキーを文学的に語れという枷も窮屈なので
ここはこのスレが曲がりなりにも今まで機能してきた最大の功労者である貴方に新しいスレッドを立てていただきたいということでいかがでしょうか
スレッド名は ☆☆☆ドストエフスキー統一スレッドA☆☆☆ とでもなんでもお好きに
問題になってる
「朝鮮人の立ち入りは厳禁とします。」はオミットして
カキコみルールも適当に決めていただいて(本スレがあまりに過疎って不快にさせる相手がいなくてつまらないのか最近カキコみが極端に減った創価のじいさんは出禁にしてもらいたいとこですが)
で立ったら誘導をこのスレにしてもらえればオレはそっちに引っ越します
何から何まで図々しい自分でやれって話ですがここは一つ
ご面倒でなければ
ご面倒ならオレはこのままここでくだらないレスをし続けます
まず第一にこのスレを立てた人は今もって朝鮮人立ち入り厳禁を取り下げる気がさらさらなく、
更に彼はこのスレの内容に納得できないため、文学的に語るスレを立てた経緯があります
俺は
>>439 の苦言を重く見るべきだと思います
ですから
☆☆☆ドストエフスキー統一スレッドA☆☆☆
をどなたかが立ててくれたら、そちらに引っ越すのが最善だと思います
と書きながらpcもスマホも規制でスレを立てられない俺です
ぜひどなたかにお願いしたいです
☆☆☆ドストエフスキー統一スレッドA☆☆☆
http://2chb.net/r/book/1611848496/ 立てました
ただ個人的に思うのは、このスレもせっかくたててくれた人がおるので消化してもらいたいと思っています
次スレがある、という理由で理解してもらえればと思っています
あと半分くらいしかないしね
>>463 ご苦労様です
浮足立って重複スレ立てちゃいまして申し訳ない
>>464 こちらこそ間の悪さにすいません
次の次まであるということでやがて使わせてもらいます
『カラマーゾフの兄弟』って一応この人の最高傑作なんですよね? 最初のアレクセイが13年前に死んだって書いてあるから何かの伏線だと思って 最後まで読んでみたけど何の意味もなかった。 あとゾシマ長老は死んでも腐臭は発生しないとか言ってたくせに腐臭が発生し たし、資料をアリョーシャ(アレクセイのことだよね?)が作成したのに何故 か別の人が作成したことになっていたし 銅の杵で殴ったくせに章の題名が誤審となったりとはったりと設定ミスにあふれ た最低の作品としか思えなかった。
ある数学者がドストエフスキーの小説を読んで「この小説では一晩で二回月がのぼる」というようなことを言ったらしいな でも「腐臭は発生しないとか言ってたくせに腐臭が発生した」というのは はったりや設計ミスとは言わないんじゃないの?
>最初のアレクセイが13年前に死んだって書いてあるから何かの伏線だと思って 誤読ですよ? 事件が13年前、本編である第2の小説が、今この現在時の出来事と示してある筈でしょう 「わざわざ」(太宰、、?)
罪と罰を読まないとかいうの買って途中まで読んでみたが下らなすぎて捨てた こんなの出版して恥ずかしくないのかな
>>471 一応気になって図書館で読んだけど、あれ本当にひどいね
よくあんな下らない企画を立ててそれが通ったと思うよ
あれかw 会話内容流石に見るに堪えないよ まさに下らない
『罪と罰』読まないと ソ連映画の『カラマーゾフ』のエンディングを理解できないだろ タイトルからしてクソなのに、よく買って読んだね カネと時間の無駄遣い
>>471 ,473
一応国内でそこそこ評価されてる作家たちの会話とも思えないほど頭悪そうなんだよね
>>475 誰に評価されてるかでしょ
偏差値60くらいの自称意識高い系層の媚態にまみれた評価じゃないの?
じえん に じえん を かさねても あいきゅーはちじゅうきゅう は なおらないんだよなあ みつを
佐藤優 「カラマーゾフの兄弟の新訳は実にすばらしい。 もともと亀山先生の翻訳は、ドストエフスキー以外についても正確で読みやすいという定評があります。 (略) 重箱の隅をつっつくような解釈の違いをあげつらって、「亀山の誤訳を見つけた」と騒ぐような輩がロシア屋には多いですから。 (略) 亀山訳は、語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している。」 (『ロシア 闇と魂の国家』亀山郁夫、佐藤優著 文春新書)
佐藤優の言ってること矛盾してるじゃないか 「丁寧で正確」なら 重箱の隅をつつかれても「誤訳」だと言われないだろ 亀山も佐藤も嫌い
>>468 > 『カラマーゾフの兄弟』って一応この人の最高傑作なんですよね?
> 最初のアレクセイが13年前に死んだって書いてあるから何かの伏線だと思って
> 最後まで読んでみたけど何の意味もなかった。
> あとゾシマ長老は死んでも腐臭は発生しないとか言ってたくせに腐臭が発生し
> たし、資料をアリョーシャ(アレクセイのことだよね?)が作成したのに何故
> か別の人が作成したことになっていたし
> 銅の杵で殴ったくせに章の題名が誤審となったりとはったりと設定ミスにあふれ
> た最低の作品としか思えなかった。
何を見ても何を聞いても 最低にしか感じられないんじゃね?
これを猫に小判という。
>>482 > 水声社の『カラマーゾフ』読んだ人いないの?
>>483 > 自分は新潮社
なになに社とか、どーでもいいんだよ。米川読んどけばまちがいない。
誤訳とか枝葉なんか関係ない。その翻訳が文学として優れているかどうかだ。
>>481 > 佐藤優の言ってること矛盾してるじゃないか
> 「丁寧で正確」なら
> 重箱の隅をつつかれても「誤訳」だと言われないだろ
ぜんぜん矛盾してない。恐ろしくレベルが低いから解説するのもめんどいな。
> 亀山も佐藤も嫌い
亀山がダメなのは、「誤訳」うんぬんじゃなく、米川等一流の先行訳と比較して
文学作品として低レベルだからでしょう。知らんけど。
たとえば法華経は西暦265年に『薩曇分陀利経』として翻訳され、 つぎに竺法護訳『正法華経』として西暦 286 年に訳出された。 しかし その後鳩摩羅什訳 『妙法蓮華経』が出て、これが絶対的な信仰の対象となっていく。 西暦384年頃だと思う。ググるのめんどくさいから適当だけど。 その後各国で各時代に、現代日本でも「サンスクリット語から納得する現代語訳をつくり たい!」とか言って、学者先生が現代語訳とか言って数々出版している。 そんなものはぜんぶ意味がないのである! 羅什訳 『妙法蓮華経』は天台も伝教も日蓮大聖人も認める「仏の実語」であり、 1文字1文字がそのまま金色の仏なのである。 釈迦仏より日蓮が上であり、末法の御本仏であるのと同じく、サンスクリット語など誰からも相手にされておらず、羅什訳 『妙法蓮華経』が信仰の対象なのである。 その理由については、大聖人が御書において縷々述べられている。 これと同じ原理で 新しいから優れている――など、あるはずがないのである。 カラマーゾフの兄弟であれば、あなたが日本人なら、米川正夫訳か新潮社の訳あたり、 白痴ならば名前ど忘れしたけど なんとか浩二訳か米川。でよい。 現代つまり令和青年というのは、まさに昭和と比較して底辺です。そんな時代に出版されたものが文学教養盛んなる70年代までの訳出を超えることはできない。
水声社の『カラマーゾフ』3月までに買うから そのうちに内容を報告する
おい創価 『アンナ・カレーニナ』の第5部第17章の冒頭部分を翻訳してくれ
>>491 『アンナ・カレーニナ』→ アンタ?カレーにな?
意訳: あんた、カレーかい?
>>490 > おい創価
> 『アンナ・カレーニナ』の第5部第17章の冒頭部分を翻訳してくれ
この問は一体なんだ?ww
翻訳してくれとはどういう意味だ?
しかも原文を提示するわけでもない。
原文出せば、グーグル翻訳で文学的に翻訳してやる。
じつはアンナ・カレーニナは若き時に読んだ。最後まで読んだが...ぜんぜん頭に入ってこなかった!ww
前に俺は
>何を見ても何を聞いても 最低にしか感じられないんじゃね? これを猫に小判という。
と言ったが、そんな君らの感覚がまったくわからないわけじゃあないんだ。
しかし一方で、君らが感受性も読解力もないのもまた
厳然たる事実だ。
自分は底辺読者なのに古典的名作をくだらないと書く
その図々しさには辟易するではないかっ
亀山という翻訳者は名前がよく出るが 一言でこう片付けたい。 このコンピュータ・インターネット時代に 機械翻訳も、あらゆる資料情報も簡単にアクセスできる時代に カラマーゾフという虎の威を借りる狐をやめろといいたい。 もしも本当にその人が記念碑的翻訳を出版したとしたなら、それは森鴎外も まっつぁおになるような 美しき名文で書かれているべきはとうぜんである。
翻訳の世界も色々あるんだねぇ そもそも読者側が原文読んだ上でってとこでかいし
何が「グーグル翻訳」だ間抜け 法華の太鼓でぶん殴るぞジジイ!
>>490 「ニコライ・レーヴィンが病床にあった県庁所在地の宿は、清潔や快適を旨とするほかに
優雅な趣をも出そうというきわめて殊勝な意図もとに、新しく改良されたモデルにならって
建てられた地方旅館のひとつであったが、この種の旅館は、そこへ押しかける泊まり客のせいで、
またたく間に現代ふうの設備が自慢の薄汚い居酒屋に変わってしまい、しかもそうした設備が
自慢なだけにかえって薄汚いだけの昔ふうの旅館よりもいっそうみじめなものになりはてて
しまうのである。」
「鉄の階段」の部分が【日本語訳】【英訳】とも翻訳者によってまちまち 【原文】の文法構造が俺には難しい
【原文】の1文が長すぎて、書き込めないんだ ボルコンスキー女史も訳しきれていない 【木村訳】と【望月訳】ではまったく違うし
「ニコライ・レーヴィンが病床にあった県庁所在地の宿は、
清潔や快適を旨とするほかに、
優雅な趣をも出そうという、
きわめて殊勝な意図のもとに、
新しく改良されたモデルにならって
建てられた地方旅館のひとつであったが、
この種の旅館は、そこへ押しかける泊まり客のせいで、
またたく間に現代ふうの設備が自慢の薄汚い居酒屋に変わってしまい、
しかもそうした設備が自慢なだけに
かえって薄汚いだけの昔ふうの旅館よりもいっそうみじめなものになりはてて
しまうのである。」
-------------------
このトルストイの文は...なかなか特性を表してるな...なかなか素晴らしい例文を
引いてきたね。
ちょっと見直したぞ。ID:D/f2PfXL 君!
>>490 > おい創価
> 『アンナ・カレーニナ』の第5部第17章の冒頭部分を翻訳してくれ
別物?トルストイとドストエフスキーは19世紀ロシア文学の双璧であり、 トルストイを読むほうがドストエフスキーの訳わからん有象無象の凡人の解説を読む億万倍の価値がある。 亀山であれ、その他翻訳者、学者というのは、自分では何一つ創造できない一般人です。 もし彼らの解説書など読んで(ああ、そうだったのか)とか思えば、ドストエフスキートルストイとはそれこそ別物の ちっぽけな亀山等の境涯で理解してしまう。
そもそもトルストイやドストエフスキーが偉大なのは頭で作り上げた小説ではないからだ。 彼らの世界は体験から創出されている。 これらを解説書や学術的研究からアプローチしようとするのは根本的誤りであろう。 信心しかない!
>>497 の続き
「この旅館もすでにそうした状態にはいっていた。玄関番のつもりか何か知らないが、
入り口のところで煙草をふかしている汚れた軍服の兵隊。風の吹きぬける、陰気な
不愉快な鋳鉄の階段。汚れた燕尾服を着こんだいやになれなれしいボーイ。ほこりを
かぶった蝋細工の花束を飾ったテーブルのおいてある大広間。いたるところにある汚れ、
ほこり、不潔さ。」
>>505 >そもそもトルストイやドストエフスキーが偉大なのは頭で作り上げた小説ではないからだ。
>彼らの世界は体験から創出されている。
>これらを解説書や学術的研究からアプローチしようとするのは根本的誤りであろう。
>信心しかない!
あのねぇ、じいさん、小説家と言うものは体験だけで書くものじゃないんだよ、厖大史料を必要とするんだ
だから、それを読む方にもかなりの知識が必要とされるのである
ドストエフスキーもしかり
例えば、『カラマーゾフの兄弟』の原案である『大いなる罪人の生涯』についての書簡を見ろ
1868年12月 マイコフへの書簡
いま私の頭の中にあるのは、『無神論』という題の厖大な長編です。
しかしこの長編にかかるためには、その前に、無神論者や、カトリックや、正教信者の本を、それこそ一蔵書分も読破しなければなりません。
この長編は、たとえ仕事の間完全に生活を保証されていても、少なくとも二年先でないとできません。
人物はいるのです。われわれの階層に属するロシア人で、かなりの年配、それほど教養はないけれど、無教養というのでもなく、ある程度の官位ももっているのですが、それが突然、もうかなりの年になってから、神への信仰を失ってしまうのです。
一生涯、彼は勤務ひとすじに打ち込んできて、軌道を踏みはずすこともなく、45の年まで、これといって目立ったところのない人物でした。
神への信仰の喪失は巨大な作用を彼に及ぼします。
彼は新しい世代、無神論者、スラヴ派、西欧派、ロシアの凶暴な狂信者、隠者、聖人たちを訪ねて放浪します。
ときにはジェスイットのポーランド人、挑発者のわなにかかりもします。
そこから鞭身派の深みへ降りてもいきます。
そして最後にはキリストを、ロシアの大地を、ロシアのキリストとロシアの神を獲得することになるのです。
> あのねぇ、じいさん、小説家と言うものは体験だけで書くものじゃないんだよ、厖大史料を必要とするんだ あのねえじいさんって...お前何歳なんだよ!www > だから、それを読む方にもかなりの知識が必要とされるのである > ドストエフスキーもしかり 罪と罰 味わうのに知識なんかいったか? これは懐しいな。ひさしぶりに読んだわ。 ↓ > 1868年12月 マイコフへの書簡 > > 突然、もうかなりの年になってから、神への信仰を失ってしまうのです。 とつぜん、かなりの年になってから、信仰を失う...それ以前どういう信仰をしていたのだろう...? むしろここからが、彼の信仰の始まりだったのかな。 > 神への信仰の喪失は巨大な作用を彼に及ぼします。 > 彼は新しい世代、無神論者、スラヴ派、西欧派、ロシアの凶暴な狂信者、隠者、聖人たちを訪ねて放浪します。 > ときにはジェスイットのポーランド人、挑発者のわなにかかりもします。 > そこから鞭身派の深みへ降りてもいきます。 > そして最後にはキリストを、ロシアの大地を、ロシアのキリストとロシアの神を獲得することになるのです。 まさにこれは君らのために書かれた言葉だ。 最後に「仏」を、日本を、日本の仏である日蓮大聖人と御本尊を獲得せえよ! 死ぬ前に南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と3回唱えろよ。そうでないと、知らんぞ!!
>>509 > ソーカ頑張れ!
学会理解者になったね!
20年くらい前かな。 スカパーで『子連れ狼』見ていたら、 容貌怪奇な男が登場した。 歯並びが非常に悪く見るからに賤しい容姿の男。 演じていたのは金田龍之介だったかな。 スメルジャコフを連想した。
私のスメルジャコフのイメージは若き日の天知茂
天知は「眉間の皺」がトレードマークだったね。 三島由紀夫が明智小五郎役に起用して賞賛した役者。 神経質そうでスメルジャコフを連想するのも当然か。
トルストイから人道主義みたいなのを引いたのがドストエフスキー?
トルストイは女好き ドストFスキーも女好き どっちもスケベ
トルストイは農奴の娘をとっかえひっかえ凌辱していたらしいが、ドストエフスキーはどうしていたのか?
>>518 内容がくだらない。あんたらマトモなロシア文学の読者じゃないだろ?
一秒でわかるw
けっきょく、創価様がお出ましになるしかないのかよ?
というか...ハッキリ言って 俺が見たことがあるすべての板すべてのスレのなかで たぶんここが最低低能。 例外が2人くらい いたかな。
思うになんでこんな低能カキコになるのかというと、 「自分と関係ない世界」ととらえてる。小説だしと。 とっかえひっかえ凌辱 ――、スメルジャコフのイメージは天知茂―― が精一杯のカキコとなる。 なんで!自分の事として読まないのかっ? 罪と罰を読めば、ラスコーリニコフとして生きよ! カラマーゾフならば、アリョーシャだ。 俺はそうしてきた。
誰にも相手にされなくてさみしくなったか?じいさんw
人がいやがることやってりゃ人は離れてく 人にいやがられることして功徳がほしいとか バカなの?
>>526 良いこと書いてるじゃん、おれw
もっと虚心坦懐に受け止めなよ。
>>508 たとえば以下のドストエフスキーの言葉だ。
> われわれの階層に属するロシア人で、かなりの年配、それほど教養はないけれど、無教養というのでもなく、ある程度の官位ももっているのですが、
お前もある階層に属する日本人だよな。そして
>かなりの年配、それほど教養はないけれど、無教養というのでもなく、ある程度の官位ももっている
だよな? つまりここまではまったく同じだ。「無神論者」の主人公と。
> それが突然、もうかなりの年になってから、神への信仰を失ってしまうのです。
> 一生涯、彼は勤務ひとすじに打ち込んできて、軌道を踏みはずすこともなく、45の年まで、これといって目立ったところのない人物でした。
お前は、ある年に、とつぜん「神への信仰を失ってしまったか?」どうだ?
> 神への信仰の喪失は巨大な作用を彼に及ぼします。
そして「巨大な作用を及ぼしたか?」
そこを考えろ――というのだ。
>>518-519 > トルストイは女好き
> ドストFスキーも女好き
> どっちもスケベ
> トルストイは農奴の娘をとっかえひっかえ凌辱していたらしい
こんな内容じゃ、他板でもバカにされるだろう?
トルストイは本当の話でしょう。 旦那いい加減にしてくれと詰め寄られたりして。
ドストエフスキーの父親は強姦魔 スケベというより変質者 女を見るとムラムラしてタケノコが成長してくる やりまくったせいで領地の農奴に殺された 口(くち)より先にチンポから産まれてきた変態
> 女を見るとムラムラしてタケノコが成長してくる 健康じゃんw 何が悪いんだか? 価値観が狂ってんな
>>15 > 必要もなく絡みに行ってんだから警察が把握しとくべきだろ
> なんで何事でもない事にしようとしてんの?
> どう見てもロリコン、どう見ても犯罪者だろ?
これなあ...昭和だったらこんなことが事案?
子どもに「トイレはどこ?」も聞いたらいけない――となると、ますます子どもたちはほったらかしにされ、
すごい世代断絶が起きて、ますますどーしょーもない社会ができるよな。
世界の5大ウイスキーとは(後進の日本メーカーが国際的な賞をもらうようになって宣伝文句として言ってるだけのような気もするが海外の評価もそれなりに高まっている様子) スコッチ・アイリッシュ・バーボン(アメリカンウイスキー)・カナディアン・ジャパニーズ またウイスキーは蒸留酒だがロシアを代表する蒸留酒はウイスキーではなくウォッカ ドストエフスキー作品中に出てくる蒸留酒はウォッカのみでありウイスキーは一切出てこない たぶん
よく読んでいないようだね 「コニャック」が出てくるでしょ
カラマーゾフの因業おやぢが鍵付きの戸棚に入れているのが
中学生の時に友人の家に遊びに行った その友人の家は典型的な豪農の家で 玄関が2つあった
普段は何方の玄関も使わず 裏玄関か勝手口を使う で、ある時、一番格式の高い、式台の付いた玄関の壁に 短冊に書かれた日付が貼ってあるのに気付いた
そのときはそのまま帰ったが・・・ たぶん、その友人宅を訪ねた日とその短冊の日付がわりと近くて 旧暦の日付かと思ったような記憶がある
で、そのあと訪れたときに・・・ 旧暦の日付じゃないことがハッキリしたので 友人に訊いてみた 因みに、その友人の家の宗教は「神道」
「よく気付いたね」とオレは言われた その日付はその友人宅が昔、火事になった日の日付だそーだ 戒めのために貼り出してあると言われた
それで質問なんだが、 創価的にはその短冊もダメなわけ?
>>540 『分身』にはラム酒が出てきた
穴があったら入りたい
バカ丸出しやなあ 一部仲良しがいればその国同士はお味方かい? 敵同士でも裏で商売してるとか、敵の敵は味方だとかは冷戦時代どころかこの世に国家というもんが出来てからずっと続いていることなんだよ そんなたわけたこと言ってるんじゃない この世界に近代国家が出来だしてから、日本とシナが連合して欧米に対抗したことがあるかって―の 現状もそう、めっちゃ些細な分野でもありゃしないだろ 日本はアメリカの顔色をうかがいながら中国と付き合ってやがるんだ 核がどうしたって? アメリカが日本に核を持たせない理由に中国は関係なし いいか、核ってのは先制攻撃はダメだが報復はOKって世界なんだ これ考えたら一目瞭然だろ 唯一の被爆国であるということは、唯一核攻撃ができる国でもあるんだ 日本はアメリカに核を撃ち込むことが正当化できる唯一の国だってことだ そんなことは国際社会が許さないとか人道的にもあり得ないってのは、現在の状況でしかない 将来世界の情勢とかがどうなるか分かったもんじゃないからな 上記のような理屈が堂々と正当化される世界になる可能性だってあるんだ アメリカは今も昔もずっと潜在的にそのことに恐怖しているし、将来やばくなりうる可能性を排除しておくってのは当然の作戦でもある だから日本が核を持つことをアメリカは絶対に許しはしない 中国の事なんか何も関係ないんだよ
>>550 ドストエフスキー作品ではないが
『アンナ・カレーニナ』にはコニャックのソーダ割りが出てくる
コニャックのハイボールだ
批判が的を得てないんだよな。 まず業務で高校数学が応用として使える時点で、世の中の上側1%以上なのよ。 アク界隈はお受験からのエリート教育で育ってるから、世の平均以下がちゃんと認識できていない。 残念ながら需要が存在してしまうわけですわ。高校数学の範囲だろうが何だろうが知らんがな。 あと、純粋な高等な数学になればなるほど、応用が狭まっていく。平たく言うと役に立たない。 なんでそんなものと比較するのか意味が分からない。好きなら勝手に博士課程でも行ってろ。 そして、哀れにもアク候補生として入社して、想像以上に日本社会の企業文化に揉まれ疲弊し、 自分は東京一工のエリートなのにこんな試験にも受からないクヤシイ!!みたいな人が、 5chで見えない敵をたたいて必死にもがいているんだな。憎むべきはその選択の損切りができない自分自身なのに。 だから、嫌ならやめろよと。クソ試験と思うなら今すぐやめて転職なりしろ。何事も中途半端が一番良くない。
☆☆☆ドストエフスキー統一スレッドA☆☆☆ まとめ
> まず匿名掲示板で相手の背景は語り得ない > 匿名なので相手の申告が発話即事実とみなされる > だから匿名の場所では事態を確定するだけの客観的事実確認ができない > それは家の鍵を閉めたかどうかのレベルと同じで、自分しか知り得ない事実は発言そのものが意味を持たない > まさにこれこそが偏見と恣意性です そのとおりですね。しかしトータルで真実が浮かび上がるよね?俺がいいやつとわかるでしょwww
> 先生、来世もよろしくお願いします、ぐらいの感じで……。大間違いだった。
何が大間違いだったのか?... もう自分はがんで十分戦ってきた。だから先生来世でまた よろしくおねがいしますなのだが
> 男がひとたび腹を決めたら、横になってでも戦える。100人ぐらいに電話して。先
> 生のもとに、はせ参じるためだもん」「真の勝利は、生きるか死ぬかじゃない。戦い続
> けるってこと。広宣流布ですよ。治った姿を見せるより、戦い続けて語りたい。そこに、 がんを超越した喜びがある」
生きたまま、この苦痛と戦いつつ、病気が治るより、病気のままの姿を見せつけつつ、
語りに語りたい!ということだ。
> 男がひとたび腹を決める
とは、どういうことだ? 貴様が日本人なら わかるはずだっ
一歩リートとか、ゆってるやつはわからん。
縁もゆかりもない ロシア人の神、ロシア人に夢中になっとるバカものは
いったいぜんたい どこだ?
> このスレは
>>1 がルールです
> どうか自由意志でやめてください
> お願いします
わかった。自由意志でやめる。
ドストエフスキーは偉大だから。しかしはるかに偉大なのは仏法であり、日蓮だということを憶えておきなさい。
ドストエフスキーの死因はなんだっけ? 病死だったことは確かだが。
ドストエフスキーの作品にはゴミカスしか登場しない よくもまぁ下品な作品ばかり書いたもんだ 読んでいると自分自身が穢れるような気がする 殺人鬼、淫売女、妾、ロリコン野郎、結核病み、高利貸し、癲癇持ち、釜掘り
さぞかし無害で無意味な 何の印象にも残らないような文学が大好きなんでしょうねえ
ドフトエフスキーは史上一二を争う文才を持ったキチ〇イ
ドフトエフスキーは20歳前後の若いころに読まないと意味が無いなあ。 歳とって分別着いてから読むと「まぁこんなもんか」という冷めた感想になる。
二月九日朝、二十五歳年下の妻アンナが七時ごろ眼をさますと、ドストエフスキーは じっと彼女をみつめていた。 「アーニア、僕はもう三時間もずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」 (中略) 八時三十八分、ドストエフスキーは息をひきとった。 世界文学史上の最高傑作ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』は、その三カ月前に完成 していた。 山田風太郎「人間臨終図鑑」より ぎりぎりだったんだな。未完で終わりかねない瀬戸際だった。よくぞ最後まで書いてくれた ものだと、ため息をつくしかない。
享年60歳だからちょうど還暦か 今の感覚からしたら若いっちゃあ若い しかし癲癇持ちで生涯金に苦労したが世界文学史に燦然と名を残したし 大往生と言えるかな
白痴読了 純真無垢なムイシュキン侯爵と荒ぶれワルのロゴージン、妖艶な美女ナスターシャ、 性格のきつい令嬢アグラーヤの4人の男女の複雑な恋愛関係が基本的な構図だが、 途中に差し挟まれる全く関係の無い挿話や一人独演会などが多いうえに、登場人物も多数で 他のドフトエフスキーの長編と比べると全体としてやや散漫な印象を受けるが、それでも その単独挿話だけとりだして読んでもじゅうぶん面白いところが天才的。 日本では黒澤明が映画化したり、歴史家のEHカーが激賞したりと、世界的才人に愛されている作品。 特に最後のクライマックスへ向かっていく雰囲気描写に迫力があって凄かった。
ぴんから兄弟って、ピンチ!カラマーゾフの兄弟の略だと言う事実を知っている人間はもはや少数
>>571 おい小僧、のぼせ上がるのもたいがいにしとけよ。
てめえのそのオランウータン面をタコ殴りに殴ってチンパンジー面にしてやるからそう思え、この薄馬鹿。
>>569 世界文学の金字塔「カラマーゾフの兄弟」を完成した直後に
死んだんだから、そら大往生だろうな。作家として書くべきも
のはすべて書きつくして、下手に長生きして晩節を汚すことも
なく60歳で死んだんだから、理想的な死に方だろう。
悪霊は思想集団の殺し合いが埴谷雄高「死霊」に似ている。埴谷雄高がドフトエフスキーから 影響を受けまくったのだから当たり前か。 未成年は、前半が落ち着いた筆致で淡々と進み、賭博なども出てくる上に題名からしても自伝的青春小説かと 思って読んでいたら、そんなわけもなく、結末がハリウッド映画、例えるならコーエン兄弟の 映画のようだった。
>>577 「未成年」は日本でも海外でも過小評価されている。
『未成年』と『虐げられた人びと』はドストエフスキーが敬愛したディケンズに 最も近づいた傑作であり、さまざまな人間が葛藤するドラマチックな展開にしびれる これに対し、『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』は キチガイが登場して素っ頓狂な言動を繰り広げ、現実にはありえないような オーバーな表現が多く、文体に繊細さが欠ける憾みがある
「未成年」って新潮文庫に無かったと思うのだが。 最近その存在を知った。
ノルウエーブッククラブが選定した世界の偉大な小説ベスト100では 未成年は落選してるな。だけど作家別ではドストエフスキーが最多の4 作品が選出されてるからこれ以上優遇するわけにもいかないのだろう。
>>580 岩波文庫は品切れ中、新潮文庫は販売されている
>>581 他人の評価を鵜呑みにするな
文学は読んだ人それぞれが評価すべきだ
「未成年」 本筋に関係しない登場人物もいて、 これが妙にいい味を出していた。
「未成年」の最後で主人公に大学進学を助言する賢い男性の存在が物語に厚みを持たせている。
ドストエフスキー本人は大学には行っていないが、行きたかったんだろうなあ。
>>586 大学に行かなくても旺盛な読書で深い教養、学識を身につけ、世界一の小説家になった。
未成年に出てくる最後ちょっと変になるが基本は優しい、主人公と会話も弾むおじさん あれ殺された自分の父親の残影じゃないんですか そんな風に感じたな
本棚から未成年を引っ張り出してきたら 大学のころ読みかけで挟んだままのしおりがでてきた
>>587 馬鹿。
大学なんぞに行ってたらあのドストエフスキーは存在しないわ。
ドストエフスキーの文章は無茶苦茶でしょ、と宇野千代は書いている。 だけどその無茶苦茶なドストエフスキーが書いた「カラマーゾフの兄弟」 は他に比肩するものがない世界最高の小説だとも書いている。 文学の本質は文体とか整った綺麗な文章にあるのではないということだ。 粋で引き締まった文章を書いた作家宇野千代の発言だけに説得力がある。
宇野千代の言いなりか 自分の意見は皆無かよ 虚しいのお
自分の意見(笑) 久しぶりに間抜けな意見を聞いた。
有名文学者の見解に従う一般人は多いよね 自分では考えられないんだろう
結局さ、『カラマーゾフ』のテーマは 「復讐するは我にあり」なんだと思う 審判を下すのは神のみということ
主人公たちのその後が描かれていない 中途半端な終わり方だから読者が色々と想像できるので 有難がる輩が多い 「世界最高の文学作品」というのは大袈裟すぎる
主人公のその後が描かれていないというなら、どれも未完だ。 例えば戦争と平和のピエール・ベズーホフはその後どうなったか描かれていない。 読者が想像するしかない。カフカの城は20世紀を代表する偉大な小説だが、未完 であり主人公Kがその後どこへ行くか読者が想像するしかない。 そんな理由で小説の価値を判断するとはバカとしか言いようがない。
>>597 あなたが思う「世界最高の文学作品」は何ですか?
ぜひ読みたい
>>598 トルストイの「戦争と平和」だろうな。読んでないなら読むことを勧める。
あとまだ完読はしてないが今読んでるプルーストの「失われた時を求めて」が
壮絶な内容で、もしかしたらこれが(自分にとって)世界最高になるかもしれない。
上に例にあげたカフカの城も世界最高かどうか知らんが、僕は感動したよ。
これくらいでいいか?
>>599 その3作は傑作に間違いない
自分の好みを加味すると、ベストは『白鯨』だ
しかし自分で書いてみて、世界最高傑作などという作品はないという事実に気がついた。サッカーのような審判がいないからだ。 ルールブックもない。自分の好きな作家や作品を盲目的に賛美し、反対に嫌いな作家や作品を執拗に貶す。そんなことは昔から誰 もがしてきた。この5ちゃんねるでも根拠なしに横行し、そして自分も無意識的にやってる。
https://jp.sputniknews.com/russia/202106248483947/ ドストエフスキーの生誕200周年に合わせ、新作映画がロシアで11月に公開
2021年06月24日 12:15
ドストエフスキーの生誕200周年に合わせ、
シリーズ映画『ドストエフスキーによる福音書』(4部作)が2021年11月にロシアで公開される。
同映画はモスクワ総主教府のヴォロコラムスキー・イラリオン府主教による著書を元にしている。
イラリオン府主教がリアノーボスチ通信の取材に応じた中で明らかにした。
イラリオン府主教の著書『ドストエフスキーによる福音書』は
モスクワのズボフスキー・ブリヴァールにある国立文学博物館で紹介された。
著書の中ではドストエフスキーのキリスト教観が4つの長編小説
(『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』)を基に分析されている。
その他、『未成年』や『作家の日記』に加え、メモや書簡、親類や友人による回想なども検証されている。
イラリオン府主教によると、このシリーズ映画は『ドストエフスキーによる福音書』と題され、
テレビでの全国放送が決まっているという。
イラリオン府主教は取材の中で、「制作作業をしかるべく終わらせ、
偉大な作家の生誕200周年を祝う国内のイベントに合わせて放送したい」と語った。
フョードル・ドストエフスキーは1821年11月11日(旧暦では10月30日)に誕生した。
ちょっとキザに書いてみよう。 「カラマーゾフの兄弟」の最後の別れは、文学史上最も美しいフィナーレである。 そこで想起するのは、同じく少年の死を少年と近しい者たちが回想し、そして別れ ていく、トーマ・スマンの「ブッデンブローク家の人々」の最後である。これも同 じく切なく美しい。ドストエフスキーを尊敬していたマンが「カラマーゾフの兄弟」 からその着想を得たと想像する。
トーマ・スマンw 本当に読んでいるのかよオッサンw 解説書読んでるだけじゃないのかw
トーマス・マンの墓の前でやっと会いに来られましたと言うがごとくに正座して首を垂れる北杜夫の写真を見た記憶がある
しかし
>>603 のように感じる者は他にいるのかな。「カラマーゾフの兄弟」と「ブッデンブローク家の人々」の最終場面が
少年の死をめぐって少年と関係の深かった人たちの回想と言う点では似てる。
『魔の山』には『白痴』『カラマーゾフ』のパクリがある 『ドクトルジヴァゴ』にも『白痴』『カラマーゾフ』のパクリがある 日本人には不思議に思われる『カラマーゾフ』にある表現をロシヤ人に訊いたら「慣用表現」だという ロシヤ人は古典文学の購読を熱心にするからその表現を慣用表現と思っているかもしれない その表現がドストエフスキー以前にもあったかどうかは俺にはわからない ドストエフスキー以後の小説家がパクって一般化したのかもしれない 機会があったら大学の先生に訊いてみるつもり
『白鯨』はまったく無味乾燥な文学作品だが丹念に読み込むべきだ 『白鯨』以降のアメリカ文学の作品にそのパクリがある 『白鯨』を読んでいないとわからない
トーマ・スマンw
【誤字訂正】
>>610 の4行目
× 購読
○講読
独文学作品の理解のためには露文学作品の読み込みが必須だわな 「文学」においては「露文学」は世界文学の頂点にある ロシヤ唯一の世界一だと思う
『白鯨』を無味乾燥と評するのを初めて見た まあ、読んだ人がどう評するかは自由だが、 自分にとって『白鯨』はとても感覚に訴えてくる 艶麗にして崇高な文学作品なんだな
トーマス・マンは兄貴のハインリッヒ・マンとローマで遊学してた頃ドストエフスキーやトルストイといったロシア小説を耽読してたから影響受けてる 「ゲーテとトルストイ」はじめロシア文学に触れた評論エッセイは多いし 新潮社のマン全集の評論の巻を図書館で一読するのをオススメする
無味乾燥な鯨に関する記述を調べてみたことがある 確か「呼吸孔」だったかな鼻先に一つだけあるもの 「ちょっと左側によっている」とあった それは正確な記述だった 日本列島にある活火山の記述もある オレは大方の意見に反し、北海道の樽前山だと思う 時間をかけてゆっくり読むべき、オレは5箇月かかった 途中で他の短編を4つ読んで息抜きした
連載中の文学は批評言論してはいけないわけじゃないんじゃないの?
>>613 マンとかヘッセとかカフカなんかの20世紀文学はロシア文学の影響受けてるけど、それ以前はほとんどない
むしろホフマンがドストエフスキーにあたえた影響とかを調べると興味深いと思う
>連載中の文学は批評言論してはいけないわけじゃないんじゃないの? 知らない
ロシア文学とうか、乱暴に極論すればドストエフスキーが20世紀の文学を 決定したと言える。アンチも含めてだ。もしドストエフスキーがいなかったら 良し悪しは別に20世紀の世界の文学は随分違ったものになった気がする。
>>621 冒頭をロシア文学というか、に訂正。しかし面倒くさいな。
『魔の山』は主人公の病人がラストでいきなり戦場にやってくるんだな。 病人が出征しても足手まといになるだけだと思うんだが。
僕はドストエフスキーとトーマス・マンとカフカとプルーストが好きだな。 この4人に共通してるのはユーモアがあることだと思う。読んでいて声を 出して笑ったこともある。
ユーモアは一流文学作品に必須の要素だ これは映画にもいえることだが、 巨匠はどんな深刻な題材でもユーモアを入れることを忘れない
ドフトエフスキーってどうして「地下室の手記」から、それまでの初期中期の優しさ、楽しさ、ヒューマニズム っぽいものを捨てて、人間の悪意むき出しの作風になったんですか? それがのちの巨大な五大長編へとつながっていくから勿論いいんですけど。 嫁の看病に疲れたとかいうけど本当にそれだけ?なんか私生活であったんですか?
初期中期の優しさ、楽しさ、ヒューマニズムっぽいものって 具体的にどの作品を想定してるんでしょうか
『ステパンチコヴォ村とその住人』とか『伯父様の夢』といった文庫になっていない 明るい長編もあるのに、読んでない人がほとんどだよね 丸谷才一なんかはその2作が一番好きだといっていたな
わが国の才能ある作家たち、平均的上流家庭の世界の生活をきわめて芸術的な筆致で描いたトルストイやゴンチャロフは、多数者の生活を描いたつもりでいた。 だが、私に言わせれば、彼らにしても例外者の生活を描いたのだ。 それどころか、彼らの生活こそ例外者の生活で、私のが一般的規則の生活なのだ。 私はロシアの多数者の本当の姿をはじめて引っ張り出したこと、その奇形的、悲劇的な特徴をはじめてあばきだしたことを誇りにしている。 その悲劇は、彼が自分は奇形だと意識しているところにある。 主人公としてみると、シルヴィオ(プーシキン『その一発』)やペチョーリン(レールモントフ『現代の英雄』)から ボルコンスキー公爵(トルストイ『戦争と平和』)やリョーヴィン(トルストイ『アンナ・カレーニナ』)に至るまで、 いずれも「感心できない」けちくさい自尊心の代表者にすぎず、「育ちの悪い」人物たちだ。 彼らの更生が可能となるのは、素晴らしい手本のサクス(ドルジーニン『ポーリンカ・サクス』)、シュトルツ(ゴンチャロフ『オブローモフ』)、 ピエール・ベズーホフ(トルストイ『戦争と平和』)、ムラーゾフ(ゴーゴリ『死せる魂』)があるからだ。 しかし、それも彼らが表現したものがけちくさい自尊心の叙事詩以上のものではなかったからだ。 地下の悲劇を引き出したのは、私ひとりだけだ。 この悲劇は苦悩、自責、よりよいものを意識しているのにそこに到達できないこと、 そして、肝心なのは、これらの不幸な人間たちが、みんなこうなのだから更生する必要などないのだと明瞭に確信していることである。 ボルコンスキーはアナトールの足が切断されるのを見たとき更生した。そして、われわれはみなこの更生に涙を流した。 だが、本物の地下の人間は更生しようとしないだろう。 地下だ、地下だ、地下の詩人だ――雑文作家たちは、それがなにか私の不名誉のようにこう繰返したものだ。 これは私の名誉なのだ。ここには真実があるのだから。 (『未成年』創作ノート)
>>627 貧しき人びと、賭博者、死の家の記録、虐げられた人びと
もちろんかなり暗い世界ではあるが。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。
江川卓さんの、謎解き『カラマーゾフの兄弟』で取り上げられた。
去勢派の白いキリスト・スメルジャコフについて書きました。
これからも、ドストエフスキーについては、書いていきたいと思います。
よかったら、読んでみて下さい。
愛の爆撃(君にラブしています)
https://ameblo.jp/henomotin2/ お笑い『堕落論』(41) で書いています。
おもに、統一教会や韓国について書いています。
>>632 去勢派はマタイ5 30 を連想させるし、そのあたりが根拠になったのかもしれません
文字通り読むってことはそういうことにならざるを得ない様です
解釈ならば現実と整合性を保っていける
正解を付けのは難しいけど、宗教的に生きていける人は尊敬します
マタイ5章
30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である
>>626 「地下室の手記」以降それまでの初期中期の優しさ、楽しさ、ヒューマニズム
っぽいものを捨てて、人間の悪意むき出しの作風になったというより
人間の悪意などのダークサイドに敢えて切り込んで描いていく方途を実現したのが「地下室の手記」なのではないかと
いきなり貧しき人々を書いて激賞を受け舞い上がちゃったんだろう。 若気の至りというやつ。そういう事情だから普通ならデビュー作が最高傑作 となって終わるところだったが、粘ったなこの人。 奇怪な怪人、怪物をたくさん描いたが一方でアリョーシャのような天使のご とき清純な人間をも描いた。 それだけは誰もマネが出来ないドストエフスキーの本領だったと思う。
新潮文庫からでているのを全部読み終わったのだが、 全部例外なく面白かった。さすが文豪。 この作家の小説は上質な映画のような展開をするんだよなあ。
続き 思い切り緊張感を高めたり、「ええ!」と思わせる展開をしたり、 少し驚くような結末などなど、いろいろな仕掛けがきちんとほどこされている。
>>628 > 『ステパンチコヴォ村とその住人』とか『伯父様の夢』といった文庫になっていない
> 明るい長編もあるのに、読んでない人がほとんどだよね
読んでないw
去勢派(スコプツィ(Скопцы)というらしい)はいくらなんでもカルトだろと思ったが とあるブログに「正教会側からは「古儀式派」と同様に「ラスコーリニキ(分離派)」と呼ばれたため、 しばしばスコプツィを含む「霊的キリスト教」諸派は、「古儀式派」と混同される」と書いてあって なるほどラスコーリニコフはスコプツィではなく正統から見た異端かと腑に落ちた
森鴎外が重訳した「鰐」は読んで面白い。とても「罪と罰」と同じ作者と思えない。 ドストエフスキーの翻訳としては早い方じゃないのかな。
評価イマイチの初期短編中わりに評判のいい「弱い心」を読んだが キングの傑作「シャイニング」に似たシーンが出てきて興味深かった 大作家も大変なんやね
>>639 > 去勢派(スコプツィ(Скопцы)というらしい)はいくらなんでもカルトだろと思ったが
> とあるブログに「正教会側からは「古儀式派」と同様に「ラスコーリニキ(分離派)」と呼ばれたため、
> しばしばスコプツィを含む「霊的キリスト教」諸派は、「古儀式派」と混同される」と書いてあって
> なるほどラスコーリニコフはスコプツィではなく正統から見た異端かと腑に落ちた
こんな他国の、自分とは関係ない宗派の無用の知識について、考えてる時間があったら
信仰を実践すべきはずなのに、そこに気が付かないのかい?
僕なんかもうドストエフスキーを読むという習慣がない
最近、『分身』と『永遠の夫』を読んだが、やはりドスト節は健在だったね 晩年の大作だけがこの作家の本領ではない
永遠の夫もレヴェルの高いイタリア映画みたいだったなあ
『未成年』面白い レヴェルの高いソ連映画みたいだったなあ
最近、『未成年』を再読したのだが、やはりドスト節は健在だったね 晩年の大作だけがこの作家の本領であるね
「未成年」は妙にリアルというか、貧乏くさい世界であって、そこが良い。
『分身』はベルトルッチが映画化した まさにイタリア映画だ
こんなに胸が熱くなる作家に出会ったことがない 冷徹な皮肉さと裏腹の罪悪感による個人の苦しみ... そこに社会史的な思想をぶち込んでくるスケール感。もはやカオスでありながら圧倒される。 最近だと進撃の巨人くらい、それに近いものは感じたけど。
カラマーゾフの兄弟もレヴェルの高い日本映画みたいだったなあ
白夜はフランスのブレッソンも映画化した ヴィスコンティ版と甲乙つけがたい秀作
映画と言えば、ソ連の「カラマーゾフの兄弟」を見たことある。 これが目当てだったけれど、併映の同じソ連映画「誓いの休暇」に感心した。 主人公の名もアリョーシャだった。 年齢も20歳くらい、正義感が強く皆に愛される性格も似ていた。
ソ連映画の『カラマーゾフ』 NHKBSで放映したのを録画した 役者が年を食いすぎている 因業ジジイも滑稽だし ラストシーンも原作とは違うし見る価値ないな
>>654 ドストエフスキーの熱心なファンだった原節子がナスターシャ役を自ら
買って出て、黒澤明監督に映画化を提案したという。
>>659 その話には前段がある
芥川原作『薮の中』を映画化した「羅生門」で結果的に京マチ子が演じた役を黒澤は当初原節子にオファーした
原は演じたがったが、義兄の熊谷久虎が反対したため、断わることになった
その代わり、『白痴』ならOKと
今年の夏はドストエフスキーとチェーホフの中短編小説を読む。 さしあたり、久しぶりの再読「退屈な話」から初めて その次はドストエフスキーの何か。
>>656 自分が持っている角川文庫『白夜』の表紙カバーはブレッソン版のスチール写真
映画を見てから本を買いに行った
1980年頃だね
三 ゾシマ長老の説話と教訓の中より (E)ロシアの僧侶とその可能なる意義について 敬愛する諸師よ、僧侶とははたして何者だろう?
現今、文明社会においてこの言葉は、すでに冷笑をもって発しられている。それのみか、中には 嘲罵の言葉として取り扱っている者もある。 << 現代日本も同じ
これは時を経るに従って次第に激しくなる。もっとも、悲しいかな、事実僧侶仲間には多くの徒食者や、肉の奉仕者や、 邪淫のやからや、傲慢な無頼漢が交っている。世間の教養ある人々はこの事実を指さして、 『お前たちはなまけ者だ、無益な社会の 穀つぶしだ、他人の労苦で生きてゆく恥知らずの乞食だ。』という。
しかし僧侶の中にも、真に謙虚温順な人たちがたくさんあって、静寂な孤独の中で熱烈な祈りを捧げることを渇望している。世間の人はあまりこの種の僧侶を指さし示さず、全然黙殺の態度をとっている。それゆえ、もしこれらの孤独を渇望する謙虚な僧侶の中から、ふたたびロシア全土の救いが現われるかもしれぬなどと言ったら、どのように驚くかしれないだろう!
いや、まったく彼らは静寂の中にあって、『一時より一日、一日より一年と自己の鍛 錬をしているのである。今のところ、彼らは孤独の中に閉じこもって、古い古い昔 の 祖先、――使徒や殉教者たちから伝えられたキリストの輝かしい姿を、いささかも 曲げることなくそのままに保存して、時いたらば現世の 揺らげる真理の前 に、この 姿を掲げ示そ うとしている。ああ、なんという偉大な思想だろう。この星はやがて 東の空から輝き 出すのである。
<< 僧侶とはなにか? キリストという言葉にとらわれてはならぬ。
私は僧侶についてこんなふうに考察する。これがはたして偽りだろうか、傲慢だろう か? これを知るに は世間の人の現状を見るがよい。 人民の上に君臨している社会において、神の姿とそ の真理が曲説 されていないだろ うか? 彼らの社会には科学がある。しかし、科学のうちには五官に 隷属するものより ほか 何一つない。人間の貴き一半を形づくっている精神界は、凱歌でも奏するような 態 度で駆逐され てしまった。いな、むしろ増悪をもって拒否されたのである。 彼らは自由を強調して いるが(これは最近 に至ってことに甚しい)、このいわゆる自 由の中に得るものはなんだろう。ただ、隷 属と自滅に過ぎぬで はないか! 何故かと 言うと、世間の人は、『お前らは欲望を持っているのだから、大 いにその満足を図 るがよい。なぜならば、お前らも貴族や富豪と同等の権利を持っているからだ。欲望 は恐るるところなく 満足させるばかりでなく、進んで増進さすべきものだ。』と叫 んでいる、――これが 彼らの教義である。 彼らはこの中に自由があると思っている。
ところで、この欲望増進の権利からいかなる結果が生じたか? ほかでもない、富者にあっては孤独と自滅、貧者においては羨望と殺人である。そのわけは、ただ権利のみを与えて欲望満足の方法を示さないからである。
光文社スレより、未成年が亀山訳で10月以降に出るそうだ
やっと出るか、ヴェルシーロフは「わし」じゃなくて「わたし」って言ってくれよ
>>674 『未成年』は最も好きなドスト作品なので、3つの翻訳を持っている
工藤訳ではわし、米川訳と小沼訳ではわたしになっている
日本語訳は、一人称の選択を間違えると作品全体が台無しになってしまう、日本語の恐ろしいところである
『未成年』は日本だけではなく海外でも注目度が低いんだよね。 イマイチ盛り上がりに欠けるままダラダラと話が進んでいくのは、これはこれで良いと思うんだが。
キリストは体格人種年齢宗派を広げすぎてるから失敗に終わるだろう。
30歳ニート、暇すぎて原書で読むためにロシア語始める
>>677 他の大作のように狂人が登場しないからね
その分秘めやかに内的なドラマが進行するのがセンシティブな感銘につながる
白痴ほんと素晴らしいね 10代の頃に読んでたら今とは変わった人生歩んでたろうなと思えるレベル
>>683 白痴は本当の傑作だな。読むたびに何か新しい発見がある。
プルーストも自分が読んだ中で最高の小説と書いてるね。
いきなり原卓也訳『カラマーゾフ』でもいいかも 江川卓訳の『罪と罰』『悪霊』なら、それぞれ1箇月で読了できる 『白痴』は木村訳がいいと思うけれど、結構手こずる 『未成年』は工藤訳しかない
プラン@ 『カラマーゾフ』⇒『罪と罰』⇒『悪霊』⇒『白痴』⇒『未成年』 プランA 『カラマーゾフ』⇒『罪と罰』⇒『白痴』⇒『悪霊』⇒『未成年』
『未成年』は先月光文社から亀山郁夫訳が刊行され始めた 『白痴』は河出の望月哲男訳か岩波の米川正夫訳がいいだろう 『悪霊』の江川卓訳は「スタヴローギンの告白」を巻末に置いているのが気に入らない この章をしかるべき部分に置いている翻訳の方がいいだろう
亀の翻訳は勘弁だわ 望月訳はだらけた日本語で嫌い 米川訳『白痴』も悪くはないが、 木村の『白痴』は名訳だと思う ただちょっと解かりにくい
>>685 「貧しき人々」を最初に読むのもいいと思う。読みやすいし、泣ける。
ドストエフスキーに限らずトルストイやソルジェニーツィンでも、 木村浩の翻訳で感銘を受けたためしがない 誰かが木村訳を貶して学者バカと評していたが、同感だ
>>687 自分が読んだ順が正にプラン2だった
個人的には良い順番だったと思う
ドストエフスキーのすごさってどこなの? 人間の矛盾を肯定するというか、わざわざ表現した感じで、まあ面白いと言えば面白いのかなと思うけど、宗教とか時代背景が分からないと、やっぱ凄みは分からん系のパターンなんかね?
、
705 名無しさん@お宝いっぱい。 [sage] 2019/07/20(土) 10:58:59.85 ID:cQ08ta2z0
港区高輪に存在する、カルト宗教の施設です。この治療施設には密かに蛇神が祀られている
部屋があるそうです。
https://tokyo.moa-natural.jp/ 世界救世教・東方之光・MOA
の内部では毒物や薬物による信者の暗殺が行われている。
お茶に細菌を混入させることにより、施設内で体調不良を訴えることなく、
一週間以内に発病させ、病院で死ぬ。なんの証拠も残らない。
オウムと同じように多数の優秀な医師が教団施設には勤務している。
港区にある高輪療院には常時医師が5-6名在中していて、保険適用の
アドバイスを行っている。
健康科学センターもあり、研究者や学者もいるが、暴力団山口組との癒着もあり、
生物兵器の培養が行われている可能性もある。
炭疽菌などをお茶に混入させて死亡させているとすれば、
オウム真理教と同じ警戒レベルの、生物兵器テロ組織とも考えられる。
http://www.mhs.or.jp/ 現在、教団内では暴力団による宗教を派閥で乗っ取る方向で進められていて、
東方之光による、教団の独裁が計画実行されている。
>>693 頭の良さと感性の鋭さのない人間にはドストエフスキーの凄さは分からん
>>691 > ドストエフスキーに限らずトルストイやソルジェニーツィンでも、
> 木村浩の翻訳で感銘を受けたためしがない
> 誰かが木村訳を貶して学者バカと評していたが、同感だ
木村の『白痴』読んだのか?美の極地だけど。木村は白痴だけを愛して入魂の翻訳をしたらしい。
>>695 > 頭の良さと感性の鋭さのない人間にはドストエフスキーの凄さは分からん
どちらもちがう感じがする。アリョーシャのごとき善を求める心ではないか?必要なのは。
この文学板のドストエフスキースレは昔から、アリョーシャと真反対な悪質性が強い退廃した不幸な人物ばかりが巣食っている。 ゆえに偉大な文学を愛好すれば幸福になるという方程式は絶対に成り立たないことが証明される。
地方貴族の話だろ 読む必要なし ドストエフスキーの作品は 作り物臭くて飽きてくる
地方貴族の話だから読む必要がないと思うかどうかは人それぞれだからどうでもいいが 作り物臭い作品とそうでもない作品の差が激しい作家だとは思う
二重人格、虐げられた人々と、あまり傑作視されていない作品の中にもにも良作はある ステパン村にも期待する
>>703 一般的な評価なんか気にせず、自分で読んで評価しないと文学は面白くない
俺は『分身』は力作、『虐げられた人びと』は傑作と思っている
『貧しき人びと』は凡作
>>686 ドストエフスキーは他の大作家と違ってさくさく読めるのがいいところじゃない?
文体よりも構成とストーリーと人物像を味わう作家
だいたいの長編は風雲急を告げる展開だからスピードも大事
1作に1ヶ月もかけていたらかえって味わいが薄くなりそう
まあでも白痴は作中の時間同様に間を空けながら読んでもずしんと来るものがあるかもね
イッポリート:あの女を縛ってくれ、お願いだ、縛り付けてくれ! ヴァーリャ:私もう死ぬわ!ああ、何で私たちがこんな目に! レーベジェフ:手を出せ、手を突っ込むんだ、口ばっかりのろくでなし!燃えちまう、燃えちまう! ガーニャ:ああ、いや、いや、いや! ナスターシャ:燃えてる!燃えてる!燃えてる! ロゴージン:好きだ!愛してるぜ、女王様! イッポリート:死だ!死だ! ヴァーリャ:兄さんを助けてあげて!助けてあげて! レーベジェフ:この私なら歯でくわえてつかみだしましょう。跪いて、泥の中でも這いましょう。 ムイシキン公爵:ああ、なんて不幸な人たちなんだ! レーベジェフ:跪いて!泥の中を!イモ虫のように這ってやる! ナスターシャ:燃えてる!ぜんぶ燃えてる!ぜんぶ燃えてる!(中略) イッポリート:みんな平気なんですね、ぼくがじきに死んでも!残酷な、冷たい人 たちだ!本当に死期が近いんですよ!2週間と言われたんです! ナスターシャ:全部燃えるがいい!世界中の金が燃えてしまえばいい!ルーブリもドルもフランもマルクも円もシェリングも、みんな燃えるがいい! ロゴージン:好きだ、お前が好きだ!お前の中には、世界中の女たちがいる!俺は彼女たちを感じる!俺は彼女たちを知っている!俺は彼女たちが欲しい! ヴァーリャ:妹の愛!純粋な、神聖な、妹の愛!それは無私の愛!売ることも買うこともできぬ愛!この世の何よりも貴重な愛!永遠の、果てしない愛! 公爵:苦悩と痛み!世界の痛み!これこそわれわれを救ってくれるものだ!ほら、聞こえるでしょう、孤児や貧しき者の痛みが!虐げられ、辱められた者たちの痛みが!
ナスターシャ:じゃあ、お聞きなさい、ガーニャ。最後にもう一度お前さんの性根を見てみたいの。三カ月も私を苦しめてくれたんだから、今度はこちらの番よ。この包みが見える?十万ルーブリ入ってるわ。これを今この暖炉に、火の中に投げ込むの! そうして全体に火が回ったら、すぐに暖炉に手を突っ込みなさい。ただし手袋はしないで、むき出しの手でね。そうして火の中から包みを引っぱり出してごらん!見事取り出せたらあんたのものよ!十万そっくりね!みんなが証人だわ、この包みはあんたのものだって。私はあんたの性根をとっくり見せてもらうわ。あんたが私の金を取ろうと火の中に手を突っ込むのを見物しながらね!もし手をつっこまなけりゃ、そのまま燃えてしまうのよ。他の人は手を出しちゃ駄目!私のお金なんだからね!私のお金だろう、ロゴージン? ロゴージン:ああ、お前さんのだ!お前さんのだぜ、女王様! ナスターシャ:そう、じゃあみんなどいとくれ。邪魔はなし。レーベジェフ、火を ちゃんと起こして! レーベジェフ:ナスターシャ・フィリッポヴナ、手が動きませんよ。 ナスターシャは暖炉の火掻き棒をつかみ、中のおきをかき立てたててから、包みを投 げ込んだ。 イッポリート:この女を縛るんだ!やめさせろ! ヴァーリャ:だめ、だめ、だめ!ガーリャ、はやく! レーベジェフ:(ナスターシャの前に跪く)ご主人様!女王様!全能の女神様!十万ですよ、十万!わたしに暖炉へ入れと命令して下さい。丸ごと入って見せましょう、この白髪頭をそっくり突っ込みましょう!足なえの病弱な妻がいて、子供は十三人――それもみんな孤児で、先週父親を葬ったばっかしで、腹を減らしているんですよ! (暖炉に入ろうとする) ナスターシャ:(レーベジェフを足で蹴りつけて)おどき!ガーニャ、何を突っ立ってるの?恥ずかしがってる場合じゃないわ!手を突っ込みなさい!運をつかむのよ! ガーニャは火のついた包みを呆然と見ている。
>>704 確かに、分身は力作だが、貧しき人々は凡作。
あと永遠の夫も凡作だと思った
ドストエフスキー五大作品はわかるけど3大作品ってなるとなんだろうな。罪罰、カラマーゾフとあと一つは?
ドストから3つ選ぶなら、『未成年』『虐げられた人びと』 『ネートチカ・ネズワーノワ』だな 世評など俺は無視だから
こいつずっとこのスレで同じようなこと言ってんな、暇すぎるだろ
「五大作品」なんて言うかなぁ? 「五大長編」とは言うがなぁ
『罪と罰』はサスペンスとしては秀逸 『白痴』はありそうもない話 『悪霊』はいまいちピンとこない話 『未成年』は割と面白い 『カラマーゾフ』はまとまりのない話がダラダラと続く 散漫すぎる 作者が生きていたなら書き直したんじゃないのかな
ドストエフスキーを有難がるヤツって 大概読んでいないヤツが多いw
読んでいない人が有難がるってのはよく分からないね、大抵の読書家は好きな小説を偏愛するものだろう?
>>717 のような人は物語としてしか小説を読めない人なんだろうけど、エンタメ風に楽しむ分にはそれでもかまわないでしょう
ドストエフスキーの作品を ロシア人がロシア語原書で読むのと 日本人が日本語に翻訳されたものを読むのとでは 後者の方が理解しやすいと言われている
ロシア人にとってでさえドストエフスキーの文章が難解なのを 優秀な日本人翻訳者が整理して理解しやすい日本語にしている それでも難解だ だがそれゆえに有難がっている日本人も多い ロシア人は小難しいことを考えずにエンタメ小説として読んでいる
少なくともロシア語の初歩を勉強してから 偉そうなことを言うべき
日本人もエンタメ小説として読んでますよ 読んでないのに批評だけ読んで読んだことにしたい馬鹿が偉そうなことを言いがちだけど
ドストエフスキーの作品のどういう点に価値があるのか3行で教えて
くだらない作家の一冊よりドストエフスキーの一ページの方が価値があると とある作家が言ってた
ドストエフスキーってロシア初の職業作家らしいけど、当時から結構読まれてたのか 同時代の評価はどんなだったのかな 今ほど神格化されてたのかな
>>736 ロシア初の職業作家ってとこかな
これは、ステパンチコヴォ村の解説で読んだんだけど
作家活動以外の収入源を持っていなかったのは、ロシアではドストエフスキーが初めてだったということらしい
岸田首相、正月休暇用に購入した書籍『カラマーゾフの兄弟』を1巻で投げ出す「これは無理だな」長男に「読んで内容を教えてくれ」 [Stargazer★]
http://2chb.net/r/newsplus/1673335596/ >>740 これは情けないな
ドストエフスキーが読めないんじゃ、プルーストやフォークナーは
もっと読めないだろうな
プーチンが好きな作家だから、ドストを読もうと思ったのかな?
ずーっと思ってたんだが、ドストエフスキー作品のめちゃくちゃ長い台詞のやりとりとか漱石のこころなどのありえないほど長い手紙とか、小説としての結構はどうでもいいのかな 若いころは「文学的時間」などというわかったようなわからんような言葉で言いくるめられてたけど
一国の宰相が『カラマーゾフ』を読了できないで投げ出すとは恥ずかしいかぎり 知的能力を疑うな
バルザックの『谷間の百合』なんて、あの分厚い一冊が一通の手紙だからな 小説というテクストは現実世界の似姿であって、現実そのものではない だからこそ、このテクストをさまざまな角度から研究する人たちがいる 小説と物語を峻別する批評精神を養いつつ読むと面白いだろう
五大長編で一番読了するのムズいって何?ちなみに俺は魔の山は読了した。
だれがキッシーにカラマーゾフを読めと言ったのか その意図も知りたい
>>745 人物が多くて殺人もなく邦訳が少ないという点でみたら未成年
>>745 魔の山はトーマスマンだろ
ドストエフスキー作じゃなく世界5大長編て意味?
そもそもそんなのあんのか?
あ、そうか魔の山読了したからドストエフスキーの最難関作に挑戦したいって意味か
そうだよ。未成年が一番難読なの?意外だな。五大の中だと一番知名度はないよな
【中止しろ】 コロナより、ワクチンで、死者でてる
://2chb.net/r/cafe60/1671073993/l50
文庫で出た『ステパンチコヴォ村とその住人たち』はうまく書かれた小説で 退屈はしないんだが、読み終えたあと何も残らない この長編があまり注目されてこなかったのもむべなるかなだ
ドフトエフスキーは、偏執狂そのものだがこの小説群は慣れると癖になる。 彼は死刑寸前まで追い込まれ刑務所暮らしも経験していて並みの人生とはほど遠い行路を歩んで来た。 だからこそああいうシツコクねっちりとした小説を書き連ねたのだろう。
日本の作家に人気が高いから知名度があがったんだろうな 作家って自分の作品で引用文(もちろん作家、作品名も書く)使うのが好きだよね
>>756 小説とは引用や模倣が当たり前の文学ジャンルであると知りたまえ
古い文庫本は黄色くなってシミまで出来て 同じ訳の新しいの買おうかなあ
古典とは引用はされるが、決して最初から最後まで読まれないものである
>>758 そういう本には愛着が湧くけどな
高校生の時に新本で買った新潮文庫『罪と罰』は米川正夫訳だ
紙はヤケて茶色になっている
工藤精一郎訳に買い替える気はない
>>760 米川氏の訳は味があって好きなんだが、なにせ文体が古いからほら
同じ作品でも訳違いで随分ニュアンスが変わってくるから別物として捉えた方が両方楽しめていいかも
いや、米川正夫訳は意外と古めかしくはない 例を挙げよう 「とつぜん、彼の傍へソーニャが現われた。ほとんど足音も立てずに近寄ると、 彼と並んで腰を下ろした。時刻はよほど早かった。朝寒はまだ柔らいではいなかった。」
>>758 古い文庫は大切にしたいけどつい大切に扱ってしまうよね
新しい方が気軽に読み直せるので
私はヨネマサのカラマーゾフ新たに買い直しましたよ
工藤精一郎さんってハルピン学院でてるんだな 僕の父の従兄がここを出て総合商社マンとして勤務 ロシア語、仏蘭西語は英語以外に論文執筆できるレベル 1923年生まれだったからハルピン学院で間違いなく邂逅してる このハルピン学院と上海にあった東亜同文書院大学は全寮制で学費は不要どころか 大日本帝国政府文部省から小遣い程度だが支給 この時代だと貧困家庭の出自でもアタマがピカ一ならここか 陸軍幼年学校かこの辺の大学へ進学 現在だと、46道府県の出資で僻地医療の改善を目指した自治医科大学とか 防衛大学校、防衛医科大学校、気象大学校、航空大学校 それから旧試時代の司法試験、これらは後5つは特別国家公務員で給与が出ます 防大が一番簡単で東京六大学、関関同立に合格できる程度のアタマがあれば 体力的に良い肉体に強靭な精神力があれば合格 ほかはちょとやそっとのアタマじゃ合格は覚束ない
亀山郁夫さんは、みなさんならどういう評価を下すんでしょうか?
NHKでよくドスト語ってるよね 訳は読んだことないけど貴重な存在だとは思う
まあ、ドストエフスキー自体がレイシストだからな 相手がポーランドとかドイツとか 露助ってのはそういうものなのだろうが
>>766 メディアとうまく付き合うセルフブランディングに長けた人
無知ゆえの誤訳が多いし日本語の文章自体がうまくない
翻訳者としては二流だと思う
>>770 なるほど、分かりました
市場調査能力は高いが、ロシア語に対する理念とか信念が無い
行政能力はあるが政治能力、カリスマ性は無い
簡単にいうと、米川さんとか工藤さんとの比較の対象外ってこったのん 米原万里、もう亡くなって久しいがこの人、みなさんはどう評価? 週刊文春に連載されていたエッセーは軽妙でセンスを感じましたがー
亀山の本一冊だけ『ドストエフスキー 謎とちから』買って読んだ事あるけどマジで国語力が拙すぎて何書いてるのか読み取れなかった 江川卓や中村健之介、望月哲男や山城むつみの評論と雲泥の差 まだ若手の高橋和之の方がマシ
>>773 最後の若手っていうのは高橋知之のことかな
良くも悪くも学者バカで知識面では亀山よりは信用できるね
訳文は理詰めで小説の文章としては死んでいる
>>772 米原万里ってロシア文学の翻訳したりドスト関連の著書出したりしてたかな
通訳というイメージしかないけれど
亀山郁夫の翻訳は問題ないが、どうもロシア文学者から人間的に嫌われているね 嫌いだから、翻訳にもケチをつけている印象だ
全く問題ないね 訳文の読みづらさや疑問点に立ち止まったことはない 解説にはほとんど目を通してないけど
だよねー世間的には亀山さん、それなりに評価されてるし講演も別に問題はない 文学って好みの問題であり、肉好きな人は懐石や精進料理を貶すだろうし その程度の好悪でしかないよねー こんな5chっていう、とてもとても狭い世界で決められるべきものじゃ無いもんねー
>>776 なんでー亀山郁夫さんがロシア文学の中の人から嫌われてるんだろう?
好悪は相半ばする作家こそ最高です 八方美人って誰からも愛されているように見えますが 実は誰からも必要とされてないし、誰からも愛されてないどうでもいい人 世間、社会のフロントにその世界から出たわけで 拍手と同時に矢面に立つ器量が無いとアカンはな
とりあえず亀山信者は訳の読みやすさより彼の悪霊解釈を分かりやすく解説してくれ
>>781 江川訳では『ドクトル・ジバゴ』は良かったが、『悪霊』はイマイチ、スタブローギンの告白が巻末なのもイヤ
>>785 亀山訳でよかったよ
古典新訳文庫のゆるい文字組みも相まって切迫感よりも交響曲のような優雅さが感じられたね
女性は古本を非常に嫌がります 神田神保町界隈を散策してて古本屋に屯してるのは男のみ
それじゃ、西村賢太みたいには絶対なれないわ それこそ石原慎太郎に心底バカにされる人物だ
石原慎太郎の小説ってまだ生き残っているのかね? タレント本路線以外のもので
新潮版の悪霊ってスタヴローギンの告白が巻末についてるだけど、2部8章が終わった段階で巻末に飛んで読んだ方がいいの?それとも掲載通り最後に読めばいいの?
校正の段階では3部1章としていたって注にあるから3部1章にはいるとき読めばいいのか?教えてドストエフスキー博士
そうやって悩む人は亀山訳か岩波文庫の米川訳、筑摩全集の小沼訳を読めばいいよ なにせ江川訳のみ巻末なんだから
>>792 慎太郎は政治家稼業に入る段階で作家はアルバイト感覚に成ったと思う
したがって、死んだら無に帰して頂いて結構というスタンスだと思う
亀山は8章の後か。そこで読むのがどうやらいいらしいな
>>797 古本は処分して頂いて結構というスタンスね
スタヴローギンの告白ってどっちにしろちょっと浮いてるよね
>>799 あの人、凄く気が小さくて神経質な人
裕次郎さんの方が格段に度量がある
>>800 たぶん当人は怒らんよ
それで良いのだ、って宣うはず
西村君は慎太郎の作家として衣鉢を継承しました
この写真と映像を見ると特にだが~
https://sakisiru.jp/20474 ダウンロード&関連動画>> VIDEO 石原のことは石原のスレでやれよ こっちはドストエフスキーにしか興味がないんだから
加賀乙彦さん逝去 著書品切れ絶版が多いよな ドストエフスキー関連で欲しいのがあるが古本は嫌だ
国家が殺人をしていいのか? この矛盾に心を砕いた御仁
髭長髪少なく有効な男性の兵力がいない。 そう考えると刑務所警察署もほとんど公務員を装った詐欺で法的に無効。 こんな古典時代はよかったのか。
>>809 加賀さんの書籍はレベルが高くベストセラーとは真逆ベクトルやでー
この人の本を読解できる人、皆無ですわ
法律は男性18才女性16才以上は全て結婚できるという無法。 政治力というのは対セクハラ暗殺力にも比する。
女性の美貌本質を守り童貞の心理を助けろ。公認心理師の出番。
ドストエフスキーはまだ若い完全な文学ではない。馬良政治力最高97は法律に勝る。
おれは明治大学政治学政界のドンだったけど法律には首をかしげざるを得ない。
訪問看護に来てもらってる。精神科デイケア作業所クリアした。 しかし警察や刑務所、裁判、プラスの権力なんて多重障害者宗教芸術のマイナス世界に無力だろう。精神身体知的心理神経障害など。
繁殖が奇跡的にあるということの邪魔でしかない権力。
星空の破壊力や祈祷の力と切り離され夜空に煙草を吸うこともできない場所が二つある。 刑務所と精神病院だ、皮肉だがリスペクト。
ある意味で星空から切り離された不自然な都市社会のその二点に強制的に滞在させることは 無効にしておく。
夜外出が出来てタバコが吸えるなら誰かは訪れるかもしれないな。 精神病院のほうがバリアフリーだから、刑務所は断っておいた。
そう考えて罪と罰やソフォクレスを読み返してみたまえ。
俺は精神科の君主に永遠にお仕えするから法律的にも精神病院以後へ誘導されてる。 プリズン(刑務所)の仲間にエール。
きついことという面で共感しあえるんじゃないか対立だけじゃなく。
人を苦しめるためではないその二つは。ひとを能力化していくんだ。
そういう意味では現代社会ではそんな施設は意味が分からない。古典研究など。
ドストエフスキーやソフォクレスに心理がいたらと。俺も心理で世界を作り替えた。
人間モノというのはつまらないがそのダークゾーンさ。
ある意味最強組織だと思う。ドストエフスキーがつまらなく見えるやろ。
デイケアの店舗に性欲の倫理が厳しいその組織を置けばいいさ。全世界。
精神分析鑑定で殺しの手法とヒーリング力を診てみる。
知らないこと体験ないことを下にして扱うということを避ける。
知らなかったでは済まされず知っていたなら悩むべきだ。障害のことは。
そっか、じゃ次はリノリウム張りの拘束室で抑制剤を注射され拘束着を装着されるんだね?
障碍者の疲弊考えると、仕事量は不自由なほうが膨大だ。
足腰の神経は奇跡や治療で治ったが。まあおしめのしつけ。 ある意味その二か所はサイコテレパシーの連帯ようなもので監視されてるとおもえ。
刑務所 ロウヒロイン 精神病院カオスヒロイン なら警察病院精神科はニュートラルの稀有な属性だね。
ニュートラルヒロイン 誰もがダンジョンの他人でダンジョンの主人公。
まあ引退したらセリフでもいうね。隠れキャラキャル男じゃないが。
刑務所ブランドで呪いの武器造ればいいんじゃないの 精神病院は神防具。
ニュートラルヒロインは 精神攻撃スキルのようなものを考案すればいい。
人生をプロデゥースする側に立って初めてわかいDDTダブル童貞に先輩からの感謝を返せる。そういう意味では本当の自分にとってのヒロインはどんな属性でもいい時代の妖精に偏る姉ではなく統合失調症でもない。
自分のリアルな時間に若い現実時間が退屈にならない様に。
狂気と悪 ロマンとリアル 失われた時代、完璧な瞬間が無いこと。
要するに主観と客観の合一は無理だという問題。カントも思い出して。
自分に主観と客観があるとか他人にもあると想定できるということは究極確認も論証もしようがない。退屈と待たせるの時間論。
荒しているの「学術」さん笑? 益田裕介先生のYouTubeチャンネルへようこそ
このスレで誰かが加賀乙彦のことを書いたら、アラシがやってきた ドストエフスキーのことだけ語ろうぜ 新潮文庫はいい加減 スタヴローギンの告白を8章のあとに入れるべきだな
偏執狂なドフトエスキー関連の書籍は、古本じゃないとアカン 古本の黴臭い埃臭い、その質濃さこそ彼の精神を体現してます
小木貞孝博士は東京拘置所の医官で何人もの死刑囚の最後の脈を取った偉人 死刑停止で命拾いした『死の家の記録』を描いたドフトエスキーとは導通してまんがな
岸田文雄首相の思わぬ“挫折”…正月休暇用に購入した『カラマーゾフの兄弟』を1巻で投げ出していた!
https://smart-flash.jp/sociopolitics/217326/1 >>809 専門論文だと「拘禁反応」に対する論考があります
これはネット上で閲覧可能だ
加賀乙彦さんの小説はあまり売れませんから初版で絶版になった作品が多い
とても読者にモノを深く思考させる良品が多いが今の軽い時代には即応しません
https://cir.nii.ac.jp/all?q=%E5%B0%8F%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%AD%9D PDFでDL可能です
>>885 君の軽ーい頭なんか、カールのオジサンでも売買に参加はしません
創価学会の信心によるカラマーゾフの兄弟
http://2chb.net/r/book/1675706846/ 文学板トップを絶賛独走中。
ドストエフスキーと信仰の問題を創価学会の信心によって語り尽くす!
> カラマーゾフの因業ジジイが好きな変態プレイは何?
せんずりだよ。因業ジジイとはお前だよ。
15 名前:吾輩は名無しである []: 2023/02/07(火) 18:03:19.96 ID:DLJYs+3c
センズリが変態プレイかよソーカの爺さんw
>>15 > センズリが変態プレイかよソーカの爺さんw
カラマーゾフの兄弟についてのみ答えてやる。怖がらずに質問してみろ。
お前らは孤独で、なにも信じられず、この世の底辺だ。だから俺が怖い。
とくに文学板の連中は、2ちゃんの中でも最低の異常者の集まりです。
だからこそ信仰がいるんです。
トルストイの方が好きです。地下室の手記は凄いけど。
ジャズ・アンビエントから、少しずつSF的な顏を出してくる流れ なかなかオモシロくないですか? VIDEO
難しい悪霊とかも読むのか?凄いな。。。山城むつみさんがドストエフスキー本を出してたなあ。
聞いたことある人、いますか?
聞いたことある人、いますか?
どういう順番で読んでもよい 古本、新本、文庫、全集何でもいいから、ドストエフスキーの 長短編すべて揃えて読むべし 人生が変わって見えてくる
『悪霊』は難しくないだろ 『未成年』は途中で飽きてくる 工藤訳は解りやすいということだけが取り柄の翻訳
ドストエフスキーの全作品制覇はディケンズよりも楽かも ディケンズ作品は入手困難なうえに、 『カラマーゾフ』よりも長い長篇が多すぎる
あまり読まれていない『伯父様の夢』とか『ネートチカ・ネズワーノワ』 あたりが面白いんじゃないかな 読んでいる人が少ないという稀少性がたまらない
>>626 やはり解説にもあるように、
1861年の農奴解放後の西欧化しようとしているロシア社会に疑問を感じた、
民衆から遊離して西欧思想に走った知識人らに対して懐疑的な目を向けてたんじゃないのか、
「そんなことやったってロシア社会は良くならんよ」って思て斜に構えたんじゃね
>>905 『未成年』は岩波文庫の米川正夫訳で読んだが、
とても面白かった
地下生活者の手記、タイトルから思弁多めかと思ったら一応小説の筋はあるんだな なんか来麦畑で捕まえて系の話だなって思った 風俗嬢に説教するおやじって現代でも使い古されたネタをまさか文豪が使ってるとはなあ・・・w
『宣告』という短篇は間違いなくドストエフスキーの最高傑作だ
ソーニャ役は2002年のイギリスのドラマの子が一番可愛い
作家の日記って全然復刊されないね。 ドストエフスキーは人気あるのに不思議ね。
『作家の日記』には短篇小説も入っている 上のレスにある「宣告」もそう とてもいいから、読まれないのは惜しい
ドストを単に小説としてだけ読んでもいいが、 小説に現れたドストの思想を、マルクスやニーチェの哲学とジョイントして読めたら幅が広がるよな、うまく表現できないが、 そんな読み方してる香具師いないかい?
「作家の日記」はちくま文庫の小沼訳を読んだけど、岩波文庫の米川訳を読みたい。 河出の米川訳全集は持っているからそちらで読むことはできるのだが、文庫で読みたい。昔、古本に8000円の値がついていて諦めた。
自分が持っているのは新潮全集の川端香男里訳 この全集は緑の布装丁で手触りが好き
>>923 薄っぺらい読み方しかできない方なんですね?
お気の毒ですw
一つの文に読点が四つw こいつ小学校で国語をちゃんと習ったのかよ? ただのマヌケだろww
工藤訳『未成年』が読みやすくて、 試しに亀山訳を読んでみたら全然肌に合わなかった
2chだったか、亀井訳『悪霊』を読んだ人が「ヴェルホヴェンスキー氏は・・・」と書き込んだら、「それはステパン先生だろ」と周囲からボコボコにされていた。
5chの文学板だったか、2chを読んだ人が「亀井訳『悪霊』」と書き込んだら、「それは亀山訳だろ」と周囲からボコボコにされていた。
>>932 人名の呼び方は亀山訳が嫌われる原因の一つ。
もっとも亀山は中学時代に「罪と罰」を読んで衝撃を受けたと言っているから、彼の翻訳の想定読者は中学時代の自分かもしれない。
ようするにジュブナイルと思えばいいんじゃないないかな?
>933 単なる書き間違えでボコボコは可哀想だな 亀山訳を読んだというわけでもないのに
>>931 そう、文章感覚は人それぞれだよね
自分はドストなら米川正夫訳が一番合う
『罪と罰』と『カラマ』しか読んでいないけど、オレは池田健太郎訳が好き。 池田訳『悪霊』を探しているのだがなかなか見つからない。
わしは望月哲男訳 良い訳かどうかは分からんが読んだ感触が残ってる 亀山訳の悪霊も嫌いじゃない、カラマーゾフはハマんなかったが
外大出のエリートの訳と職業翻訳家の訳ではかなり違うんだろうな? 前者は訳の「正確さ」に重きを置くだろう、 後者は正確さよりも「わかりやすさ・日本語としてこなれてる」ことを重視するだろうな?
日本語としてこなれていると、作者の文体の特徴が消えてしまう ここが翻訳の匙加減の難しいところだろう ところで、山城むつみの『ドストエフスキー』は必読だな
>>941 そうでもない
俺はロシア語はわからないが外大出身の池内紀のカフカはこなれた日本語でわかりやすさを重視してると思う
そもそもカフカのドイツ語がこなれてて読みやすいが
亀山郁夫の後輩だが翻訳『カラマーゾフ』資産相続主題のサイコサスペンス物語にしか読めんだろう 誤訳と云う以前に基督教の無理解が酷過ぎ、低能・白痴丸出しで恥ずかしいてか悲しくなるわ 原作者と根底から世界観が異なる「全くの別物語」(!)
小林秀雄「続編と云うものが全く考えられない完璧な作品」の言葉、も滑稽。
『罪と罰』三浦春馬さん、ラスコーリニコフ演じてしまい結果、 心がもたなかった説。
いくら亀山が嫌いでもそこまで言わなくてもいいのに いちおう外大の学長になったんだし、国際的にも認められている人みたいだし 俺は原卓也訳で読んだけど、亀山で気軽に読める今に世代が羨ましく感じる
水声社版の『カラマーゾフ』読んだ御仁はおらんのか?
【原卓也訳】もイマイチだからな どの作品もイマイチだ
新潮文庫は【江川卓訳】『カラマーゾフ』に交代させるべきだ
佐藤優のドストエフスキー入門ていう新潮の文庫本がある 佐藤はキリスト教神学専攻してた人だが、 そのキリスト教神学の視点から見て訳しかたがおかしい訳もあると書いてあったわ
村上春樹はかなり高齢だが、彼の書く物語の主人公は基本的には若者、 その点で、村上文学はドストに近いと指摘する者もいる、 もまいらの村上文学に対する評価は?
村上はただの流行作家だろ 作品を読むのは時間のムダ
村上か、一言で云えば"sentimental"で終わり
「軸見文則」ってこのスレとしては如何? カミュ、ドスト辺りのパクリで芥川賞詐取したクズな輩。 ド・田舎の3流以下のFラン塵(ごみ)大学出身な笑!
『地下室』の主題:「安っぽい幸福と高められた苦悩とどちらがいい?」 解答:「高められた幸福が一番に素晴らしい」
軸見文則はさ、「借りモノの苦悩」を以て 衆愚と化した無能な芥川賞審査員を巧く騙してさ笑!
中村のお手本はセリーヌだろ カミュもドストエフスキーも全く似てない どこがパクリなんだか 何も読んでないのバレバレ
セリーヌは全く似てないだろw まだドストのほうが分かる
あすかalcoholガン決まり破目を嵌め捲りしまっt
>>947 >>944 は病人。孔子も、危ないやつには近づくな、と再三警告している。
関わらないのが身のため。
露文の翻訳者って外語大出が幅を利かせているような気がする。 米川正夫の影響か、はたまた二葉亭四迷まで遡るのか?
山城むつみの『ドストエフスキー』は『未成年』を 高く評価しているのが目新しい もっと読まれてほしい長編だ
どなたか後継スレを立ててください 【スレタイ】 ☆☆☆ドストエフスキー統一スレッドA☆☆☆
ドストエフスキー、ドストエフスキー作品を語り合うスレッドです。
和気藹々とやりましょう。
【前スレ】
☆☆☆ドストエフスキー統一スレッド@☆☆☆
http://2chb.net/r/book/1606958282/l50 大学でロシア文学を専攻する私は、以前、ドストエフスキーの二番目の妻であるアンナ・グリゴーリエヴナが記した「回想のドストエフスキー」の冒頭部分を読んだことがある。 アンナは、なんとロシア正教の聖人と誕生日が同じだという。最初の結婚生活の不幸や、若い愛人との激動の恋愛関係など、女性関係に恵まれなかったドストエフスキーにとって、アンナとの出会いはまさに運命の女神の贈り物だったのだろう。 1867年2月15日に25歳という年齢差で結婚した二人は、その後、二人の娘と二人の息子を授かる。当時45歳か46歳だったドストエフスキーにとって、アンナとの結婚はかけがえのないものとなった。 アンナは容姿端麗で、ドストエフスキーの借金返済や創作活動においても献身的に支えた。特に、借金取りに追われ、生活に困窮していた時期には、速記者としてドストエフスキーの口述筆記を行い、作品完成に貢献したという。 「罪と罰」の執筆後、借金返済に追われたドストエフスキーは、執筆時間を短縮するために速記者を雇った。それがアンナとの出会いだった。まさに運命のいたずらと言えるだろう。 アンナの協力によって書かれた作品には、「悪霊」や「カラマーゾフの兄弟」などがあり、特に遺作となった「カラマーゾフの兄弟」はアンナに捧げられている。 アンナ・グリゴーリエヴナは、ドストエフスキーの晩年を支え、彼の創作活動に大きく貢献した人物と言えるだろう。
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