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「非モテは不幸だという呪い」
小野ほりでい 2020/10/01 21:00
(前略)
ざっくりと言ってしまうと、女は男がいなくても幸せになれるが、男は女がいなければ幸せになれないという非対称性がこの歪みの中心にある。
この差異について説明するのに、ドゥルーズの「パラノ(パラノイド=偏執型)」、「スキゾ(スキゾフレニア=分裂型)」という区分けが役に立つかもしれない。
この分類では、パラノは「良い学校を出た、良い会社に勤めている、良い夫である、良いパパである」といった社会的役割や関係性にアイデンティティを見出す。
一方でスキゾはこのような属性にこだわらない、あるいは逃亡する側の分類である。
家父長制における「わたしは一家の大黒柱である」という父の自負はパラノ的な感性を代弁している。
パラノにとって、わたしが何者であるかについてわたし自身に語ることはできない(私は何者でもない)が、あなたの父であることによって、あなたの妻であることによって、
父である私とか、夫である私というアイデンティティが成立する。他者との関係性を介さなければ存在できないアイデンティティがパラノのそれである。
したがって、パラノの行動原理としては「誰かのために」ということが自分を差し置いて第一義になる。
良いパパである自分、良き夫であり一家の大黒柱である自分が辛い労働に耐えられるのは「家族のため」である、というこの自己犠牲的な意識がパラノの根幹にある。
この苦痛の合理化は言うまでもなく「私が多大な犠牲を強いられているのは家族のためである」という逆流を起こし、
たいへんな労苦を強いられている父親を尊敬しない家族に対して吐かれるのが「誰のお陰でメシが食えている」という例のセリフである。
パラノの美徳は誰かに貢献し、喜ばせることであり、パラノにとって「自分で自分を楽しませる」ことは屈辱的逃走である。
したがって高度にパラノ的な人物は常に自分がいかに誰かの役に立っているか、あるいは社会に貢献しているかという他者視点を通じて自己を語る。
他者の視点という光を当てなければ不可視なのがパラノの主体である。
いわゆる男性性の中心にはパラノ的な自己犠牲の原理が組み込まれており、そして上の子どもたちの例のように「男性同士」の間で
パラノからスキゾへのハラスメントが行われることによって男性性のパラノ的性質が強化を受ける。男性のスキゾ的な傾向には同じ男性から横槍が入るのである。
パラノからスキゾへのハラスメントは、スキゾが「自分で自分を楽しませる」態度への批判と羨望である。
スキゾは「良い父親」「良い夫」でなくとも、自分で自分を楽しませることが可能である。
一方でパラノにとって「自分のことを自分でする」のは、自己犠牲によって他人の奉仕を勝ち取るというパラノ的な構造に対するダンピング行為を意味する。
たとえば男が自分のために料理し、自分のワイシャツに自分でアイロンをかける態度はスキゾ的だといえるが、この行為にパラノが「自分で料理しなければならないなんてみじめだ」
「アイロンをかけてくれる嫁もいないなんてかわいそうだ」と横槍を入れるのを目にするだろう。
スキゾが趣味に没頭したら、あれは寂しいから現実逃避しているのだと揶揄し、ゲームに熱中すれば、そんなものが何の役に立つのかと冷笑する。
パラノにとって「自分で自分を楽しませる」というスキゾ的行為は、性愛を通してしか自分を満足させることを許されない男性性のルールに対する違反行為なのである。
しかし、ここでスキゾだのパラノだのと分けて表現しているのは、厳密に「そういう種類」の人間が存在しているというのではなく、
上のような例も「パラノ的になろうとしてなれないスキゾ」の自己憐憫・自己批判の延長として表現されることが考えられる。
https://note.com/onoholiday/n/n9ac24b2ef32e