http://blog.tatsuru.com/2023/05/01_1431.html 私が十代二十代の頃は高度成長が長く続き、三十代にはバブル経済を経験した。みんなが金儲けに夢中になっていた時代であり、日本人が主観的には世界一リッチだった時代である。日本人はマンハッタンの摩天楼を買い、ハリウッド映画を買い、フランスのシャトーを買い、イタリアのワイナリーを買い、ハワイのコンドミアムを買い、ゴールドコーストやコスタ・デル・ソルにリタイアした富裕層のため別荘地を買った。値札がついているものなら何でも買えると思って、人々は多幸感に浸っていた。
この時の日本人はそれほど「貧乏くさく」はなかった。自分自身の「パイ」が増大し続けている時には、他人のパイの取り分のことはあまり気にならないのだ。欲望は日々亢進していたが、嫉妬や羨望に身を焦がし、富裕な他者の没落を願ったりするというようなことは(あまり)なかった。私のような何の生産性も社会的有用性もない研究をしている学者のところにも、ずいぶん潤沢に研究費が回って来た。不動産や株の売り買いで忙しいビジネスマンの友人たちは、給料だけでつつましく暮らしている私を見て、「金の稼ぎ方を知らないやつだ」と嘲笑してはいたけれど、「まあ、好きなことしていればいいさ。こちらの金儲けの邪魔にはならないんだから」と放っておいてくれた。
でも、そんな気楽な時代も不意に終わった。自分のパイの取り分が減り出すと、急に人々は貧乏くさくなり、他人の取り分についてあれこれ言い出した。「働きもないのに取り過ぎているやつがいる。社会的有用性に基づいて、資源は傾斜配分されるべきだ」と。そうやう理屈をこねながら日本人はどんどん貧乏くさくなっていった。公務員の既得権益を剥がせとか、生活保護のフリーライダーを許すなとか、生産性のない人間は去れとかいう言葉づかいは、私の記憶するかぎり、この時期にはじめて登場したものである。それまでは聞いたことがなかった。