このスレは東日本大震災から今年で10年目という節目を迎え改めて当時のことやこれからの災害時に活かせそうなことを語り合うスレです。
被災者や遺族の方々を傷つけるようなレス等のことはしないでください。
そして、私は震災当時4歳でなぜか全くあの時の記憶がありません。なので皆様の体験談を知れたら嬉しいです。
とにかくあの時は食料がなかった。
パンのコーナーとかほぼ全部何もないし。
テレビもつまらなかった。
あの時は5才だったかな
>>2 東日本大震災緊急支援関係が多かったんでしたっけ 10年前は、この板の「頑張ろう仙台 !!」スレにずっとおりました。
被災された挙げ句、水もない、電気もガスも食糧も燃料もない。
寒さも厳しいなか、確かに生きづく被災者の方々のレスに思わず涙しました。
まだわずか10年。応援しています。
地震が来てすぐに「水を確保しなくちゃ!」って自転車で飛び出して
近所中走り回って夕方戻ってきたら、両親が
うちの裏の畑の湧き水を汲んでた
石原が都知事に再出馬するとかいう速報が流れてて、
TVで会見を聞きながらムカムカしてるときに揺れだした
TVを押さえに行ったけどどんどん揺れが強くなって、
ベッドから布団を引っ張ってきて頭からかぶってた
照明のプラカバーが外れて頭におちてくるわ
本棚はぶっ倒れて階段を滑り落ちるわ
親父が帰ってきてTVをつけろっていうから
カーナビでTVつけたら津波でわけわからんことになってた
ろうそく持ち出してみんなで居間に布団敷いて寝たけど
ラジオから聞こえてくるのはひたすら死者行方不明者の名前ばかり
三日目に電気が復旧してPCつけたらネットもつながってて
なんだよ仕事できるじゃんクソって思いながら会社に連絡して
その夜流れたニュースが三号機の爆発だった
まず頑丈な机の下に猫を押し込んだ。
猫も理解してるのか鳴きはするけどその場に留まってくれていた。
遊園地のフライングカーペットやバイキングと呼ばれるような細かくはないけどゆっくり揺らぐ地震が長く続いた。
続く停電で状況は何も解らなかった。
ロウソク灯して早々に眠った次の日、停電が解消して初めて全貌を知ったよ。
頭からや知識などではなく、初めて心から怖くて悲しくて涙が止まらなかった。
スレ主さんの少しでも何らかの知識や思いになれば。
そしてあの日に合掌を…。
ちなみに地震の後は凄く寒くなって、ガスは生きてたからペットボトルにお湯を入れて湯タンポにした。ご飯もガスで炊いた。
オール電化って便利ではあるけど何かあった時の為に一極化ない方が良いと、個人では思います。
うんこしてたらすごい揺れ出して、
慌てて立ち上がって、便器の外にウンコこぼして、掃除大変だった
>>12、腹が立つよ。
なんで敢えてここでいじりたいのか?気に入らないなら無視したら良い。
道化を装って茶化したいのならもっとふさわしい場所もあるはずだろう?
知識の無かった子が知りたく思ってくれて聞いてくれたのだと。自分に何かあった時の知識と後に伝える為に。 被災地の状況を教えていわれて青葉区の様子を書き込んだんだが、「どこの青葉区ですか?」と聞かれた。
仙台以外に青葉区があると知った。
あの時の人どうしたかな。
花は咲く 東日本大震災
ダウンロード&関連動画>>
岩井俊二(作詞)
菅野よう子(作曲)
「花は咲く」(はなはさく)は、2012年に発表されたチャリティーソング。同年5月23日にflying Dog(ビクターエンタテインメント)から発売された。2011年3月11日に発生した(東日本大震災)の被災地および被災者の物心両面の復興を応援するために制作されたチャリティーソングで、日本放送協会(NHK)が、震災後の2011年度から行っている震災支援プロジェクト「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマソングとして使用するために企画制作した曲である。国内向け放送(ラジオ第2放送を除く)・国際放送(NHKワールドTVは歌詞および出演者の英語字幕を追加表記)とも編成の空いた時間帯を利用して随時この曲を流している。
作詞は宮城県仙台市出身の岩井俊二が手掛け、作曲・編曲も同県同市出身[1]の菅野よう子が担当している。歌唱参加者は、岩手県・宮城県・福島県の出身者とゆかりのある歌手・タレント・スポーツ選手で、「花は咲くプロジェクト」名義となっている。
作詞の岩井は「この歌は震災で亡くなった方の目線で作りました」と、また作曲・編曲の菅野は「100年経って、なんのために、あるいはどんなきっかけで出来た曲か忘れられて、詠み人知らずで残る曲になるといいなあと願っています」と語っている。
この楽曲の作詞・作曲家への印税は、全額がNHK厚生文化事業団を通じて被災地の自治体に義援金として寄付される。そのため、この楽曲が音源でカバーされたり、コンサートで歌われたり、テレビ・ラジオでオンエアされる度に義援金が増えてゆくという仕組みになっている。wikipedia >>12
TV付けてもスポンサーが消えて
ACのCMだらけで不気味だったな
子供だったらトラウマレベル 楽しい仲間がポポポポーン
原発が爆発するのを示唆しているように見えて怖かったんだよ
私は友人を、石巻、大船渡そして山元町で一人ずつ亡くした。山元町
で現場を見たら、竹竿が立っていて赤い布が巻いてあった。人が亡くなった
場所にはそれが立てられたのだった。私は生涯あの光景を忘れない。
立ってられないほどの揺れが三分も続くとか初めての経験だったが外にいたからか案外恐怖感無かったし何なら薄ら笑い状態だったわ近くにいた婆さんが若いリーマンに必死にしがみついてたのは何故かよくおぼえてる
夜になって何もすることなく聴いてたラジオと東京の叔父が電話で教えてくれた地元の仙台空港とか閖上の状況とかで何となく大変なことになった実感が湧いてきたな
やる必要もない計画停電をやって死者が出た。
その計画停電、「節電しないとね!」とネット内でもりあがり、「ヤシマ作戦」と名付けられた。
11日というより金曜日だったことをよく覚えてるから、明日の方が10周年感が強いな
未来のビジョンを当たり前のように降臨させられて、それが日常の屁をこくくらいでさ
同じレベルで会話出来る人おらんの?
何で未来が天気予報と同じくらいの程度で見える人がおらんの?
北海道住みだったけど揺れが激しくて幼子が怖がったのでサーフィンのフリして笑いをとってた
その後の津波の映像で言葉を失い原発爆発で終わりを覚悟した
怖すぎるから全原発とっとと廃炉にして
>>27、それがガチならつらいだろうね
全部分かってて知ってる通りに進むなら楽しくも嬉しくも無いだろうな
自分は何の力も無いから同じステージには立てないけど、少しでも気持ちが紛れますように
何だかんだ言って、嫌な所も沢山あるけど人って生きるって素敵だと自分は思うよ
色々あったって美しい花を咲かせる木々のように、哀しみだけに思いを向けず、せっかくの機会だから楽しんで生きましょう
余計なお世話ごめんね
あの日を生かせて貰ったからこそ余計にそう思うんだ >>11
液状化現象で下水管が浮かんで来た地域は
下水管から逆流して糞まみれになったんだろうな ぐらぐらぐら
ピーン ピーン ピーン
その場でタクシー拾い直帰
橋で余震にあいタクシーごとジャンプ
千葉が燃えていたかも?
千葉はディズニーランドは液状化現象の影響をあまり受けなかったのに
近くにある住宅地周りの地盤があちこち水が吹き出してボコボコになってたのは
手抜き工事だろとか言われてたな
東京都は犠牲者はほとんど居なかったが
近くのコストコのスロープが崩れて数人巻き込まれて
東京消防庁の車両がサイレン鳴らしてえらいことになってた
どこかで見たけど
絶体絶命 いと しき からだ いと しき いのち
っていうのを考えた人すごいよね
揺れてから15秒の間で
5000人の死傷者が出た神戸の震災と違って
逃げる時間があったんだよな
普通の地震とは明らかに違う前震が何度か有ったし
歴史的に記録されていて津波の被害受ける地域も分かっていて
ご先祖様が石碑にこの石より下に家を建てるべからずと掘っていて
地震が来たらダッシュで高台に避難しろと言われているようなやばい地域に
漁業関係者でも無く住んでいるのが信じられないとは思う
怖くて寝れないよな
数回有った前震がNHKのメガクエークって特番で解説されてた
長周期地震動な揺れ方だったのでこりゃプレート型の大地震が来るぞと思ってビビっていたら数日後に来やがって
NHKの特番で地層のボーリング調査をしていたら数百年周期で大津波が来ていたと言ってた地域がそのまま被災地になっているから
どうしようもない
昼間で多少は温かい日だったからまだ運が良かったんだよね
真冬の夜中に来たらもっと死傷者が出ていただろうに
そんなハザードマップに入ってる地域に住むなよ
と思ったりもする
すぐに応援で福島に行った
あちこちからの救援は来ていたが、それでも水道が止まってて、ホテルは営業出来てなかった
放射線は関東より強かったが、それでも1週間で200マイクロシーベルトくらいの被爆だったから大したことは無かった
仙台はガソリンスタンドに1km近くの行列出来てたが、1台10リットルまでとか規制されてたな
関係者しか入れない東北道を北上したが、段差がいっぱいあって、50キロくらいしか速度出せなかった
自衛隊員がSAでトイレ休憩してた
東北新幹線も支柱から倒れててたが、確か数ヶ月で復旧させてたな、あれには驚いた
事故後しばらくして、政府が「広域処理」なるものをやると発表した。どう考えてもヤバい岩手の震災瓦礫をわざわざ県外に持ち出して他県で焼却処理すると。
>>34
多摩境やな
未だに行く時少し心配になるわ