◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之 とみられる方へ:マインドフルネス Part13 YouTube動画>3本 ->画像>2枚
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最近慈悲の瞑想の大切さを強く感じる マインドフルネス瞑想でせっかく思考や感覚との同一視を離れても、 慈悲の瞑想しないと定着しづらい 他人も自分も同じなんだ・・・という慈悲の感覚は理にかなってる そりゃ深い瞑想体験も必要だけど、それはオウムだってエキスパートだったのでは? あそこは慈悲といいながらヒエラルキーと、解脱か地獄かの二元論をつかって 恐怖で縛っていた。 そりゃどんな深い体験をしたって、それはただのサイトシーイングで終わってしまう
あらゆる瞑想方やってて感じるのは、観察瞑想は自我が剥がしていくイメージ。 集中系の瞑想で深い瞑想体験をしても、観察がなければその体験すら自我を肥大する糧になるだろう。
内観によって見る者と見られるものの統合が起こる。 気づきの目をあなどってはならない。 それは開かれ、拡大し 全てを見通す目となるのだ。 あなたは気づきに場を譲るだろう。
慈悲は枯渇する事のない泉だ。 溢れ出すその泉にひとたび触れたなら あなたは慈悲そのものとなる。
>>3 深い瞑想ったって、あそこは長時間監禁まがいのことして刷り込みしたり
LSDだの使ってたわけで
そんなん「エキスパート」呼ばわりして差し上げてはいかんと思うよ
上祐が「あなたは悟っているのか」という問いに「悟っているかどうかはわかりません」(大意) と答えたり、 自分の目の前で起こった信者殺害について「怖くて言えなかった」って発言してるのは いろいろ興味深い
>>4 集中と観察を別のものと考えている時点で未熟
集中と観察は切り離せないもの
止観双運
集中に入るための呼吸法を「それは呼吸法でマインドフルネスではない」、と切り捨てる愚か者はそれがわかっていない
集中から入るマインドフルネスもあるということを
未熟だとか愚か者だとか、なんで人をこき下ろしてマウンティングしたがるのかな
瞑想する動機が、偉くなりたいとか尊敬を集める人間になりたいとかなのでは
>>17 ナチュラルに人を悪く言う時点で実現は無理だろうにね
というかマインドフルネスは基本的に集中から入るもののような印象なんだが 無念無想系マインドフルネスとか 脱力系マインドフルネスとかあるのん?
とかいうとなんとく返ってきそうなレスも予想できるんで 予め断っておこう 単にカバとかティクとかチャドとかの メソドロジーの話ね
>>19 止観瞑想
止が先で観が後
人間が容易にコントロールできるのは呼吸だから
集中から入るほうが簡単だろうね
観はその後自ずから止が深まるごとに立ち上がる
呼吸は自然に任せてそれを観察するのか それとも意識的にコントロールするのか
何かを越えたい時、自分から働きかけるのか ただ観てるだけなのか
ここではない何処かへ行きたがるのか ここにいるのか
>>25 人生を越える
生に終わりを告げるために瞑想してるのではないのかね?
もう二度と生を受けないために
生まれ変わりのことを言ってるなら そんなの信じてないし もう生まれたくないというほどには苦しくないし 大前提から自分に嘘を強制するような瞑想なんてやってもロクなものにはならないでしょ 生まれ変わりを信じていて、もう生きるのが嫌だという人なら そういうのは切実なんだろうけと
生まれ変わりを信じないw このアホは経典を読んだことないんだろうね スッタニパータすら読んだことないんだろうねw 最近のマインドフルネス本だけ読んでわかったつもりのアホw
読んだから全部信じるというのは まことに頭のよろしいことで。
全部信じてるかどうか決めつけるのは まことに頭のよろしいことで。
他人をアホ呼ばわりする人間性… 経典読んでもまったく生かせない人間もいるってことが分かるね
アホと呼ばれたくなかったら 最低限経典くらい読んでから書き込めよ どアホw
マインドフルネス実践してます 釈尊の教え信じます 生まれ変わり信じません?w 輪廻転生信じません?w
マインドフルネスブームに乗っかって 経典すら読んだことないのも多いんだろうな そんな軽い奴らが瞑想を語るw
それじゃ聞くけどさ、生まれ変わるって一体何が生まれ変わると釈尊は言ってるの
カーラーマ経の一節 「経典にあるからといって信じるな」
釈尊じゃないからわからない 釈尊自体何が生まれ変わると名言してないだろ ただ輪廻転生を示唆する記述はある
あと、経典すら読んだことがないとか軽くいうけど、仏教の経典全部でどれくらいあるか知ってますか
>>19 プラユキ・ナラテボー師の指導する手動瞑想や歩行瞑想では特に集中は必要ないと言ってる
いくら経典読んでても八正道すら実践できないなら自我を肥やすための知識にしかならないのね
ネチネチ嫌味を言ってる奴も実践できてるとはおもえないけどな
>>1 宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる
科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう
時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる
(神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし
無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、
それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう
そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる
この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる
空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説)
存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想)
創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間)
始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる
ん〜 スクリプト組んでみたとかかな… 謎はつきない
>>42 般若経だけで600巻以上にもなり半世紀かかっても読破して理解するのは無理だろうって中村元先生が言ってました。
経典でも輪廻はあるように書いてあるが自分が生まれ変わるというようには書いていない なぜなら自分と呼べるものは無く(無我であり 生まれ変わりという言葉を使うなら業が次の生へと生まれ変わっているように見える
何が生まれ変わるか分からないのに 生まれ変わりを信じてるというのも 不思議な話だ
解脱って何? 解脱の意味もわからないのに 生まれ変わりを論じるというのも 不思議な話だ
生まれ変わりを信じていている人というのは、何が生まれ変わるか分からないけど、とにかく信じるんだ!みたいな感じなのかな まあ宗教ってのは、そういうものなのかもしれないが
生まれ変わりを信じていていない人というのは、釈尊の教えを信じていない人なのかな まあマインドフルネスは元々宗教から派生したものということも理解せず宗教色を排除したがってる人なのかもしれないが
信じる信じないじゃなく ひとの思いを理解し許容する姿勢があるのかって問題じゃない?
マインドフルネスは信じます でも生まれ変わりは信じません 釈尊の言うことは信じません ということかな?
釈迦が言うことをそのまま信じるのが仏教ではないだろう
ID:ZK6cXrz0さんは、釈迦が生まれ変わりがあると言っているという 思いから、生まれ変わりはあると信じているという立場でいいのかな 文章改変繰り返されるのめんどくさいから先に言っておくけど、俺は生まれ変わりは信じられない ただ、ID:ZK6cXrz0さんが生まれ変わりを信じていているからといって、信じるのをやめろなんてことは言わないよ
確かにマインドフルネスも、色んな年中行事も宗教起源の物が多いけれども、そんな事言ったら相撲とかは元々神事だし音楽とかもそういうの多いしキリがなくなる。 宗教的意図は無いよ!ってんなら「ああ、そうですか」としか思えない。 よりもおっぱい揉みたい。若い女の子の、たわわに実った張りのあるおっぱいにむしゃぶりつきたい。
自分の信じたい事だけ信じて 信じたくない事は信じない 信じたい事を言ってる人が信じたくないことを言っててもそれは受け入れない 自己都合で 我で 時には一週間以上経ってるのに再びその話題を持ち出してまで自分を正当化したい我
信じるってのは積極的行為だから一種類しかないけど 信じないってのは否定(あり得ない)と保留(信じるに足る根拠が不足)の二種類はあるから 相手がどっちを言ってるのか読み取らないとね
マインドフルネスやってる人も別に最初から信じてやってるわけではないでしょ 信用できるかどうかとりあえずやってみてるだけなのでは そもそも仏教の内容を本当に信じられるようになるのは預流果になって仏法への疑念がなくなったときだろうし そうでもないのに信じてるとしたらそれは信じたいっていう自分の願望だよね
マインドフルネスに関してはその効果が科学的に実証されてるからオカルトとは一線を画する気がする グーグルがやってるサーチインサイドユアセルフみたいな……詳しいソースとかは最高の休息法って言う2500円位の本に載ってる? まあ、瞑想に関しては5種類しか載ってないし本当にこれからマインドフルネス始める人向けな感じだけど、まあまあ良い本だった気もする(内容がストーリー仕立てでマインドフルネスを実践しながら店を立て直すって感じで自己啓発本的な構成だったけども) 私は瞑想でアルティメットテケテケ様と自由自在に会話できるようになりたいしその他にも夢があってまあどっちもやってる系ですね
>>69 仏教の瞑想は生まれ変わらないための実践
病気の治癒とか現世利益を求めるマインドフルネスとは目的が異なる
輪廻とは、精神的と物質的のプロセスのことです。 それが輪廻と呼ばれるのです。 ある人が、一つの生から別の生へと移るという、物語のことではありません。 ウ・ジョーティカ ---------------------------------------------------------------- 仏教の瞑想指導者であるウ・ジョーティカは、輪廻とは生まれ変わりのことではないと言っているね
解脱するまでは肉体は死んでも死ななくても心相続はあるというのが仏教の立場でしょ ウ・ジョーティカ師の言うことは間違ってないし、さりとて死後の生まれ変わりを否定する立場でもない チベット仏教でもテーラワーダでも死後の心相続や死後の生まれ変わりを固く信じているんだから、 躍起になって否定することはない 生まれ変わりの原動力となるのは執着 マインドフルネスも、執着を手放すという目的自体は同じ 別にお互い否定しあうことはないんじゃないの?
宗教の立場からは、深い瞑想の実践や体験、長く続いたサンガでの実例、理論と経験の積み重ねから、瞑想の延長に転生の概念は事実であるとして支持してきた マインドフルネスは、そうした仏教の瞑想をかりてきて、合理的に役立つものとして 拝借した しかし転生まで考えなくても、役立つんだから信じろ信じるなは必要ないよ
「解脱」そのものが生まれ変わり前提の話だよな? 輪廻転生を否定する人は 釈尊が何から「解脱」したとおもっているのかな?
76.自分から解脱した、に決まっている。バカには理解できない。
何が生まれ変わるか理解してないのに解脱とか語るの?
何が生まれ変わるか理解してないと解脱を語っちゃいけないの? 釈尊は何が生まれ変わるか明言してるの?
毒矢が刺さってるのに これは何の毒か理解してないから引き抜かないの?
まず輪廻転生を否定した発言があったかどうか確認してから話を進めたらどうかと思われ
釈迦が生まれ変わりがあると言ったというより 釈迦が生まれた2500年前のインドが 生まれ変わりを常識とするバラモン教の影響下にあって そういう環境の中で釈迦は生きて発言していたというのが本当のところではないだろか そういう中で瞑想によって今ここを如実に知ることにより 輪廻から脱しようという
あと、解脱って生まれ変わりを前提とした話しなんだろうか? ニルヴァーナは現世において到達するものとして語られていたのでは
そう言えば『解脱』と『解説』って同じ字だけど全然意味ちがくない?いや、同じなのかな……。と思ったけど違う字だった……。これが中卒の限界かぁぁ!黙って瞑想しときます。 おっぱい。おっぱいおっぱいボインイーン。踊るおっぱい見るおっぱい。ここはおっぱいパラダイス!
現世は思うようにおっぱいと触れ合えないからおっぱいを求めるけど おっぱいだらけの世界に行ったらおっぱいもどうでもよくなるだろうなあとマジレス
業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である (清浄道論Visuddhi Magga)
お釈迦様の言う輪廻とはね 生きているという観念と死んでしまうという観念のこと それが年がら年中グルグルと激しく揺れ動いているのが凡夫の心 お釈迦様はその観念を捨てちゃったんだよねー つまり生きてもいないし死にもしないってこと
ブッダは世界は幻想と見破り 生きながらにして死ぬ事によって 決して生まれて来なかったと悟ったのだ。 その境地こそニルヴァーナだが 言葉にするとたちまち観念となる。 真理は言葉では言い表せない。 だからこそ多種多様な仏典や経典が存在する。
<葉隠聞書> 端的只今の一念より外はこれなく候。 「一念一念と重ねて一生なり。」 ここに覚え付き候へば、外に忙しき事もなく、求むこともなし。 この一念を守つて暮すまでなり。 皆人、ここを取り失ひ、別にある様にばかり存じて探促いたし、 ここを見付け候人なきものなり。 さてこの一念を守り詰めて抜けぬ様になることは、 功を積まねばなるまじく候。 されども、一度辿り着き候へば、常住に無くても、 もはや別の物にてはなし。 この一念に極り候事を、よくよく合点候へば、事少なくなる事なり。 この一念に忠節備はり候なりと。
日が昇ったら日が産まれたと思うだろうか 日が沈んだら日が死んだと思うだろうか んなこたーない ただ位置関係が変わっただけ お前が死と思いこんでることもその程度のこと
>>15 >集中と観察は切り離せないもの
混同してるから集中無心と観察集中って分けた方がいいでしょ。
某長老が大先生と呼び、阿羅漢解脱している師とされる
アーチャン・チャー 「手放す生き方−気づきの瞑想実践」より抜粋
・「サマタによる心の平安は、私たちの最終目標ではない。なぜなら、
サマタによって心の平安を得ても、渇愛(タンハー)や苦は依然として
存在しているからだ。それゆえ、ブッダは心の平安を得た後も瞑想を続けた。
ブッダは、自身がサマタによる心の平安に執着しなくなるまで、
存在の真実を探求し続けた。サマタは修行の途上の一段階にすぎない。」
・「ブッダは、智慧を通じた解脱とサマタ(止)を通じた解脱の2つの修行を説いた。
智慧を通じた解脱を目指す人は、ダルマについて聞くと、すぐにそれを理解し始める。
教えはシンプルで、ただ物事を手放すこと、物事をあるがままにしておくことだから、
多くの努力やサマーディ(定)を必要とすることなく、彼らはとても自然な形で
手放すことの実践を始めることになる。このシンプルな実践は、最終的に彼らを
我(アッタ―)を超えた、もはや手放すものも、つかむものもない場所へと
導くことができる。一方、サマタを通じた解脱を目指す人は、その経歴次第でより
多くのサマーディを必要とすることになる。彼らはとても厳格な方法で、
長い期間坐る瞑想をしなければならない。」
集中瞑想を否定する風潮があるけれども サマディの中で覚醒している人もいるからね。 アチャンチャーの解説は、説明の一つかな。
まあ、宗教5ちゃんねるも、57歳ニートのクソジジイ しかいないんだけどね(笑)
欲望を乗り越えるためのメソッドが 欲望を満たす 皮肉
あきらかに本末転倒って気がしますね でも、俺も「少しでもましな人間になれるように」って効果を狙ってる時点で ある意味で同じかもしれない 多少なりと怒りっぽくはなくなった 少しは慈悲深くもなったような気がする これがマインドフルネスの効果なら、周りの人の役にもたつことだし続けて生きたいと思う 皆さんがどう生活に取り入れてるか、どう習慣づけてるか教えてください
悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想
欲望を乗り越える目的のために瞑想するのも セックスの悩みを解消する目的で瞑想するのも同じだね
>>100 こういう話は多層的 段階的なところが多くあるので迷ってしまうかもしれませんがポイントは 今の自分にいつでも帰ってくることです
苦しみから逃げたい 良くなりたい 大いに結構じゃないですか それらの気持ちがあるから目覚めることができるんだと思いますよ
一つ うーん と思うのはこの方法をスポーツの練習のように捉えてらっしゃるところがあるのではというところです この方法は自分を観察することだけです 観察した結果 自分でどうこうしようということは無くても良いんです
自分を観察するだけ、いつでも今の自分に帰ってくること なるほどシンプルですね そして深いと思います どれだけそれを忘れている時間があるか ありがとうございます
マインドフルネスを始めて一週間 なんですが終わった後に 脳が疲れた感じになってしまいます 脳が疲れてしまうのって 始めたばかりでは普通なんでしょうか? 対策とかあるのかな?
疲れているというただの思い込み か 根本的に方法が間違ってる
>>105 脳に疲れる機能は無いです
腹式呼吸をすると副交感神経が優位になって眠くなります
それを疲れたと錯覚しているのでは
>>105 脳なのかどうかわかりませんが 非常に疲れますよ しっかり出来ているほど疲れます
集中力を使うせいでぐったりするほか 今の状態から多少なりとも変化しようとする反対に 今のままを維持しようという力も働くため熱心にやりすぎると体調を崩したりします
どんな方法で実践されてますか?
通常の意識で行うと脳が疲れる。 そのまま長時間続けると大変なことに。 しかしこれが一般的に行われているマインドフルネス。 本当は間違ったやり方。 本当のマインドフルネスは非思量であり、 つまるところ禅と同じ。 誰がマインドフルネスをしているのかといった問題。 意識の状態が要。
>>105 https://ja.scribd.com/doc/25777519/Right-Attitude-Japanese >5.もし心と身体とが(瞑想したことによって)疲れてくるようであれば、あなたの瞑想のやり方はどこか間違っています。あなたの瞑想の仕方をチェックしてみましょう。
>>108 時間は20分間
マントラを頭の中で唱えながら
雑念が浮かんできたら
マントラでかき消しています
過去の嫌な事が浮かんで来ると
どうしても反応して瞑想が途切れてしまいます
やり方は合ってるかな?
>>111 横ですが二つ問題点が…
まず、第一にマインドフルネス瞑想ではマントラは使いません。少なくともwikipediaに載ってたり欧米でマインドフルネスとして学問的に効果が測定されてたりするメソッドじゃないです。
それから第二に、マントラ瞑想としてもマントラの使い方が間違ってます。どこかで教わったのか本で読んだのかは知りませんが、雑念をマントラでかき消すとかあり得ないです。実はそんな事教わって無いor書いて無くて、勝手な思い込みでやり方変えてないですか?
>>111 おーなるほど 色々ご自身で工夫されてるわけですね 自分自身を観察する瞑想としては機能していないように思います どの部分が機能していないかというと 雑念をかき消すところです
どちらかというと故意に嫌な記憶 妄想をあぶり出して 心身の拒否反応をまざまざと観察しても良いくらいです
マントラも今の自分をはっきり意識するような内容であれば最初は役に立つかもしれません 例えば この瞬間 この瞬間 とか 私 私 など
過去の嫌なこと まさにこれが観察すべきご馳走なんです
瞑想というと目を瞑って無になるというイメージが強いかもしれませんが この方法は手を観察して指を観察して指紋を観察して指がどんな物質でできているか観察して....という方法で徹底的に頭がハッキリシラフの状態で行います
加えて瞑想の目的が何なのか どこまでなのかも大きな問題です 悟り 覚醒でしたら意識がある間 起きている間ずーっと観察しなければいけませんし 具体的な昔の嫌な事件 対人関係の解決なんかでしたら嫌なイメージを故意に思い出してピンポイントで解決できるかもしれません まあ発狂しない程度にゆっくり進めないといけませんが 私が疲れるといったのは前者の場合でダラダラやると全く意味がないので何かの公式戦で戦う前のような緊張感 集中力をずーっとできるだけ維持しないといけないからです とりあえずは呼吸を観察したり 手を観察する方法から初めてみてはいかがですか? 検索すれば丁寧なサイトはたくさんあると思います 自分なりに工夫を加えるのはそれからでも遅くないですよ
マインドフルネスって宗教なんか? 自己啓発板に立てた方がいいんじゃね
現世利益を求めるマインドフルネスには 自己啓発板がお似合いかもな 論文ベースの()
生きている間のことはどうでもいいみたいになると こんな性格が悪いみたいな雰囲気になってしまうのかな🤔
どこをどう読んだら 生きている間のことはどうでもいいなんて解釈ができるんだろう よほど読解力がないんだろうな
あなたにとって現世での利益を求めるのは嘲笑の対象なわけでしょ 死んだあとのために自分は瞑想してるんだと言いたいと
現世利益のための瞑想を批判することが 生きている間をどうでもいいと考えていると捉えるのは いくらなんでも穿ちすぎ ただ攻撃したいだけなんだろう
>>120 あなたは何故マインドフルネス瞑想をしているんですか
現世利益を求めない=生きながらに涅槃に到達することは求めないですよね
>>121 それを知ってどうなるのか
なぜ難癖つけてくる人間にそれを教えなくてはいけないのか
あなたが現世利益を求める瞑想がお望みなら
あなたはそれをやればいいでしょう
>>123 難癖をつけてきたのは118ではないですかね
>>123 とりあえず何のためにマインドフルネス瞑想をしてるのか教えてくださいよ
どういう立場から批判してるのかハッキリしない
現世利益を批判したことを 生きている間のことはどうでもいいと曲解して 難癖つけてきたのは119でしょう
>>126 生きている間のことはどうでもいいんじゃないですか?
生きている間のことはどうでもいいわけないでしょう 現世利益を求めない=生きている間のことはどうでもいい という解釈がなぜできるのかわからない ただ難癖をつけてるだけでしょう イチャモンつけてるだけでしょう
>>128 どうでもよくはないけど生きている間には利益は求めないんですよね
あと116の物言いを見る限り慈悲を大切にしている立場ではない
では、生きている間には何をもってどうでもいいわけではないと言っているわけですか
あなたは現世利益を求める欲にまみれた瞑想をすればいいじゃない? 私はそんな瞑想はしたくないからしない 難癖つけて攻撃してくる人間と議論する気もない
>>130 欲望のために瞑想しても何もならんとは言いますね
で、あなたは何を求めてマインドフルネス瞑想をしているんですか
話に絡みながら議論したくないもないでしょう
答えてください
何かを求めてするのも瞑想 何かを捨てるのも瞑想 人が何のために瞑想してるのかなんて気にする時間があるくらい暇なのか ただ相手をやりこめたいだけなのか
>>132 どういう立場から批判してるのかが知りたいんですよ
やりこめたいとかそういう思いにとらわれている自分こそが
好戦的な思いに頭がいっぱいになっているんだという気づきは無理ですかね
人が何のために瞑想してるのか聞いてまた難癖つけたいと またイチャモンつけたいと
難癖とかイチャモンとかあなたの世界のストーリーですよね
現世利益を求めない瞑想=生きている間のことはどうでもいい という妄想 難癖以外の何者でもない
>>136 だから、そこは違うならどういうことなのかと聞いてるんじゃないですか
人が勝手に妄想したことまではわからない ただイチャモンつけたいから妄想したことまでは
イチャモンつけたがってるキャラクターはあなたの頭の中にいるんですよね
イチャモンつけてくるややこしい性格のキャラクターはここにいますよ 絵文字キャラ付きで
>>117 これは誰が書き込んだんですか?
誰がこの絵文字をチョイスしたんですか?
何かあると攻撃されたとかイチャモンつけられたとか被害妄想的になって そういった苦しみから逃れるために瞑想を始めた、なんてのは勿論俺がいま作り上げた物語でしかないわけです
>>143 俺ですよ
だから生きている間がどうでもいいわけではないという言葉をもらって
それならそれはどういうことかと尋ねているわけです
また妄想ですか... 妄想癖がすごいようで お大事に
>>146 妄想の外側から語っていることに気づくことは出来ませんか?
私もどっちかって言うとご利益は考えてない方向性だけど ご利益追求するのも別に悪くないと思うけどね 現世利益を求めるのも涅槃を目指すのも欲として全然変わらんでしょ
現世利益とは煩悩を満たすことではなく、苦を滅して平穏に現世を生きていくこと マインドフルネスが目指してるのはこれだと思っます
涅槃を目指すのは本来の状態に戻ろうととすることだから何かを望むような欲とはまたちょっと違うと思うけどな 何かを望むように涅槃を目指す凡夫は多いから欲に見えるかもしれんけど
最初の動機としては、欲に近い形で始めるのは仕方ないのでは
まず世界はどこにあるのかを突き止めなければならないよ 世界はどこにあるのだろう 分かりきったことだ 頭の中にあるのだよ お前のぼんくら頭の中に世界はあるのだよ そこで独り相撲やってるのがお前ら、傑作、笑わせるw いや、客観的物理世界があるとお前らはのたまうがそんなものを認識できるほど優れた頭を持っていないんだよ 物事の一面を観てとりあえず生きているだけなんで自分が無知でバカでゴミのような存在であることを自覚するべきだ
つまりその お前ら という存在も あなたの頭の中にあるだけですよね
>>155 そのとおり
お前も俺の頭の中のゴミでしか無いんで速攻でゴミ箱行き
世界に実在しているのはあなた一人だけということですか
>>157 俺自身も実在してない
幻想空間を漂うだけ
それが悲しいのか?虚しいのか?
そうじゃないだろ
面白いんだよ
結構奇跡的なことなんだよ
面白いんだよ
バカには分からんだろうがね
悲しいとも虚しいとも言ってないんですが 独り相撲をとっていませんか?
俺自身のことを言ってるんだから 人が悲しいとか虚しいと言ってないのは当たり前のことだな 勝手に自分のことに置き換えてるだけで 俺自身のことを言ってるんだから独り相撲でも問題ないな
あなたは実在していないそうですが、では何が幻想空間を漂っているんですか? あと、頭の中にしか存在しないという他者に対してバカだと発言することに何か意味はあるのでしょうか
バカにはわからないと言ってることから、如実知見できる世界ではなく、頭で作り出した世界に強引に自分を当て嵌めようとしてるようにみえるが如何
まあホントいうと、このスレでのこうした議論も、職場のパワーゲームや サークルの主導権争いとまったく質的には同じなんだよな. 題材が悟りになってるだけで。 実際の悟りにとって、絶対きわめて有害なことやってるんだけど、そこは絶対認めないんだろうけど。 これは法論だみたいなエクスキューズ使って、自分の心にきわめて有害なことをやってる
G由来のマインドフルネスは悟りを目指してないのでは? いかに自分が成果をあげて 得をすることを志向しているんじゃないの? 我が我がの貪りの世界 貪欲マインドフルネス
心の中にエミュレータを飼うことになるからな。 議論の相手の反応を予想し、気持ちや行動原理といった内面を推測し、どう発言すればどう思うか、心の中でエミュレーションを繰り返して発言を決めることになる。 そのうち、エミュレータ用の仮想人格を本物と思い込んで、「お前らは…だろう」みたいに言うようになって… 事実のみを議論のもとにすること、議論の俎上に載せられるか載せられないかを峻別すること、それさえ出来てれば問題無いんですけどね。
>議論の相手の反応を予想し、気持ちや行動原理といった内面を推測し、どう発言すればどう思うか、心の中でエミュレーションを繰り返して発言を決めることになる。 つまりは議論の相手に「勝ちたい」ということかな? 議論の相手に勝ちたいから心の中でエミュレーションを繰り返して悪業を重ねる
実際には知らないのに思い込みだけで批判するタイプか
己の勝手な思い込みでこうだと決めつけて批判するタイプ
ありのままにみるのが仏の道だとしたら その逆が自分の想像に現実を寄せたがるということかな
マインドフルネスはテーラワーダ仏教などが由来と言っているが、 仏教本来のやり方と全然違っているよ。 仏教本来のやり方では、自発的なアクションは取らない。 「気づく」といっても、能動的に気づくことはしない。 ところがマインドフルネスでは能動的に気づくことをしている。 これはおかしい。 マインドフルネスは、瞑想の正念ではなく、 戒律にある感覚器官を護る正覚でしょう。 はっきりといえばマインドフルネスは顕在意識を使った自覚の連続。 仏教のサティ(正念)ではありませんね。
山下良道さんがそういうことを言ってニー仏さんから突っ込まれてなかったか
はじめはそれで良いのだけど、どこかでひっくり返るというかジャンプする ところがありますよ
>>170 「仏教本来のやり方」とは誰がどこで説いたやり方?
>戒律にある感覚器官を護る正覚でしょう。
八正道のことかな?
>>170 そうです あなたのいう通りですよ 徹底的にハッキリ スポーツのように今の自分を自覚的に見ていく方法です 仏教じゃないから別に違っても良いのでは?
どこまでやるのかだけが問題で 最後までやれば悟りに至ります そこまでやらなくても苦しい思考 思い込みの軽減 除去 冷静さの獲得程度は簡単に(数年で)獲得できるでしょう
というか自覚的 能動的にやらない修行ってどんな方法?
思いつくのは禅で全てを手放した状態 ヴィパサナやマインドフルネスで自動的に観察が起こって観ているだけの状態ぐらいしか思いつかない 後学のために良かったら教えて下さい
ゲームに周りが見えなくなるくらい集中するのもマインドフルネス?
六根の活動に任せきるって事でしょうね 自分から意図的には何もしないのですよ 相手にせず邪魔にせず放っておく
>>176 ということは私が今 お茶を飲んでテレビを見てぼーっとしている(30年以上同じ)この状態が 既に理想的な修行状態ということなんですか?
放っておくというのは既に 放っておくという意思が 意図が働いているのでは? 本当に放っておくというのは時に相手にしたりしなかったりという 自然な状態を言うのでは?
>>176 六根開放は禅のメソッドであって、マインドフルネスのメソッドとは違うよ
>>174 テーラワーダも禅も要領は同じです。
マインドフルネスは、テーラワーダや禅における技法の上辺だけを真似て、
意志を使って行じてしまうところに問題があります。
けれどもこの方法であっても、異常な状態になっている人には効果があります。
意志を使うことで行動に自覚的になり、悩みの連鎖に入り込むことが減り、
この連続の末に悩み繰り返す習慣を減らして健常者に立ち戻ることができます。
これが世間で言われているところのマインドフルネス効果でしょう。
しかしこのことは普通の人なら誰でも行っています。
嫌なことに会ったり聞いたりすれば、無意識のうちに心を別のものに向けて切り替えます。
切り替える対象が、今行っている仕事や作業そのもの、同僚との会話、楽しい思い出等々。
能動的に自覚したり心を切り替えることで嫌な感情の連続性から回避しています。
今流行っているマインドフルネスは誰もが当たり前に行っていることです。
というか、意識をますます使ってギクシャクしてしまうことすら促しています。
マインドフルネスに頑張れば頑張るほど、意識を使えば使うほどギクシャクもしてきます。
これは仏教本来の瞑想でも無ければ、テーラワーダや禅に由来も無い、
ほとんどの人が無意識に行っている心の切り替えを、
あえて意識化し自覚化して、意識の過剰を高めてしまう技法です。
マインドフルネスに効果を感じている人は、
心の悩みが重たく、うつ病を発症している人などに効果があっても、
普通の人には意味不明な行為として感じられます。
なぜなら、常に当たり前に行っていることだからです。
仏教本来の瞑想もあえて瞑想といわなくてもよく、当たり前の延長にあることで、
言葉で言えば「なにもしない」となります。
しかし、これを言語や観念で理解すると失敗します。
>>178 禅とマインドフルネスはまったく違うということですね
認識を滅するには六根に手を付けない訓練が最良というのが禅なんですよ
1110「どのようによく気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか?それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」 1111「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が死滅するのである。」 (スッタニパータより)
マインドフルネスって分かりやすく説明したらダメって空気なんですか?
>>180 と言うことはテレビを見てるような見てないような 意識せずたまーに飲み物を手に取ったりしているその状態が既に最良の方法ということで良いんですね?
ということは仏教には修行(本来修行は必要ない 必要無かったと気づかせるための修行も含めて)は存在しないと
このシンプルな問いにどう答えるか 禅の基本が分かってるかどうかが問われてますよ
>>181 そうなんですよね 私も最初はヴィパサナなど自覚的になる方法は自己を強く意識して強化するために遠回りじゃないか?と思ってサマタやただ座っている という方法でやっていました
当時は花を見れば花だけになる経験をしたりしましたが
それ以上修行が進まなくなり ヴィパサに移行して3年ほどで悟りを得ました(自己は存在せず現象に過ぎないというレベルの悟り)
ヴィパサナを実践中に誤解していたことがたくさんありましたよ やればやるほど自己がなくなっていく 得たと思った理解もどんどん過ぎ去って忘れていく 禅はダイレクトなのはわかるんですが 簡単過ぎて難しい
どういう技法が合うかはその人によるだろうね 俺は禅の公案解けたし神秘的な体験もいろいろしたけど自分から禅定はうまく入れないしヴィパッサナーも苦手だった 結局アドヴァイタで私が在るということがどういうことかと自他は気づきそのものであることがわかってから 禅のただ座る座禅もヴィパッサナーもわかるようになった どのような技法もたしかに根っこは同じだけど入り方や心身の用い方がそれなりに違うから当然合う合わないがある 禅やヴィパッサナーをどのようにするかは分かった人からはこれこれこうだと言えるけどいくら言ってもわかってない人はわからないし、 分かった時に初めてできるからあまり言ってもしょうがないという部分はある わからないうちは合いそうな本をいくつか読んで調べて自分で工夫したり試したりしながらいろいろやるしかないだろうね
マインドフルネス瞑想とヴィパッサナーてやってることほぼ一緒じゃないの アメリカでは出家しろとか結婚するなとか輪廻を信じろとかが文化的に合わないから そういう宗教性を省いたのがマインドフルネスだと説明されてるの見たことある
そうだ、マインドフルネスとひとことで言っても多少の毛色の違いみたいのは色々あるよね MBSRのカバットジン ベトナム禅のティクナットハン タイ森林寺院のプラユキナラテボー 仏教3.0とか言ってる山下良道 etc… 仏教本来の…とか言えるもんなんだろか
マインドフルネスの由来がヴィパッサナーだから同じとも言えるし、名称が違うから少し語られる範囲が違うとも言える 寿司とアメリカに輸出されたsusiが同じかどうかみたいなもんでしょ どっちも同じなんだけどアボカド巻きは寿司かどうかで議論が出たりもする
あと、意識の問題についてだけど、道元の ただわが身をも心をも放ち忘れて仏の家に投げ入れて と、マインドフルネスでいう「自分で評価をくださない」は同じことを言っているのでは
>>184 テレビをみてるときにそんな事意識する必要はないです
そのような事を意識しているということは一瞬でも思い起こしてるんです
任せてることにはならない
修行は必要です
坐禅すればわかります
自転車乗れるようになるのに筋トレ(修行)は必要ないけど なんの運動もしてこなかった人間はそうそう自転車乗れないから修行はしたほうがいい まあ自分に疑問を持ったり考えたりするのも修行のひとつだし修行してないひとなんていないんだけどね
陸上してた人間は陸上してたおかげ、水泳してた人間は水泳してたおかげと自分の経験からそれによって自転車乗れたと言うけど それは自転車に乗れた直接的な原因ではないんだよね でも自転車乗れるようになるには水泳も陸上もやってみてたほうが近道
陸上してなくても水泳してなくても 幼稚園児でも自転車に乗れる
ほとけに任せるというのは他力のことだよね で、それはどういうことかというと、自分の欲望や感情にコントロールされることではない つまり無意識のうちに茶を飲んでいるというようなこととは違う
それと、例えが間違っているのでは 自転車に乗れるようになるためには、自転車に乗る練習を意識的に行う
いや、自転車乗れる練習したって実際に乗れることとは直接的には関係ないって言いたかったんだよね 機が熟していれば教えを聞いただけやちょっとしたきっかけでも心身は脱落するし、 どんな関係しそうな練習したところで直接は関係ないと 意識的であろうとすることは努力だし、努力したからどうにかなるようなもんじゃないし もちろん間接的には関係するし努力も意識的であることもしたほうがいいと思うよ
マインドフルネスについて誤解があるような気がするので書いておくと、マインドフルネスの瞑想も「何もしない」ことを体得するためにあるし マインドフルネス瞑想による「全体性の獲得」は無我と縁起の世界を如実知見することとイコールでしょう
いいえ違います。マインドフルネスをいくら行っても悟りになりません。 マインドフルネスは別ものです。 これがわからないから仏教の指導者もマインドフルネスと同じことを教えるのです。
どういったものをマインドフルネスと想定して話していますか あと、悟りとはどういう状態を指していますか
まあこの辺りで悟りの話はやめましょう スレ違いでしょうからね きっと 悟りもテーマに入れるならタイトルはヴィパサナの方が適切でしょうし
マインドフルネスと違うものの話をするなら、単純にスレチなんじゃないのかね…
無意識に行ってる心の切り替え=逃避や無理してしまうことに気づきをもっと距離をとるのがマインドフルネスであり、禅の藤田一照氏が言ってる「感じて、ゆるす」だと思う
マインドフルネスに悟りは密接に関係してるしスレチだとは全く思わないけど マインドフルネスを知って実践してる人で悟ろうと思ってやってる人は少ないだろうからスレチ扱いされるのはわかる
認識を滅するとか六根を開放するってのはどういうこと? 無感覚になることなの?
そのへんの専門的なことは人によって説明の仕方や立場によって定義も変ってくるし
ウ・ジョーティカ師の自由への旅が無料でPDF配布されてて、そこにいろいろ詳しく書かれているからとりあえずそれ読んでみたら?
http://myanmarbuddhism.info/2013/01/10/22/ ウ・ジョーティカ師(Sayadaw U Jotika) “A Map of the Journey” 本文の全訳です。
テーラワーダ仏教の「ウィパッサナー瞑想」について、初歩から涅槃に至るまでの階梯を、
豊富な具体例・経典への言及を交えつつ詳細に解説したもの。
瞑想のみならず、仏教一般にご関心のある方に、ぜひお読みいただきたい著作です。
下のリンクより、PDFファイルをダウンロード(右クリックからリンク先を保存)してご利用ください。
>>211 認識を滅するとは無感覚になることではありません
そもそも認識は錯覚なんです
実際の生活は認識する間もなく前に進んで終わってるんです
正しい坐禅を続けていると日常生活で度々その事に気付くようになってきます
坐禅中は相手にせず邪魔にせず一切掴まずに転がしておく事です それが出来ればいずれ認識が止みます 認識が止めば自分を遮るものはなくなります マインドフルネスは逆に認識を強化してるるんです
つまり認識がやんだ状態というのは 自動操縦状態というか自身の傾向性の奴隷というか動物化と呼ばれるアレですか
>>214 それだったらずっと寝てればいつか認識が止むし寝てればいいことになってしまうね
あなたの言いたい心身が脱落した状態はわかるけどここで言うことではないんじゃないかな
それからマインドフルネスは単に自分に生じてる認識を意識することじゃないし別に強化もされないよ
あなたもマインドフルネスというものに特別な認識を持たず
>>212 を読んでみたら?
>>214 > マインドフルネスは逆に認識を強化してるるんです
私も座禅やってるので云わんとすることは分かりますけど…
マインドフルネスで悟りを目指してる人なんて多分少数派で普通は日常での現実的な効果を求めてる
そういう人にとっては認識を強化?だから何なの?ポカーンでしょう
一方マインドフルネス入口でも悟りとか目指す人はヴィパッサナーとか始めちゃってるだろうし
それで目指すのも悟りじゃなくて阿羅漢でしょ
もう目的も違えば方法も違う
それがここで禅を語ることのスレチっぽいとこじゃないすかね
実際の生活は認識する間もなく前に進んで終わってるんです この物言いには興味がある この発言はどの時点からの観測なんだろう 禅では常に過去だけが存在する?
今ここしか存在しない即今を言ってるんでしょう マンドフルネスで言われていることと変わらないですよ
常に今だけがあるというマインドフルネスの世界の中に 時間が前に進むとか終わるなんて捉え方がありますか?
言い方、ニュアンスでしょう >認識する間もなく前に進んで(次々と新しい今が現われて)終わってる(さっきの今はもうここにはない)んです ってことでは
時間というのは人間が頭で決めたお約束の世界ですよね 頭を取り外した現ナマの生命体験としての今というのは 過去や未来が存在しなくて、まさしく今だけがある マインドフルネスのいう今というのは、そういう今だという認識なんですが 禅はそのへん頭で考えた世界に引きずられているのかなあと 現ナマの生命体験という言葉は禅の人の言葉だったりはするんだけど
自分はその発言した者ではないので口をはさむのもなんですが禅にも時間はなくただ今しかないですよ 進むと書かれているのは時間が進むという意味ではなく認識主体(自分)が進むということでしょう 実際は過去も未来もないので進んでもないですが次々と今が生じ消えていくので主体にとっては常に新たな今へ進んでいるように表現できるという意味で それとは関係ないですが禅でもマインドフルネス(ヴィパッサナー)でも考えや自身の体験に引きずられているひとは多いと思います
勝義諦と世俗諦をごっちゃにして語っても他人を惑わすだけなのでは
瞑想中にあらわれた思いに対して握りしめたりせずに、ただ観察していればそれは消えていくというのはマインドフルネスも同じ 禅だと認識すべてが消えるとするみたいだけど 目に映るもの耳に聞こえるもの等に対して、意味つけしているのは人間だというのがマインドフルネスだと思うんだけど、それを禅ではすべてが錯覚だとするのかな 錯覚ではなく目にうつるもの耳に聞こえるものは生成変化している=諸行無常というのがマインドフルネスだと思う
>>228 勝義諦と世俗諦という分別は説一切有部などの部派仏教とか大乗の龍樹とかがしたもので釈尊は世俗の真理と出家者の真理などという分別はしてないと思うよ
世俗の生き方と出家の生き方の違いは口にしてたけど
あと部派仏教だと苦諦集諦が世俗諦で滅諦が勝義諦だと思った
>>230 真理視点の言い方と現実視点の言い方という意味です
それがごちゃまぜに会話に含まれていると見えたので
仏陀も対機説法していましたし、見比べれば矛盾するようなことを相手によって言い分けていたと思います
しかし矛盾するようなことをわざわざ言っても相手を惑わすだけでよくないのではと言いたかったのです
>>227 誰もが認識の届かないところで生きてるんです
認識が止んだら温度がわからなくなるなんてことないです
>>232 その温度が体感できているのはいつなんでしょうか
>>180 を見ると今に在ることが気分転換の一種みたいな語られ方をしているけど、楽しい思い出に浸りましょうとか同僚との会話に解決の糸口を見つけましょうではなく、マインドフルネスが殊更に今に在ることを大切にするのは
真理に触れるものがあるからと違うんすかね
>>233 いま体感してるなら今と言えば良いのでは
でも言い留めた瞬間もう的はずれです
>>235 言わなくていいから、あなたが温度を感じてるのはいつなのか
うーん まあ今っていうのは瞑想を続けていけばわかると思う 多分紹介されたPDFにも書いてあるとは思うけど 観察を続けていけば1秒間に物凄く多くのことが自分に起こっていることがわかるようになるんだよ 私でいえば観ているだけの状態になったとき 音楽が細切れに聞こえてただの音になる 単純な一つの動作は何十もの動作の合成で出来ていることがわかったりする 動作の起こりも自分が関与しておらず 機械のように勝手に動いていることがわかる もっと進むと認識の瞬間に自分と世界が現れることがわかる ただ能力開発なんかが目的だとここまでやるのは逆効果かも 色々カラクリがわかって人生に対する闘争心が無くなってしまうかもしれない
例えば慢性的な痛みがある場合にマインドフルネスではどうするのか? もちろん「別なことに気を逸らしたり紛らわしたり」はしません その反対のことをします 慢性的な痛みがある人は何とかしてそれを取り除こうと思ったり 「どうして自分だけこんな目に」と憤慨したり悲しんだり 「この痛みは一生続くのだろうか?」と不安や失望を感じたりします 痛みそのものよりもネガティブな感情や考えがダメージをさらに大きくするのです しかし身体に感じる本来の痛みと苦しみ悩むこととは別物と捉えるべきです マインドフルネスでは 「痛みの感覚を拒否しないで観察する」という方法を取ります 無理の無い範囲でエクササイズを何日か繰り返していると 痛み本来の大きさを把握できたり痛みには大小の変化があることや 実際は痛いのに痛さを忘れる時があること等が分かってきます そういった観察による体験を何度も繰り返すことによって 痛みは恒常的なものではなく常に変化するもので また痛みとネガティブな感情や考えは別物だということや さらには自分と感情や考えは別物だということ等を 体験として理解する(覚る)ことで痛みを低減させていく方法なのです この例を見るだけでも明白ですが マインドフルネスのベースになっているのは仏教の「念処経」であり ここには「無常・苦・無我」への覚りがあり また「箭経」(二の矢を受けず)の教えも含まれてます 臨床心理学的に言えば痛みを受け入れて(受容) 痛みに正面から向き合って逃げようとせず(曝露法) 痛みと自分との距離を置くことで(脱中心化) 症状を和らげていることになります
マインドフルネスの定義(Kabat-Zinn)は
「今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、能動的に注意を向けること」です
>>238 の痛みに対する方法の例ではこの定義の「経験」を「痛み」に変えて
そのままを実施しているだけなのが分かります
不安障害の場合なら定義の「経験」を「不安な症状」にすれば良いわけです
ちなみにマインドフルな状態というのはこの絵を見れば非常に理解し易いです
右の女の子の状態が理想的なマインドフルな状態です
でも片っ端から雑念を消そうとしたりしてはだめです
そんなことをしたらますます雑念が増えてしまいます
能動的に今の経験に注意を向けるだけで良いのです
徐々にマインドフルな状態になっていきます
これをマインドフルネスと言います(上記の定義そのままです)
ただし今の経験に評価判断を加えるとそれをきっかけにして
それが好ましくない場合はそれを取り除こうとしたり
好ましい場合はそれをもっと欲しくなったりして
新たなドラマを作り出して雑念が増えてしまうので注意が必要です
よくマインドフルネスはただほっておくだけだと誤解されますが
ほっておけば左の大人のようになるから
能動的に今の経験に注意を向けなければならないのです
だから、その手のマインドフルネスが効果があるのは、 心に問題を抱えている人に多くなるのですね。 病的な人には、ギプスをはめるやり方が効果があって、 毒をもって毒を制すやり方が役に立つということです。 いわしの頭も信心で、思い込みやプラシーボ効果も手伝っています。 能動的に注意を向けるとはそういうことです。 操作するとはそういうことです。 しかしこれは本来のやり方ではありません。 この手のマインドフルネスも、困っている人には役に立ちます。 仏教の技法とは違うことだけは理解する必要があるでしょう。
人の話を聞かないで自分の思い込みだけを語りたがる人
仏教のマインドフルネスだろうと世間に広まってるマインドフルネスだろうと最初初心者には同じようなことやらせると思うけど
>>240 そうです!貴方の言う通りですよ!特に最初は(初めて1年ぐらい)これでやり方は合っているのか 自分は進んでいるのかなど わからないことばかりなので 分かりやすい印が必要なんです
あ 自分は本当に何々なんだ!なんていう いわゆる気づきです 親に縛られていたとか 傷ついていたとかね そこで気づいただけで重荷が降りていく 順風満帆ぽい私でさえも色々自分で自分の気持ちに蓋をしていたことに気づきましたからね
そこを超えるとただ観る意識になっていきます 要はそこまでいくための餌です 頑張るための餌みたいなもんです
普通の人間ならどんなに恵まれた環境でも本人は何かしらの問題を抱えていると思います 100億円持っていても1000億円持っている人に嫉妬するかもしれません
むしろ病的でない人には修行は必要ありません 既に問題がないのですから
頭に浮かんできたイメージを握らずに転がしておくということが、つまり能動的に観察するということじゃないかい 能動的と言っても何にもしないんだから
毒をもってとか、最初から悪意に縛られて発言しているように見えます
例えば暑い時に暑さを感じて、反射的に感情的になって実際の暑さそのものに関係なく暑くてやってられん!と騒ぎ立てるのは、何も心に問題を抱えている人でなくても普通の人でもやりがちだよね マインドフルネスがやっているのは、暑さを感じた時に、即感情に流されるのではなく、暑さを微細に感じること(暑さに対して対応しないということではない) このへん禅も同じだと思うんだけど違うんだろうか
それシンプルな例でいいね 暑さのみならず、怒りや不快感に対しても、観ることを修練したら反応的にではない対処が身につく ってことかな
>>246 あなたのおっしゃる通りです 暑さの他に痛みなんかも代表的ですが 実際の感覚と総合的に感じる感覚の印象はかなり違います 本当におっしゃる通り
それからちょっとだけ付け加えると 暑さを感じている「自分を」微細に観る 観ている自分を観る というのもコツの一つです
>>239 俺、左の吹き出しの中が5chの書き込みでいっぱいな感じかな
常日頃から過去のやらかしの後悔やら怒りやら不安がフラッシュバックしてきて目の前のことに集中できず、 それをごまかそうといつも一人でブツブツ独り言言って気持ち悪がられてます。 起きてる時はずっとこの状態です。 毒親とはもう縁を切って、友達もいないし彼女もいない独り者なんですが、 マインドフルネスで一人でも気分を落ち着かせられますかね? とにかく考えを止めたい。怒りと不安で毎日グッタリしてます。
ポール・マッカートニー、ビートルズ解散後の飲酒癖について語る
https://nme-jp.com/news/60033/ >ポール・マッカートニーは9月7日にニュー・アルバム『エジプト・ステーション』をリリースする予定となっており、
>収録曲“Happy With You”で過去の自身の飲酒癖について歌っている。
>「I used to drink too much/Forget to come home(僕は飲みすぎていて、家に帰ることも忘れていた)」
>『モジョ』誌のインタヴューでポール・マッカートニーはこの曲について「ありのままの話だよ」と語っている。
>「よく飲んでは酔っ払ってたんだ」
>ドラッグもやっていたこともあるとして、「特にザ・ビートルズが解散した頃のことだった」と語っている。
>「落ち込んでいて、僕らが稼いだ金を奪おうとする身の毛もよだつ体験の最中にあったんだ」
>「それは簡単に乗り越えられるものではなく、人生でもすごく大変な時期へと導くことになったけどね。>ドラッグをやってはすごく酒を飲んで、これまでにないほどだった。でも、乗り越えたんだよ」
このポールマッカートニーが酒とドラッグで落ち込んでいたのを誤魔化していたビートルズが解散したころよりも前に
ポールはインドにいってマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーから超越瞑想を直伝されています。
ポールは今でもマハリシから贈られた超越瞑想のマントラを宝物にしています。
それでもビートルズ解散時の落ち込みでは酒や薬に頼らざるを得ませんでした。
個人的には、超越瞑想以外の瞑想でもこの時の落ち込みは食い止められなかったのではないかと思います。
>>250 止められます 止められますが 本当は止めたいのではなく克服したいのでは? 方法論として頻繁に現れる または強く現れる考え 思いを目をそらさずにうろたえることなく 観察し続ける
かなり勇気が必要です(応用編)
近道は瞑想ではなく実際に行動を起こすことです いうべきことをいう するべきことをする ただの一例ですが イジメられて傷ついていれば 相手を実際に殴りにいく(極論) 話をしにいくなどです
親に文句があれば実際に伝える その他諸々です 瞑想は強烈に生きた人 思いを残す事なく色々体験した人ほどスムーズに進みます
将来にわたって完全に解決したいなら瞑想が根本解決の手段として有用ですが 即効性はありません 瞑想向きの人でも恐らく1年弱はかかります
>>252 なるほど。瞑想よりも前に実際に行動に移す事が大事なんですね。
たしかに全体的に行動力は低い方ですし、何かを言われてとっさに言い返せず後になって怒りが湧いてくる事がしょっちゅうです。
基本的に直感で動けません。
実際に悩んだ末勇気出して言い返した事もありますが、それが原因で険悪な関係になってしまい、会社を辞めざるを得なくなってしまったという事があり、トラウマになっています。
一つ一つの物事にきっちりケリをつける為に精神安定を求めていましたが、前後関係が逆なのかもしれないですね。
>>253 なるほど 色々と大変なんですね ですが相手に言い返した経験がおありなのですから立派な勇気をお持ちだと思います
実際に行動するのは思いを消去するのが目的なんです 行動の結果 他人から見て失敗でも自分の心 思いが晴れていれば良いんです
そんなに上手くいかないのも現実ですが100の思いが70にでも減らすことができるかもしれません
単純に一つの辛いエピソードを克服できても自身に恐怖や怒りが普通以上に残りそうであれば 瞑想は強力な手段となりえます
瞑想は貴方が何に怒り恐れ欲して入るのかをハッキリと認識させます そして不思議ですが認識の瞬間にほぼ完全に問題は解決します 勇気をお持ちですから是非瞑想も同時にやってみて下さい
みなさんは座禅とヴィパッサナー、端的にどうちがうとおもわれますか? ヴィパッサナーのよさはシステマティックで明快、伝えやすいと思います。 座禅は、それに対して芸術的で存在のありようそのまま、伝えにくいが、如来の美しい世界を そのまま体現するよさがある。
藤田一照さんの本を読んでると、あの人は禅をわかりやすく伝えようとしてるなと感じる
>>255 ヴィパサナや観察系の瞑想は手応えがあってなおかつ段階的に自分のことがわかっていくので励みがあります
そうやって色々片付いた最終あたりで座禅という感じです 観るべきものも全て無くなって何者にも注目せずただ座る
座禅は純粋なので論理的に〜のために座禅をする ということになかなかならないのでとっつきにくいと思いますね
変に集中力や不動心がつきます!と宣伝されても 座禅を商売にするな!(お金を取らないにしても)と思ってしまう
今日午前中に某有名寺の座禅会に行ったあとにテーラワーダ系の瞑想会に行った (単なる趣味) 座禅はなんか空間そのものが美しくて、座っててもなにか感銘した感じがしたけど、なにかメソッドに励んで つかんだって実感はない テーラワーダ系の瞑想会はエクササイズやったなって手ごたえもあったように思うけど、 ヨガ教室行ったくらいの感銘だ 禅好きだわ
禅は場所とっても大事な気がするね 場所が大事なんて 書かれてないかも知れないが 実際は禅寺の雰囲気や僧堂の静けさ等 含めたものだと思うな
メンタル強くするなら体鍛えたほうがいい マインドフルネスはトラウマとか不安障害とかのかいけつにはなる
動じなくなるって意味ではメンタル強くなるだろうけど メンタル強くなるっていうよりは苦や悩みから解放されるってかんじかな
>>264 不安障害はあります。
マインドフルネスをする事によって扁桃体が過敏に反応しなくなるんですかね?
>>266 扁桃体なのかどうか知らないけど、不安で不安で頭おかしくなってしまうのからは
脱することが出来たよ
>>267 それはいいですね
ありがとうございます
ええ、たいへん助かりましたよ 知識的にはグナラタナ氏の本をザックリ読んだだけ 翻訳がよくて、読むだけでもなんとなく瞑想してるような気持ちになったけど 理解は十分でなくても完璧主義は捨てて とにかく観察すれば良いんだよね?って感じで、アバウトな感じでやってたよw だから、スレに来てる方々からはお叱りを受けるかもしれないですがw
アバウトこそがマインドフルネス 個々人でトラウマティックな出来事が千差万別なのだから、「こうあるべき」を押し付ける人たちはだいたい偽物
トラウマチックな事が出てきた時 目を瞑って、その感覚を観察しますね ボヤーっとしたものでしょ、それって 三角とか四角とか、赤とか青とか、はっきりしてない ただ「あるなあ」ってことがわかる 「こいつが一体何なんだか突き止めてやるんだぁ!」 とか思えば、思考がグルグルと働き出しますからね 「なんか、そこらへんに、あるなぁ…」と気づいて観察しとけば良いんだと思いますよ 仏教の難しいお話は置いておいて、マインドフルネス続けてくと 物事完璧目指したら良いことと、アバウトにすることとが分けられるようになるのではないでしょうか 自分はそんな感じがしますね
私が夢見る完璧は、傍からみたら無価値なこだわりなのだと知ることができたな トラウマを紐解いていこうよ〜
自分を観察する瞑想について私が驚いたことを書いておきますね ただただ観察するだけなのに何の役に立つのか? 始めたばかりの人は観察して自分を知って理解して「苦しまないように改める 努力する」だから役に立つ と思うかもしれない そういう部分も少なからずあるんですが もともと自分の「意思」で改善できるならとっくの昔に良書を読んだり勧善懲悪の物語に触れたりして改善できている筈なんです しかし現実は意思の力 思考の力ではどうすることもできないことが多いんです この瞑想は(続けて深いところまでいったならば)手品のトリックを明らかにします タネがわからない時には驚いたり 興味を惹かれたりしますが タネはこうですと教えられた後には興味を持ったり驚いたりすることが「できなくなる」んです
手品のタネを知った後も驚くぞ!興味を持続するぞ!と頑張ってもそれは自分にどうすることもできず 二度と同じ驚き興味を味わうことできません ここでいう興味や驚きは人生にとっての拘り 執着心のことです 実際には捨ててしまっても何の問題もないのに 捨てると自分が自分でなくなってしまうと思い込んでいるものです 深い瞑想によって拘り 執着心のタネをある日突然 「見せられます」それは自分に雷が落ちたようなものです 能力開発にも確かに役に立ちます アイデアが次々と湧いてきたりというのも事実ですが 自分の苦しみの正体をハッキリと知る喜びに比べるとオマケのようなものです 瞑想である日突然「見せられる」 ここが他の自己改善の方法と全く異なるところであります
マインドフルネスは心の安定、健康に役立つね 病的な状態も改善できる でも悟りや解脱は無理 マインドフルネスで悟ったり解脱することは無理だけれども心の安定や健康には役立つね
ヴィパッサナーとマインドフルネス瞑想の違いって何?
自信がないから完璧主義になるんだよな 自信つけようと思って。 でも完璧にできる人なんて一握りだし、それ以外の人はずっと自信つかないままなんだよな。 実際自尊心あった頃は全然完璧主義ではなかった。
すまん、みんな具体的にはどんなやりかたやってる? いろいろあってわからなくなってきた 呼吸とそれに伴う感覚を観察する、これって、マハーシ式ではヴィパッサナーとして教えているけど、 ゴエンカ式ではアーナパーナなんだよね? アーナパーナは沈殿していたサンカーラを浮かび上がらせるもので、ヴィパッサナーとは 別とのことだけど・・・
仏教の瞑想はサマタ(集中)瞑想とヴィパッサナー(観察)瞑想に分けられる アーナパーナは呼吸の瞑想で、呼吸と一体になるように集中すればサマタ瞑想になるし呼吸をただ観察していくとヴィパッサナー瞑想になる ヴィパッサナー(マインドフルネス)の基本は心と身体に生じる反応を主観を交えずただ観ることを続ける ヴィパッサナーもマインドフルネスも基本は同じ ヴィパッサナーという仏教の観察瞑想を宗教色を出さず欧米向けに英語で訳した瞑想名がマインドフルネス ただヴィパッサナーの方が細かく専門的な面があるし、マインドフルネスは欧米で広まるうちに独自の部分も少し出てるかも
自分はこんな感じ、テキトーですが 1 呼吸を観察する(鼻の穴の息の出入り) 2 なんか出てきたら、それを観察する 3 消えていったら1に戻る 1を呼吸以外の日常動作でやったりしていて 何かがあるなあと気づいたら、目を閉じて呼吸でやる
主観を交えず、かあ、なるほどね そこからが本当のマインドフルネスなのかな 呼吸ならふくらみ、しぼみ、と観察するというわけですね 自分も日常動作については主観的でない観察を心がけてますが、心理的な何かが出てきた時は 仏教的な心の仕組みとして観察すべきということなのかな
>>281 それなのに
>>277 みたいなこと言われるのは何故だろ
人によって「マインドフルネス」の定義が違うからじゃないのかなぁ…
寝っ転がってやるのはダメなんですか? あぐらの様な姿勢を推奨されてると思うのですが、背中というか腰が痛くて…
>>284 ヴィパッサナーを指導している上座部仏教の中でも派閥によってサマタやヴィパッサナーをどのようにするといいか見解が多少違う
欧米に広まったマインドフルネスだとまたもう少し違うんでしょう
経典には仏陀の話を聞いただけで悟った人の話もあるし、マインドフルネスでも人によっては悟ることができうると自分は思うけど、
マインドフルネスじゃ足りない(欧米で広まってるマインドフルネスは表面的)という見解の人もいるんでしょう
マインドフルネス ヴィパサナ ただの言葉なので気にしなくても良いと思います マインドフルネスの定義通りこの瞬間の自分に気づいている状態をどのくらい続けるか どのくらいの細かさで気づいているかだけが違いとなります 10分で終わるのか8時間連続でやるのか テレビを見ながらマイルドにやるのか 座っているのに汗でビッショリになったり体がなくなったように感じるぐらい集中してやるのか 軽くやれば良くも悪くも影響も軽くなり 集中してやれば良くも悪くも影響は大きくなります ヴィパサナは多くの仏教の弟子が経験した段階的な体験を纏めて効率的な方法を纏めたものです 悟り 苦しみからの完全な脱却が目的なので 目的が違う人は深くはできません
浅いところで苦しみが取れても、集中を深めていくと深いところの苦しみが現れる (より根源的な苦しみを消すには深く集中しなければならない) という理解であってます?
>>289 そういう捉え方してる人もいるけど基本的にやることは淡々と観察するだけ
主観を交えない観察を常時行っていくことで浅い苦しみも深い苦しみも徐々になくなっていったり気にならなくなっていく
苦しみをとりたいと思ったら苦しみをとりたいと思ったとか、思考が生じたとだけ観察(認識)してなるべく思考や想像が続かないようにする
内側を見なさい。 苦しんでる人が誰なのかを。 それはあなたの知らない人だ。 我が家に帰りつくまで内側を見なさい。
写経がいいよ 精神統一しないとすぐに文字の乱れとなって現れるので雑念に気付きやすい 雑念は雑念としてただそのまま受け入れてまた文字を書くことに意識を持っていく 実に優れた心の観察法だし精神統一のトレーニングにもなるしついでに文字も上手くなる (字の下手さをコンプレックスにしている人にも良い) 瞑想に比べると気軽ではないのが難点だが Amazonとかに写経セットは売ってはいる
マインドフルネスの基本は主観を挟まずただ観察し自分は観察者に留まること 悩む性格の人は誰かが話してるのが聞こえるだけで自分のことを言われてるのじゃないかと心配する しかしそれは自分の主観、想像で自分が勝手に心配悩んでるだけ 誰かの声が聞こえたら声が聞こえたとだけ観察して終える 淡々と観察する立場に留まって身体や心に生じる感覚や思いに巻き込まれないようにする 日々実践していくと自分が観察者だという立場が確立して、余計な主観や想像は減り、心身に生じることに巻き込まれなくなっていく
>>289 私の認識 体験ではそうです ただ
>>290 の方が言われる意見ももっともだと思うんですが 自分の例で想像すると3年で心身に多少負担が掛かっても一気にやってしまうのか
日常を大事にしながら10年 20年 もしくは30年以上かけていくのかという問題があります
体験からいうと正常な発育 成長をしてきた成人ならば 望むのであれば3年から5年もあれば充分です 多少の生活の犠牲はありますが
どちらにしてもある瞬間にはある程度の深さまで瞑想(状態)が必要です ですが実際は本人が心の底から望んでいないとできないので心配はいりません その人の状況に合った瞑想に留まると思います
>>294 個人的には自分も289でいいし自分もそうやったけどそれはマインドフルネス(ヴィパッサナー)の定番のやり方とは少しズレると思う
というのもヴィパッサナーは観察であって原因の究明ではないから
苦しみが浅いとか深いとかそういうのも主観の一部だし追求しようとする思いや感情が挟まる場合が多いから純粋な観察から離れがち
ただ地橋秀雄さんの本などはそういうやり方も書いてあるしそれができるならそれもいいと思う
でも初心者にとっては観察以上の踏み込み方をするとどうしても主観に捉われるからむずかしいかと
それができるのはすでにかなり冷静に自分の心身を観れる人だけでしょう
そういうむずかしさ(個人の得手不得手)によらず誰にでもシステマティックにできる方法としてただ観察するヴィパッサナーが推奨されてるのだと思うし
そう思って290を書いたわけです
スマナサーラさんは「マインドフルネスは現世的な要請から出てきたから現世的に色々 効果はあるでしょう、でも解脱という観念が抜けているところが気に入らない」とかいってる。 でも、ジャック・コーンフィールドはむしろそこは意図してたんじゃないかな テーラワーダ(マハシ式のところとタイのアーチャンチャーのところ)で、何年も修行したけど、 あまりにも二元論的(おそらく悟りか苦か)で、欧米人にはマッチしないと。 それで、現在を苦ばかりと否定せず、その代わり解脱という観念を抜いて、修行の成果を加点的に評価できるマインドフルネスにしたわけ まあエクササイズ的ともいえるけど、俺もそのほうがあってるなぁ テーラワーダのあまりにも「苦」とそこからの「解脱」を強調した物言いは正直気がめいるし、 それも時代的な方便なんじゃないかって気がする。 禅じゃ目に見えるものや自然を大肯定しているしね
>>295 貴方は優しい方ですね そうなんですよね どうしても 「正しい瞑想のイメージ」やこれまで生きてきた体験から自分で原因を究明して自分で改善しようとしてしまいますものね
>>296 仏教側からすると自明の結論なのですが一般的な普通の人からすれば⁇というところでしょうね 妥協せず確かなものを求めて探求した人 全ての欲望を叶えた人 全ての希望を完全に諦めた人の結論なのでなかなか理解は難しいと思います
時代的には完全な自由 悩みの多い人生から脱却できますよ という宣伝(?)の方が受けは良いでしょうね
殆どの人が全てを達成したり完全に絶望したりする前に寿命が尽きてしまう 寿命が300年あれば....
スマナサーラという人は大乗仏教も一神教も悪くしか言わない人というイメージだけど、禅について何か語ったことはあるんだろうか
禅宗も大乗だしざっくりとは批判してるけどちゃんと悟りを得ようとする宗派としては評価してたし道元なんかも評価してたんじゃなかったっけかな スマ長老
永平寺の貫主宮崎奕保師をテレビで一目見て「この人は本物だ」と尊敬したとか でもスマナサーラさんの発言は原理主義、システム的過ぎて正直話半分くらいかな 白隠禅師や良寛さんのほうが日本人になじむし在り方の深さも慈悲も伝わってくる 禅では世に出るな目立たないようにせよというけど、白隠も良寛も図らずして名が残ったように感じる
>>298 集中瞑想で絶対に悟れないって、散々こき下ろしている。あそこの信者に聞いてみな。禅に対する優越感、ハンパないから。
>>263 >禅は場所とっても大事な気がするね
同感です。
禅は自分を取り巻く自然や環境に順応して、自我を減らしていく作業という気がします。
だから作務や作法が発達したし、庭園芸術も発展した。修行も厳しい
詩句や、茶道なども派生した
そうやって己をむなしくしつつ座るから、あまり方法論が語られず、逆に抜け落ちて言ったんだと思います。
テーラワーダは方法論を大事にしているのが素晴らしい。それでみんな飛びついた。
だけど、だから禅がいいかげんで劣っているとはいえない。
方法論が抜け落ちて行ったということにも、必然性があるはず。
一長一短を考えてみることも大事だと思いますね
内外の環境が大事だというのはテーラワーダの本にも載っていて、「分別論註」の「智恵を増やす七つの要因」に、
「髪や爪が伸びている、汗や垢がついている、衣服が汚れている、部屋が散らかっている、本が開きっぱなしになっている、
布団や枕が汚れている」などは心の混乱している状態なので、掃除が洗濯が大事なんだと。
掃除をすると瞑想が進むとの法話
ダウンロード&関連動画>> VIDEO というわけで、今まで「どんな汚くても瞑想は出来るぜ」って感じで散らかり放題の自分のベッド周りから 片付けようと思います(汗)
禅とマインドフルネスの国際フォーラム「Zen2.0」 為末大さん講演や食べる瞑想も /神奈川
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000014-minkei-l14 2回目となる今年のテーマは「感じる身体(からだ)・実践する心」で、より体感プログラムを増やした。
「食べる瞑想(めいそう)」は単に空腹を満たすための手段ではなく、食べた物が自分の身になりエネルギーになる過程を感じるマインドフルネスの実践。五感を研ぎ澄ませながら、北鎌倉の料亭「鉢の木」の精進料理を食べる。
鎌倉在住で尺八を通し禅の精神と身体性を伝える全(ZEN)さんが講師を務める「吹禅〜呼吸と音は語る〜」のほか、ジャクリーンハーグリーヴスさんによる「マインドフルネスヨガ 身体とつながる瞬間〜真の休息状態を呼び起こすために〜」、
清水ハン栄治さんによる「プチ超人化を可能にする、Wim Hof Method入門」など実践者の指導で禅やマインドフルネスを体験する。
講演は、松木正さんの「ヒーローの旅と死と再生〜『成長』は死に続けること〜」、三宅陽一郎さんの「禅と人工知能」、前野隆司さんの「幸せと利他と平和」、為末大さんの「禅とスポーツ」など。
対談では、世界的なコンサルファーム「A.T.カーニー」日本法人会長で瞑想が日課だという梅澤高明さんと著書に「禅とハードル」がある元陸上選手の為末大さんが「ビジネス界・スポーツ界における禅・瞑想の可能性」をテーマにトークする。
2日目の最後にはパネルディスカッションを用意。
臨済禅僧の細川晋輔さん、浄土真宗僧侶の松本紹圭さん、タイのテーラワーダで出家し英国で活動している比丘アチャン・ニャーナラトーさん、アメリカでマインドフルネスを広めているスタンフォード大学教授のスティーブン・マーフィ・重松さんらが、
宗教・宗派や国境を超え「身体と禅・マインドフルネスの可能性」について語り合う。
開催時間は両日とも9時〜17時。
参加費は、2日通し券=2万2,000円、9月8日券=1万5,000円、9月9日券=1万7,000円。
鎌倉在住・在勤・在学者には「地元割」がある。詳しくはホームページで確認できる。
一日一万五千、二日で二万二千円か・・・一般層向けじゃないな
意義のあることなんだろうけど、偉い人たちで語り合ったらいい
>>306 がんばってください
>>306 頑張って下さいね ここは詳しい人も多いから疑問はなんでも答えてくれると思う
>>306 私も手動瞑想派です。
毎日1時間もできれば、早ければ2週間くらいですごいことが起こりますよ。
何がどうすごいのか、是非自分で体験して確かめてほしいですね。
効果は保証します、頑張って下さい。
手動瞑想なんてのものあるんですねぇ 自律神経訓練法とはまた違うのかな?
手動瞑想は日常でマインドフルになるのに効果的なのかな
指導しているプラユキ・ナラテポーさんもそうしたスタンスみたいだし
自分はゴエンカさんのボディスキャンをやってるんだけど、座っておこなう瞑想に重点を
おいていて、日常はあまり言われないね。半年後、一年後に怒りが気づいたら怒りが減っている
見たいな効果の出かただと言われた
それでも、日常においてマインドフルになる機会は増えたけど、自分はもっと日常の思考や感情に
気づきを入れる必要があると思った。ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの本が参考になったけど、
手動瞑想やってみようかな
あまり効果に固執するのも良くないと思うけど、いい体験談があれば知りたいなぁ
>>310 こんな感じです。日常の自分にマインドフルになるというものでないでしょうか
ダウンロード&関連動画>> VIDEO VIPASSANÂ BHÂVANÂ:ヴィパッサナー冥想
ヴィパッサナー バーヴァナー
Vipassanâ Bhâvanâ :(1) 唯一の道
Vipassanâ bhâvanâ の vi は「明確に、区別して」、passanâ は「観る、観察する」、bhâvanâ は「育成法」、まとめると「(自己を)明確に観察する修行法」です。
釈尊はヴィパッサナー冥想で悟りを開かれ、この修行法を生涯にわたって熱心に弟子達に教えられました。釈尊の存命中には、何千人もの比丘、比丘尼、在家信徒の方々が、老若男女を問わず、次々と悟りを得たといわれています。
釈尊の入滅後も、この冥想法は、悟りに至る道として、二千五百年以上にわたって師から弟子へと大切に伝えられてきました。
http://www.j-theravada.net/pali/key-vipassana.html 果たして釈尊は本当にヴィパッサナー瞑想で悟りを開いたのかはともかくとして、
明確に(区別して)観察するというヴィパッサナーは大乗仏教でよく言われる無分別智に繋がるものなのでしょうか?
明確に(区別して)観察するのと無分別というのは真逆のようにも思えますが…
Twitterでも手動瞑想はすごいと言ってる人がいた。 その人は2年半かかったらしいけど。 実際やってみると手の動きは気付きやすいから、個人的には呼吸を感じる瞑想より集中を保ちやすい。 集中しすぎることなく集中が持続しやすいというか、言葉にすると伝わりにくい感じになってしまうけど。
3Dモデルのデザイナーなんだけど、締め切りが間近に迫ってて 普通3日くらいかかるモデルを1日で急いでモデリングし終えたんだけど その作業中がもの凄い集中状態で、頭の中が真っ白でフロー状態みたいな感じ。8時間が一瞬に感じられた。 これも一種のマインドフルネス?
>>312 自分の分別を観察する訳です。
そして分別が無常、苦、無我であることを発見します。
それ以降は分別から心が離れます。
それが無分別智じゃないでしょうか。
>>314 その時に 自分の手の動き 思考などをずーっと観察していればマインドフルネスです 制作物に集中が向いていたならただのgoodな集中です
>>317 その、思考や感情を観察というのがなかなか難しい。忘れちゃうんですよ一日に「おっと、思考に気づこうか」
ということがもっと習慣にしたいんだけど修養が足りないんですね
自分は今まで身随観を中心にしてきたので、心随観はまったく意識してこなかったんですよね。
>>316 「あ、イライラしているな」と気づくのも瞑想だそうですよ
ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの「「今、ここ」を生きる」という本がとても参考になります
手動瞑想は、日常で思考にマインドフルになる助けになるでしょうか?
>>314 マインドフルネスを「今この瞬間に集中する」と定義している人もいるので、
この定義に従えば、マインドフルネスですね
>>318 今度読んでみようかな
ありがとうございます
>>318 「あ 今嫌な気持ちになった」とか「あ 恐れを今感じている」なんていうことが自分で観察できたことが今まであるなら何も心配することはないと思いますよ
貴方の場合は体の観察は慣れていらっしゃるようですからそれを利用して感情を観察してみましょう 嬉しいとか怖い 怒り不安は何がどうなったら感じるのか
例えば私の場合 寝坊したかも?‼︎ と飛び起きた時には肩から首の辺りが硬直するというか 冷たくなるとかいうか熱くなるというかゾワっとするというか そうなります
多くの場合は感情は体の反応のことなので 心 体を特段分けることなく観察できます 何回も続けているうちに観察している状態が普通になります
>>321 ありがとうございます。非常に参考になります。
おっしゃるとおり感情と身体反応はリンクしているんですよね
日常で常時に心身を観察し、気づきの力を育てていきたいと思います!
以前は今よりもっと切れやすく、今より不寛容な正義派でしたが、多少堪え性がつき、自分の独善が傷つきそうに
なったときも少しはすぐに反応しないでいられるようになりました
だれもが煩悩による自然反応に苦しみ、自衛のために周囲を傷つけたり強がったりする
自分がそうなので、他者へもそういう風に見られることが増えました。
深い瞑想体験はないので智恵もまだ頭での理解でしょうが、継続は力なりでがんばります
>>322 頑張って下さいね 私も最後の1つ2つ残っているものを見つめていますがなかなか難しいです お互い頑張りましょう
>>313 2年半ですか、、すごい忍耐です
私はタイで手動瞑想をご指導頂きましたが、一週間もあればほとんどの人が自我の殻から飛び出し「観る人」への変容体験をなさっていますよ
在家で仕事をしながら気づきを保ち続けるのは難いですし根気もいりますが、やればやった分だけ功徳が得られるように思います
見る人か・・・ 一日どのくらいすればいいのだろうか? なんか工場で単純作業やってる人と同じような気がしてしまうが @集中しすぎない A今ここを意識する B考えが浮かんだら手にもどる これだけでいいのかな
>>324 タイでは一日どれくらいの時間やっているのでしょう
最近はじめたんですが、余計なこと考えるなとか、ちゃんと呼吸に意識を向けないとと思ってしまって少しストレス溜まるんですが、そんなに完璧にやろうとしなくていいんですかね?
>>327 呼吸を観る方法を実践しているんですね 完璧にやって下さい!
まず3秒完璧にやってみて下さい 3秒ができれば10秒やってみて下さい 完璧に3秒 10秒できますでしょうか
雑念 想念を排除する必要はありません 想念 雑念を観察して それが消えてしまったら観るものがないのでまた呼吸を観るぐらいに考えても良いくらいです
呼吸を観つつ全身も意識しながら 自分の存在を意識しながらやるのがコツです
ストレスは何か理想的なイメージがあるのにその通りできないというストレスでしょうか? そのストレスも観察して下さいと言いたいところですが... 一度に全部できませんよね
>>327 1.呼吸に集中
↓
2.余計なことを考える
↓
3.余計なことを考えていると気が付く
↓
4.呼吸に戻る
2は正常なことで、これを無くすのが目的ではありません
重要なのは2→3→4を何度も繰り返すことです
続けるうちに自然と2→3の時間が短くなっていきます
普段私たちは余計な思考に気付かずに巻き込まれています
その際にすぐ気付くことがとても大切なのです
むしろ2が多いほど練習になります
>>326 私は手動瞑想と歩行瞑想を交互にやって5〜6時間でしたね
スケジュールはがっちり決められているわけではないので、少ない人は1、2時間くらいしかやりませんし多い人は10時間以上やる人もいます
もっとも、瞑想中以外でも托鉢や読経、食事やその他の活動も気づきをもって行うため実質起きてる時間の全てが気づきの実践です
>>328 呼吸というかお腹が凹んでいる、膨らんでいる。ってのを意識してます。
でもなかなかそれも感じにくいんですよねぇ
あぐらかいてやってるんですが、意識しにくい姿勢というか…
雑念は仕方ないんですね。
観察するってのはどういう感じなんでしょうか?
今雑念感じちゃったなぁ 呼吸に意識戻そう って感じですかね?
>>329 なるほど
むしろ雑念があった方が練習になるんですね
あまり気負わずやっていこうと思います
>>325 それで大丈夫です
むしろそれ以上いろいろ意識すると、思考が増えて気づきが追いつかなくなります
最初のうちは、これでいいのだろうか、上手くやれてるのだろうか、本当に効果があるのだろうかなどといろいろ疑問が生じてくると思いますが、そういう疑問もとりあえず脇において身体の動きに専念してください
>>331 おっしゃてることは良くわかりますよ 本来の瞑想のあり方をまずお教えしますと 起きている間はテレビを見たり人と会ったりご飯を食べたり昔のことを思い出したり空想したりしますよね
朝起きてから寝るまで(人によって寝ている間も)何かに意識を向けています 本来は1秒も間を空けることなく全てを観察するんです 思考 感情 皮膚感覚 味 匂い 音 視覚
雑念(思考)ももちろんその中に入っています その中から手に焦点を当てたり腹部の動きに焦点を当てて限定しているだけなんです
ですから膨らんだ 凹ん... 今日怒られた時の嫌な感覚が過った 消えた 膨らんだ 凹んだ 膨ら...明日の予定を思い出した 消えた 膨らんだ 凹んだ とやるんです
膨らむ 凹むはお腹に手を当てて実際にそうなっているのを実感するとやりやすいですよ
>>331 それから自己の感覚が充分に発達していない人は 観察する感覚がわからないということが多いようです 私も20歳前後まではそうでした
そのためのコツが全身を意識する 自己の存在を意識するということなんです 例えば自分で体のどこかをパチーンと叩いて下さい ジーン とすると思います それがその瞬間の自分です
足を触ったり顔を触ったりしてみて下さい ちゃんと足や顔があることが分かると思います それが自分です
それから恋愛したり褒められたり怒られたりすると 胸がソワソワしたりお腹が熱くなったり首の後ろがカーッと熱くなったりします それが自分です そういう感覚を観察します
>>334 なるほど…
それを行なってるとどんな効果が現れるんですか?
昨日結構重い自己嫌悪に陥りまして、いま自分は自己嫌悪に陥ってるなと俯瞰してみましたが、結局自己嫌悪は収まりませんでした…
もはやマインドフルネスではなく、精神的な薬が必要なのかもしれませんが…
>>336 マインドフルネスの限界。
きちんとした仏教を勉強すべし。
自己嫌悪と書いているがその自己は本当はいない(無我)ということを正しい智慧をもって観察するのが仏教です。
>>339 そこまで到達するのに、どれくらいかかりますか
>>337 マインドフルネスは八正道で言えば正念、ちょっとだけ正定。
正見、正思惟、正語、正命、正業、正精進が揃わないと意味がない。
>>341 あなたはどれくらいで大悟しましたか
あと、ティク・ナット・ハンは限界を抱えた・きちんとした仏教の人ではないのでしょうか
ティクナットハン師も若い頃はガチガチに修行しただろうね。 師のマインドフルネスと素人のマインドフルネスは次元が違う。
そりゃ素人とティク・ナット・ハンでは違うのは当たり前だし、だから
>>336 さんが一度観察したところで思いを手離せなかったのは当たり前ですよね
瞑想は即効性があるようなものではない
そのあたり全部飛ばしてマインドフルネスの限界だと発言するのは八正道にそった態度なんでしょうか
>>346 何が言いたいのかよく分からんが。まぁ頑張りなよ。
四諦八正道、四念処、三法印、五蘊、六根あたりの概念を頭に叩き込んで、
死ぬ気で瞑想すれば悟れるから。
あとダンマパダ、スッタニパータを限界まで読み込むのもいいね。
もちろん五戒をきちんと守るのを忘れずに。
>>347 仏教は頭で概念を理解するものなんですか
あと、死ぬ気という苦行に向かう気持ちが大事だと
あなたは悟ってるんですか
>>348 案ずるより生むが易し。
ごちゃごちゃ言わんと修行したらいい。
アイテムを集めて苦行すれば変身してスーパーヒーローになれる みたいな完全主義のオタク気質みたいなのは感じた 手動瞑想を続けるだけでも 思いは自己ではないというところには行けるのに
349.悟っていれば、修行はしない。バカには理解できない。
>>336 一言でいうと存在するのが楽になります ただそれだけです それだけなんですが 度を超えて楽になります
>>334 で書いたのはあくまで極端に必死に実践した場合のことなので気にしないで下さい この瞑想はやめてしまったら以前の自分に逆戻りしてしまったということがありません
ただの一度自分を観察しただけで もうドミノの最初のブロックを押していることになります ですから辛いなら 逃げたいなら 本当のことを知りたいなら挑戦する価値があります
呼吸を観察するのは超正統な方法です どんなことが起こるのか どんな効果があるのかはご自身で確かめてみてください
また瞑想以外の方法で人生を改善出来る方法も同時に模索されることをお勧めします
手動瞑想をされている方 上のほうで一日5時間とか書いてあったけど、そこまでしないとむずかしいかな なかなか時間取れなくて がんばって1時間くらいはやってみようと思う 今までは呼吸のほうだけやっていた
難しいこと考えすぎだろ… 変性意識に入って呼吸を観察しつつ出てきた自己嫌悪を観察すれば消えるよ それで呼吸観察に戻る それだけだ 簡単だろ
プロレスラーになるのだって死ぬ気で練習しなきゃなれないのに、 生死輪廻から解脱するのに軽い気持ちでできる訳ないだろwww
353.生死輪廻から解脱する、バカである。その必要がない。バカには理解できない。
解脱したいとか解脱するためにマインドフルネスしてるなんて書いてるひといる? 想像の世界で生きてたら少しもマインドフルネスでも仏教でもないよね
>>352 自己嫌悪に支配されそうな時に、マインドフルネス(呼吸に意識を向ける)すればいいのでしょうか?
あと、例えば仕事で怒られた際に、「怒られて嫌な思いをしているな。恥ずかしいと感じているな」と思ったところで辛さが軽減するとは思えないのですが、マインドフルネスを継続してれば楽に感じてくるんですかね?
>>357 解脱しない限りは輪廻して苦しむ。諸行無常、一切皆苦、諸法無我だから。それが仏教。
今生でマインドフルネスやって、「やったー。幸せになったぞ。」って言ってもたかだか80年。
来世はどうなるか分からない。来来世は?地獄に落ちてるかもよ?
だから禅では「無常迅速。生死事大」と言う。
人間の命はあっという間に過ぎる。生と死の根源を明らめる事こそ大切だ。
>>359 それをこの流れで言ってどうするの?
もっとそれを言うのにふさわしい場所がいくらでもあると思うけど
それともあなたは日常で嫌なことがあるという人がいるたびにそんなこと言ってるわけ?
マインドフルネスや仏教以前にわざわざ他人に苦言を呈す空気が読めない人になってたらしょうがないと思うんだけど
>>360 釈尊が唱えられた、八正道の一部分を取りだしたのがマインドフルネス。
不完全なマインドフルネスには限界がある。
その限界を突破するには本来の八正道に立ち返る必要がある。
まぁ別に俺の問題じゃないからどうでもいいけどw
>>353 1時間で十分です
プラユキ師は毎日2、30分くらいを推奨されてますし、それで効果があったという人も多くいるそうです
私の場合はお寺滞在という環境下だったから5〜6時間できただけで、普段は朝晩30分の計1時間ですよ
手動瞑想や歩行瞑想を毎日続けていればだんだん日常でも雑念にとらわれたり、身体を動かすたびに気づきが自然に入るようになってきますから、
瞑想時間を無理に伸ばさなくても日常がそのまま気づきの意識状態になっていきます
焦らず気楽にやってください
>>358 なかなか納得出来るイメージが湧かないでしょうから私の体験を書きたいと思います
私の場合は本当のことを知りたいという動機で瞑想をしていました 体の一部分に強烈に集中する瞑想でラマナマハリシの方法に似ています 一日8時間ぐらいやっていました 日常生活をしながら
特段 苦手意識やトラウマなど無かったんですが 瞑想をしていくうちに突如として気づくんです ああ 同級生のあいつに嫉妬していたんだなとか(たくさんあったんですが殆ど忘れてしまいました)
その度に解放されていきました 身軽になっていきます
凡夫からは死ぬ気で頑張ってるように見えるのかもしれないけど、やってる本人からしたら安楽の法門(by道元)
>>358 想念 雑念が暴走して飲み込まれるのを止める方法 ということでしたら 実際に 「〜の映像が蘇って〜の気持ちになった」と口に出して言ってみると良いと思います
工夫して 「怒り」とか「妄想」とか「記憶」と短縮して心の中で整理しても良いと思いますよ
くれぐれも消そうとするのではなく むしろ味わうぐらいのつもりでやってみて下さい 勇気が要ります「〜の場面が蘇って嫌な気持ちになった」と声に出して言えますでしょうか? 勇気が要ります
>>362 ありがとうございます
励みにしてがんばります
悟れなくても煩悩が少しでも落ちれば、自他共に利益になる
そのつもりでやってみます
このスレには
>>365 そこなんだよ。
悟りきった人からしたら、瞑想、気づきなんかは優しい、楽な仕事。
悟ってない人間には全てが苦しい。
じゃあどうやって悟るのか。
仏教の歴史、禅の歴史にはそれがある。
マインドフルネスには悟りの概念がない。悟りを目指す気もない。
そんなんじゃいつまでたっても、苦しいまんまだよなぁ。
自分がないなら生まれかわってもいいじゃんか 自分じゃないんだから
>>368 とりあえず、あなたは悟ってないっすよね
>>369 自分がないともう二度と生まれない。不可能。
不生不滅のニルヴァーナ。
>>372 煩悩があるとき、執着があるとき、自我が生まれる。
自我、私がいるという錯覚がある限り、輪廻する。
自我の錯覚を見破るのが悟り。
>>363 >>366 ありがとうございます。
なかなか難しいですね…
マインドフルネスでも名色分離は起こるしそうすれば日常的な苦しみの多くは生じないか気にならなくなる それがわかってないなら名色分離すら至ってない そもそもよくわかってない初心者のうちから悟りを目指す人なんていないし目指してたらむしろおかしい マインドフルネスやってある程度進んだとき悟りについて考えたらいいし、預流果に至れば自然と悟りに進むから他人が必要以上にどういう言うことでもないでしょ
>>375 まずマインドフルネスをやろうっていう人は、動機が、
仕事が上手くいくようにとか、人間関係が上手く行いようにとかだと思うけど、
そういう人達が瞑想が進んだところで、じゃあ全てを捨てて悟りを目指そうか、
なんて気持ちになるかなぁ。と思うんだけどね。
まぁ確かに他人の事だからどうでもいいです。
>>373 そもそもその自我なんてないんだから生まれ変わりようがないでしょ
>>377 人のことどうでもいいならいいじゃないですか
何回同じこといってるんですか
もう書かないでくださいよ
あなたは八正道も口先だけの人だから
また同じことを繰り返すんでしょうけど
>>378 今日死んでも何とも思わない?全財産失なっても何とも思わない?
毎日最低限の食べ物で文句言わない?服は全部ボロボロでも大丈夫?
家は雨風をしのげるだけで問題無い?
自我が無い人は何がどうなっても、何とも思わない人ですよ。
無執着の人。その人は苦しむという事が全くありません。
どれだけ執着しているのだろうか 人のことはいいじゃない、自分の事をもっと見つめましょうよ
>>382 生きている間の話。
死ぬ時の心の状態で、次の生が決まるんだとか。
>>383 自分じゃないんだから次の生なんてどうでもいいじゃん
>>378 一応仏教では心相続といって死後も五蘊は続くことになってます
解脱して執着がなくなるまでは
自我がないといっても、解脱するまでは自我という錯覚はあります
現に今、私にもあなたにもありますよね
とりあえず、こういったことはマインドフルネススレッドよりふさわしい議論の場所があるので、
そちらでどうぞ
>>384 明日の自分は今日の自分じゃないから、どうでもいいとはならないでしょ?
来世の自分は今生の自分じゃないから、どうでもいい?
>>386 今日と明日は記憶に繋がりがあるが
お前は前世の記憶があるのかよ
>>387 昨日の記憶もあやしいけどな。俺は。
記憶のあるなしは関係ない。
業が関係してる。
>>355 自己嫌悪を消したいという話だったと思うが
なんかえらく難しい話が始まってるから、質問者に気の毒だなと思ったんだ
難しい仏教の話とか解脱みたいな話は関係なくない?
>>389 俺は必要だと思うね。解脱の話が。
たぶん自己嫌悪を消しても、また別の問題が出てくる。
そうこうしてるうちに墓の中だよ。
もう全てを捨てて、今生で、全ての苦しみを捨ててやろう。
終わりにしてやろう。命が、財産が、仕事が、どうなってもかまわない。
解脱に達して何もかも終わらせる。
ぐらいの気持ちを起こしてもいいと思うよ。
もうどうにもならない自己嫌悪を抱えている訳だから、
悟りに達するチャンスは普通の人よりだいぶある。
>>390 いや、俺は必要無かったけど…
ここはマインドフルネスのスレだよね
>>391 だからマインドフルネスには限界があるから、悟り、解脱も考慮に入れましょうという話。
上の方でスマナサーラさんが言ってる。
ここではその限界以下の話でいいでしょって 瞑想経験ない人がいきなり五蘊だ八正道だ悟りだなんて言われても困るよね という話をしてるよ?
口先だけの八正道っていいな Z級の昭和歌謡にありそう
>>393 バズーカも、ロケット砲もあるのに、何でピストルを使うのかが分からない。
ハンバーグもチーズケーキも食べ放題なのに、何でスープしか食べないのか分からない。
>>336 自己嫌悪だろうが何だろうが
余計な思考に気付いたら呼吸(現在)に戻るのです
何にでも段階というものがあります
初心者がいきなり自己嫌悪を観察しようとても
逆に巻き込まれて自己嫌悪が更にエスカレートしていくだけです
「あ、自己嫌悪だ→嫌だな→消えてくれないかな→どうして消えないのかな→
何であんなことをしたんだろう→自分が悪いんだよな→ああ、ほんと嫌になる→
あれがなけれ上手くいったのに→どうして(延々と続く)」
「あ、自己嫌悪だ」と気付いたら、それをそのままにして
呼吸(あるいは現在行っていること)に戻りましょう
これは大切なポイントで
マインドフルネスの「判断を加えない」というのはこのことです
嫌だと思うまでは良いのですが、そこに善悪の判断を加えていくと
嫌なものは悪いもの→悪いものは存在を否定したい→何とか取り除きたい→(続く)
というように、そのままどんどん思考や感情に巻き込まれていくのです
そうならないためには、自己嫌悪に気付いたら
自己嫌悪の存在を認めることです
自己嫌悪を無理に取り除こうとしないことです
自己嫌悪を感じる自分を認めることです
そして自己嫌悪の居場所を確保した上で
自己嫌悪をそこに置いたままにして
呼吸(あるいは現在行っていること)に戻るのです
慣れてきたら、自己嫌悪に気付いたら
「自己嫌悪ちゃん」とでもラベルを貼り付けて、そのまま戻っても良いです
ラベルを貼ると判断がそこで決着するので、思考や感情が先へエスカレートしなくなります
確かにマインドフルネスは現在の体験を観察するものですが
自己嫌悪等の感情に巻き込まれやすいものを
いきなり冷静に観察するのは難しいです
先ずは呼吸の観察の練習を繰り返し続けて
(呼吸の観察→思考のさ迷い→気付き→呼吸の観察に戻る)
それによってマインドフルネスに必要な集中力、観察力を養うことが大切です
集中力は心の安定にも繋がります
焦らずにゆっくり進みましょう
自己嫌悪なる感受、想(イメージ)、その意識を作る力、そして自己嫌悪なる識別、それらは無常である。 無常であるから苦である。苦であるから無我である。 無我であるから、これはわがものにあらず、我にあらず、また、わが本体(アートマン)でもない。 そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。 そのように、正しき智慧をもって如実に観察するならば、遠い過去をふり返ってああ思いこう思うこともない。 遠い過去をふり返ってああ思いこう思うことがなければ、遠い未来を思いやってああ思いこう思うこともないであろう。 遠い未来を思いやってああ思いこう思うことがなければ、しつこい執著もないであろう。 もはやしつこい執著がなくなれば、その心は煩悩を離れて解脱するであろう。 解脱するがゆえに、もはや動揺することなく、動揺せざるがゆえに充ち足り、充ち足りるがゆえに恐怖せず、恐怖せざるがゆえに、おのずからまったく涅槃して、 <わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、さらに迷いの生を繰返すことはないであろう> と知るのである。
>>358 マインドフルネスがやっているのは執着(とらわれ)を無くすことです
マインドフルネスをしても
「嫌だな。恥ずかしいな。」と感じなくなる訳ではありません
感じることにこだわらなくなるのです
・苦→洞察→無執着→苦からの解放
つまり不快な症状(身体、感情、思考)を観察して、その本質を見通すことで
症状を客観的に捉えられるようになり、執着(とらわれ)が無くなり
ストレスが低減していくことを実現するものです
思考や感情がエスカレートするのはこの執着があるからです
「嫌だな。恥ずかしいな。」みたいな感情はなくなるでしょ ある段階まではなくならないかもしれないけど2次的な心の判断に過ぎないからそれに本当に気づけたらなくなる 心の反応は自分が好きにしていいのだ(心は自分ではなかった)とわかった時点でなくなる もちろんその前の段階ではだんだん気にならなくなるだけだろうけど
何かプロセス間違ってませんか?と思うんだけど いま問題なのが自己嫌悪なら バズーカを使う必要なんかないですよ 初心者にバズーカの取説を渡してやってみな、というのは不親切です 自己嫌悪ごとき消せなくて困ってる人に山ほど理屈を与えてどうしますか 変性意識に入る、観察する これだけですよマインドフルネスは 信仰者ではない人が抱えるメンタルの問題を解決するには十二分でお釣りがたんまり貰えます まずは呼吸法なり慈悲の瞑想なり それだけを毎日やることですよ きっちり毎回、安定して変性意識に入れるようになったら 問題の観察を始める あっという間に消えますよ、理屈なんかなーんにもいらない
>>397-399 参考になります
ゴエンカ師もおおむね同じ内容のことをおっしゃっていました
私は感情に巻き込まれやすいので、気をつけよう
>>401 だいたい同意ですが、変性意識は必要でしょうか?
サマディのことをおっしゃっているのかもしれないですが、通常の冷めた意識でいいのでは
あと、バズーカとおっしゃっている彼は、なぜ出家しないのでしょう。それが最高のバズーカだと思うんですが。素朴な疑問。
マインドフルネスは、あくまで在家が、出家者の推奨する瞑想法をおこない心身や周囲の人たちとの調和を図るもの。
布施や回向もできるし、少しづつ解脱にむかってもいる。
もちろん本当に解脱を目指すなら出家すべきだと思いますが、なぜ彼はしないのでしょう。
まあ、絶対に返事しないでしょうがね。
>>374 そうなんです 簡単なんですけど 難しいんです ですがやり方は色々あります テレビを見ながら 「見ている 見ている 自分はテレビを見ている」「(残酷なシーン 感動のシーンで)胸の辺りが反応した 背筋が反応した」
これはかなり簡単な方法です ただ今度はテレビのストーリーに巻き込まれないようにしないといけませんが...
要は自分の意識が何に向いているか 常に気づいていれば構いません 何かに限定して観察するのかその時その時で視覚であったり音であったり限定せずに観察するかです
まあ気落ちせずに気が向いたらやってみてください 極論ですが極限までやれば明日死刑になるとしてもぐっすり眠れるようになります
電池切れたのでID変わります
>>402 サマディなんて高級なところまで行く必要ないよw
マインドフルネスは初歩の初歩だよ
僕の言ってる変性意識というのは、思考が止まったような感覚だけの世界に入ること
それだけで十分
厳密に言えば本当に思考が止まったとは言えないと思うけど
どのくらいならいいのか、みたいな厳密主義、完璧主義は当面要らないよ
毎日たんたんと練習していれば、ある時に入ったことがわかるから
ぱちっと切り替わるからわかるよ
>>403 テレビはよく見るのでやってみます!
> まあ気落ちせずに気が向いたらやってみてください 極論ですが極限までやれば明日死刑になるとしてもぐっすり眠れるようになります
まじすか
ここまでのメンタルになれば確かに人生かなり楽になりますね!!!
>>402 出家は親の同意、妻子の生活費など、社会的な条件をクリアしないとできません。
>>401 そんなに簡単には行かないですよ。
強烈な感情に襲われたら、集中力も無くなって、観察しても消えません。
山下良道師も指摘してますよ。
気づいているのに感情が消えない。それはピッチャー交代していないからだと。
悟ってないからだと。
戒定慧から慧だけ取りだした、八正道から正念だけ取りだしたマインドフルネスでは不完全。 普通に考えたら分かるでしょ。まず戒が重要なんだと、正見が重要なんだと。 戒なしでは悟れません。正見なしでは悟れません。 強烈な感情の波に気づきでは対応できない。 そもそも強烈な感情が起きないように、悟りを目指すべき。
山下良道が言うピッチャー交代レベルの話を悟りだと思ってるのか マインドフルネスは不完全だという前に、自分のマインドフルネス瞑想に対する理解も、己の実践面でも不完全なのでは
禅とマインドフルネスはまったくの別物です マインドフルネスは劣化したcopy版 海賊版みたいなものです それでもお手軽に一時的な癒しでだけでも得たいという人には良いのでは それと山下氏は悟ってないですよ 自分の頭で経典を捏ねくり回して未だに迷走中です
ジョギングで健康を得ようとしてる人に、そんなんじゃフルマラソン走れるようにならないぞ、みたいな話しても意味無い気がするんだが…
自分では何も実践できてないのに何で他人に悟りを目指せとか言いたがるんだろ
他人にとっての目的ややり方は 自分にとっての目的ややり方と 同じように大切にした方が いいと思うけどな
おい。孤立無援かよw まぁ遊びという事ならいいんじゃないかと思えてきた。マインドフルネス。 子供を亡くして取り乱したお母さんに、マインドフルでいて下さいって言っても無理だと思うな。 ガンで余命1ヶ月を宣告された人に、気づきを保って下さいって言っても多分ダメ。 あらかじめ悟っていたなら心の安定は保てる。 ちょっとした怒り、欲に気づくと消えますよって、そりゃ消えるだろ、どうしても。 それなら五戒を守ると心が安定しますよって教えた方が早いと思うけど、 みんな五戒を守るのは嫌なんだろうな。仏教では正統なんだけど。
マインドフルネスは劣化コピーで遊びだとかいう価値観や、予め悟っておかないととか、そういう心の働きこそが迷いや苦しみの根源だろうに みんな五戒を守るのは嫌なんだろうなってのも自分が心に描いた像を相手にしてますよ
ID:oIE2ofGnはマインドフルネスが実際にはどんなものか分からずに、思い込みだけで語ってるようにしか見えないんだが
>>415 なんでや。
迷い苦しみの根源は無明。真理を知らないこと。それ一択。
予め悟れってのは釈尊がおっしゃられてる。鞭をあてられた馬のように涅槃を目指せと。
マインドフルネスの本はいっぱいあるのに、五戒の本が流行ってないのはなんで?
蚊でも殺してはいけない、落ちてる10円玉も拾ってはいけない、酒は飲んではいけない、
なんてのは全く流行ってないでしょ?
マインドフルネスより効果抜群なのに。
すべての生命はお互いに食べあって生きてます 五戒は正しい理解が必要
>>420 良道師は悟ってはおられるんだけど、それをどう表現しようかに迷っておられる。と思う。
バージョンは無いわ…
仏教3.0て。
3.1や3.2もあんのかい。ベータ版とか。
ID:oIE2ofGnはどういったものをマインドフルネスだと想定して話してるんだ 山下良道だってマインドフルネスだと言っているじゃないか
>>406 いや簡単ですよ?簡単で効果があるから流行ってるのですよね
自分も他人に理解されないくらい強い心理的問題を抱えていましたが、上に書いたとおりです
悟らなくてもネガティブな感情なんか簡単に消えるようになりますよ
難しいのはその先に瞑想を深めた時に現れてくるものでしょう
その段階では確かに八正道や五戒といった智慧が役に立つのだと思います
それは気付きの明確化に役立つと思います
慈悲の瞑想もその段階で役に立ちますね
しかし、先に教条的に与えてこれを守れ、とするものではないと思いますよ
自分から見るとあなたは考えすぎてる
考えすぎているがゆえに難しくしてしまっている
そして、簡単ではないとおっしゃってる
そりゃそうだろうと思うわけで、、、
ですから何かプロセス間違えてませんかと問うています
他にも気になるところは
> 迷い苦しみの根源は無明。真理を知らないこと。それ一択。
と仰ってますが、あなたは真理を悟られたのでしょうか?
そうでないなら、そういった言葉を出してはいけないと思うのですが
>>424 そうなんですか。
簡単で効果があり、悟らなくてもネガティブな感情が消える…
私も昔、性欲というか愛欲が瞑想しても消えずに困ったもんですけどね。
ある時、全部無常で実体のあるものは何もない事に気づいてからは、
そういう強烈な欲自体が現れなくなりましたが…
無明が一番の根本的な煩悩であることは仏教的常識だと思います。
あぐらじゃなくて椅子に腰掛けてマインドフルネスやっても効果ありますか?
>>425 ええそうです
僕は悟ってませんが一度消したネガティブ感情が戻ってくるようなことはないですから
感情というか、自己嫌悪、不安障害、その他思考がループしてしまうことなどですよね
とても良いメソッドだと思いますよ
グナラタナ師が書いてますが、マインドフルネスはいかなる宗教にも用いることが出来ると
宗教色を排したからアメリカの大企業などでも研修が行われてるのでしょう
>>427 ありますよ
どんな姿勢でもいいと思います
じゃあもうマインドフルネスだけあればいいですね。 悟りもいらない、戒もいらない、八正道も何もいらない。 お釈迦さまは間違ってたんだ。マインドフルネスだけ説いていれば良かったんだ。 だってマインドフルネスで簡単にネガティブな思考、感情が消えてしまうんだから。
>>418 なんでやって、根源は無明だけど形をとるのは行(サンカーラ)からだからねえ
だから一切行苦
事実でないものを心に描いて形をとらせているなら、その働きの根源は無明にある
悲観的な未来を描いてそれに備えたり
分かったつもりの他人の動機を心に描いたりね
その最たるものが価値観だよ
>>430 別に価値観は煩悩、苦しみじゃないでしょ。
不貪、不瞋、不痴の価値観だってある。
無明は間違いなく煩悩、苦しみだけど。
もう一回反論すると、苦しまない為に、なるべく早く悟りに達するのは釈尊の教え。
五戒を誰も好まない、ブームにならないのは、今現状そうなんじゃないですか?という主張。
エゴだけで仏教かじって分かったつもりになるとこんな感じになるんだろねー まさに山下良道いうところのピッチャー交代できてない状態
>>431 > 別に価値観は煩悩、苦しみじゃないでしょ。
> 不貪、不瞋、不痴の価値観だってある。
ある価値観の尺度で物事の良し悪しを決めて、良い現実だけを見ようとする心の動きが貪、悪しきものを否定するのが瞋、その歪んだフィルターを通った後のカスを現実と思い込むのが痴だよ
不貪、不瞋、不痴は価値観じゃない
> もう一回反論すると、苦しまない為に、なるべく早く悟りに達するのは釈尊の教え。
世間でいう苦は仏法でいう苦とは違う
苦=dukkha=不満足、不完全
マインドフルネスが解決しようとしてるものとは全く異なるし
そもそもdukkhaを感じない人なら悟る必要すらない
悟りは万人にとっての善きものではない
> 五戒を誰も好まない、ブームにならないのは、今現状そうなんじゃないですか?という主張。
五戒を守ってもそれだけじゃ全然幸せにはならないからじゃないですか
>>433 不貪、不瞋、不痴自体は価値観ではないです。
八大人覚なんかは、不貪、不瞋、不痴の価値観だと思いますが。
四苦八苦は世間と仏法とで違うんですか?
四苦八苦を感じない人がいるんですか?
五戒を守れば悪趣に落ちない。天界に生まれ変わると釈尊に説かれていますが。
誰も戒は必要ないとは思ってないと思いますよ 三学のベースとなる部分ですし、八正道の実践にも関連しますからね しかし、浮気や不倫をしない、盗みをしない、嘘をつかない、酒を飲まない、生き物を殺さない これらは改めて強調するまでもなく節度のある瞑想実践者なら特に意識せずとも守れていると思いますよ さすがに蚊やゴキブリも殺さないのかと言われれば、私は不殺生戒は完全には守れてませんけどね
>>435 あなたの目的は天界に生まれ変わることではなく、悟りを開くことでしょう?
なら社会的に何とか言ってないで、早く出家しなさいよ
釈尊をいつも引き合いに出してるじゃないですか
さあさあさあさあ
それが出来ないなら黙ってなさいよ
ついでに言えば、あなたが守っている程度には、ここの人たちだって
五戒にのっとって生きていると思いますよ
自分は子供のころから蚊に刺されてもすい終わるまでまっている。
あなたはどうしてますか?
>>438 親の面倒をみたり、妻子の面倒をみたり、
自分が出家することで不幸になる人がいてはいけません。
在家でできることもいろいろあります。
山岡鉄舟居士は在家で完全な悟りに達しました。
私も蚊を殺しません。
他人に必要以上にああだこうだ言ってる時点でマインドフルネスも山下さんの言ってることもまるでわかってないよ 知識じゃなくちゃんと実践した方がいい マンドフルネスとか他人とか山下さんとかどうでもよくなるから 何か話すときでも相手や状況に合わせて自然になる 相手に合わすこともできず自分の言いたいこと言ってる時点で個我と我見に流されてるだけだってどうしてわからないんだろうか マインドフルネスや仏教がどうだとか言ってることがいくら正論でも個我から話したら全く意味がないんだよ ちゃんとピッチャー交代しないと
僕は仏教に関しては無知な方で、アウトラインだけ何となく知ってる程度ですが やり取りを見ていてなるほどなぁと、勉強もされて実践されてる方も多いんだなぁと思いました つまり、ID:oIE2ofGnさんのお陰でわかりやすい議論になってるのも確かですよね わざとなされてるのかもしれません
そう思えるのはすごくいいことだし、それは我がかなり静まってちゃんと他人のいい部分も公平に見ようとできてる証拠だよね 我が強いと他人のわるいとことばかり見てしまって他人に説教したくなる そして正論言ってる自分は正しいとすら思ってしまう、正論であろうとただ我に流されているだけなのに この宗教板にもそういう人は多そうだよね
>>440 私はスマナサーラ師の本で勉強し、瞑想してきましたから、
良道師、マインドフルネスはどうでもいいんです、本当は。
良道師は比丘としてもちろん尊敬していますが。
ただ、釈尊が説いた完璧な仏教から、一部だけを抜き取って、
それで十分だとするのは、釈尊をないがしろにしてるんじゃないか、と思うんです。
私が主張したいのは3点。
1.サティ、念、マインドフルネスは八正道、七覚支の一部として説かれなければいけない。
2.戒定慧の概念を尊重すること。慧は戒と定を前提として成り立っていることを明確にする。
3.サティは本来、解脱の為にあることを明確にする。
2600年前に真理を発見された偉大なるブッダが説かれた仏法の、
最重要概念「サティ」はもっと慎重に扱われるべきだと思います。
マインドフルネスと言うか瞑想(ヨガも含む)のメリットの一つに自己嫌悪からの脱却があるけどそれはつまり根拠のない自信を得る事。 事実瞑想にはエゴが強まる危険があると言う研究結果もあるし修行してる人も多いであろうこの板ですら口汚い言い争いが耐えない現状を見るとそうなんだなって実感する。 瞑想には良い点もあるけど悪い点もある。 つまりおっぱい最強!おっぱいにはデメリットなんてないさ。
>>443 誰がマインドフルネスだけで十分だって言ったの?
それはあなたの想像だよね
自分に悩みがあってそれをマインドフルネスで解決しようとしてる人が書き込んでるだけでしょ?
誰もマインドフルネスだけで十分だなんて言ってないしあなたは他人の書き込みから自分の都合のいい想像をしてそれに正論をつけてるだけ
その時点であなたがちゃんとサティできてないってのはわかるんだけど
それにマインドフルネスで悩みは解決しない、仏教の実践をしないと駄目だって言うなら一言それを言えばいいだけでしょ
あなたは他人のことはどうでもいいと言いながら何度同じようなことを書きこんでるんだろう?
それは自分の言ってる正しいことをどうして他人は認めないんだという他人を自分の思った通りにしたい欲求だよね
それと仏法の正しさとは全く別
あなたは真面目に実践した方がいいと思うけど
もうしてるって言いそうだけど、いまこれ見てる今でもしたほうがいいと思いますよ
止観とするとか原始経典読むとかしたら?
幸せホルモンとも呼ばれるベータエンドルフィン、この物質についての研究で最も高い値を出したのは瞑想中の僧侶だったとか。因みにその時やってたのは慈悲の瞑想。これは瞑想初心者にもおすすめできる簡単な瞑想。 他にもベータエンドルフィンを増やす方法はあるけど簡単なのはハグ。異性とのハグ。おっぱいブチュブチュ。
それからサティは解脱の為にあるわけじゃない サティによって解脱できるというだけ サティも人間がもつ本来の機能だから何かの為にあるとかそういうものじゃない その証拠に我が少なくなってきたらサティしようと思わなくても自然とサティが入ってくる いちいち止観しなくても慈悲の瞑想でも座禅でも、瞑想なんて何もしなくても、自分の観念や我が減っていけばそのぶんただありのままを観るようになっていく 人は様々な機能をあとから加えただけで本来はただ観ることしかできないのだから
>>445 いろんな人が書き込んでますから、統一的な見解は無いと思いますが、
私は私の正しいと思うことを主張をするだけです。
下らないと思うなら聞き流してもらって結構です。
5chってそうゆうもんじゃないですか?
>>447 実際にはそうです、サティは人間の本来の機能です。
ただ釈尊の主張は常に、「解脱しなさい」でブレません。
そしてその方法を完璧に説かれました。
そのお陰で今我々はマインドフルネスや仏教に出会えている訳ですから、
釈尊に敬意を表して、サティは解脱の為とするべきだと思いますが、どうでしょうか。
>>448 それってあなたが主張してる八正道や仏道にちゃんと沿ってることになるんですか?
そこに書かれていることが八正道や仏道としてもなんらおかしくないって思えるならどんどんそうやっていけば思いますが
>>443 > ただ、釈尊が説いた完璧な仏教から、一部だけを抜き取って、
> それで十分だとするのは、釈尊をないがしろにしてるんじゃないか、と思うんです。
その前提は共有できない人も多いんじゃないかな
少なくとも私は釈尊の説いた教えが完璧である根拠は持ってないし
貴方も持っていないのでは?
根拠無く信じることを必要とする、宗教的な前提ですよね
>>449 敬意はあなたが勝手に持っている感情であってそれがただしいかどうかは別ですよね
仏陀がサティは解脱の為にあると言ったと思ってるなら言えばいいんじゃないですか?
人間の本来の機能に○○の為であるとかないとかそんな概念はないと思いますし、そういうことを言うと他人を惑わせるだけだと思うので私はそんなこと言いませんが
>>451 私は釈尊の教えは完璧であると確信してます。
>>452 マインドフルネスや、仏教に触れている人は皆、釈尊の恩恵を受けていると思いますが。
まぁ敬意を表すかどうかは個人の判断ですね。確かに。
私は敬意を表します。
>>453 > 私は釈尊の教えは完璧であると確信してます。
貴方が確信するのは自由なんだけど
信を他人に押し付ける権利はあるのですか?
前提を共有しない達成すべき目標も違うコミュニティーにわざわざやってきてですよ
貴方のやっている事は要するに宗教戦争なんだけど、自覚あります?
私もヴィパッサナールーツなんで個々の言ってる事はわかりますけどね
でもそれは前提を共有する範囲、指導者が法話の聴衆にいうのが射程距離の限度であって、前提を共有しないとこにわざわざ来て押し付ける事じゃない
>>454 私は他人に、釈尊の教えを信じなさい、とは言いませんよ。
マインドフルネスを初めた人、やっている人は、釈尊に対して敬意を持っていないのか、
持っているなら釈尊の定めた通りにサティを扱いなさいよ、という主張です。私の主張は。
でも分かりました。みなさん釈尊に敬意を持っていないようです。
仏法から役に立ちそうなところを抜き出して利用しているだけのようです。
ひょっとしてみなさん、仏教のヴィパッサナーやって挫折したからマインドフルネスやってるとかですかね? 悟りを目指さない、解脱を目指さないなんて人もいるみたいですけど。
マインドフルネスが宗教要素を抜かなきゃいけなかった意味が良くわかるお人だね
>>459 仏教を信じると、こんなにまで嫌みったらしい雰囲気になるわけですか
だいたいさ、欧米人がマインドフルネスにハマるのは分かるよ。 仏教も禅もあまり身近に無いだろうし、クリスチャンも多いだろうからさ。 仏教も禅も身近にある日本人が、何でマインドフルネスにハマるか不思議だったけど、 そういう事なんだね。仏教や禅に失敗した人達が流れてくるのか。
一人で物語を作って納得してる人 確かにマインドフルネスからは遠い人だ
>>455 > でも分かりました。みなさん釈尊に敬意を持っていないようです。
ほらまた勝手な相手の像を描いてる
そんな人どこにいます?
そうやって事実でないものを見てたら道から離れるだけですよ
>>464 じゃあ何で悟りを目指そうとしないんですかね。
このスレの人達は。
釈尊直伝の伝統仏教をやらずにマインドフルネスをやるのは何故でしょう?
>>465 > じゃあ何で悟りを目指そうとしないんですかね。
>
> このスレの人達は。
だからこのスレの人達って誰よ
どのレスの発言者に向かって話してる?
まだ自分の描いた虚像に向かって話してるのに気付かない?
> 釈尊直伝の伝統仏教をやらずにマインドフルネスをやるのは何故でしょう?
それは誰のこと?
>>466 だいたいの話ですよ。意味分かりませんか?
あなたはどうですか?悟るつもりはありますか?なぜマインドフルネスをやるんですか?
というかやってますか?マインドフルネス。
悟りは自分で目指すものでしょう? 他人が悟りを目指すかどうかはどうでもいいことでは それに預流果に達して初めて仏法に対しての疑念はなくなるのですよ 預流果に達してないのに仏法を完全に信じてしまってるならそれはただの盲信です スマ長老だってよく「お釈迦様はただ信じろなんて言ってないですよ。本当かどうか自分で瞑想して試して下さい」って言ってますよね それからこのスレに書きこんでる方々はそれなりに仏教の勉強をして実践されていると思います 書き込み内容からそれがわかります いちいち悟りがどうとか解脱がどうとか口に出さないだけでしょう そもそも悟りや解脱などに関しては悟ってないものは自分がまだ知らないことだから安易に語るものじゃないと戒められてますよね
僕のことかな?僕なら仏教イラナイとかは思ってませんよ
他人の過失をみるなかれ。他人のしたことと、しなかったことを見るな。 ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ。 『ダンマパダ』 50 これがちゃんとできてない人はまずこれがきちんとできるまでは 他人に仏法のアドヴァイスをするのはやめたほうがいいと思うんですよね 他人がどうであるかなんてそんなこと修行者が気にしてる暇はないはずですから
>>468 あなた他人が悟っているかいないか分かるんですか?
預流果に達してないのが分かるんですか?
>>470 個人的な興味ですよ。
マインドフルネスブームとはいったい何か。どんな人がやっているのか。
何を目的にやっているのか。とかね。
>>471 さあ、言ってる内容から達してなさそうだなと思いましたけど達してるんだったらそれでいいですよ
自分がどこまで悟ってるかは言ってはいけない戒律もあるからあなたに預流果に達してるかどうかなんて聞きません
仏法のことにしろ何のことにしろ何を言っていいかどうかはあなたが自分で判断することでしょうしね
>>473 戒律は関係無いですよ。私は在家だから五戒だけですから。
だいたいマインドフルネスについては私なりに納得できたので、寝ます。 もうこのスレに来ることは無いでしょう。では。
>>474 どっちにしろあなたがどういう段階かなんてどうでもいいことですから聞きません
そして疑念がなくなるのは預流果に達してからなのですからあなたも他の人に仏法を悟りを目指せみたいなことは言わないほうがいいと思います
凡夫は当然疑念もあるしそれゆえ悟りを目指すことに本気になれるわけないのですから
>>467 > だいたいの話ですよ。意味分かりませんか?
その「だいたい」が貴方が心に描いた虚像だと言ってるんですがねえ…
> あなたはどうですか?悟るつもりはありますか?なぜマインドフルネスをやるんですか?
私はヴィパッサナーですよ、マハーシ系
でも、私は自分の信念や目標や価値観を他人に押し付けようとは思いませんし、自分の目標や価値観が他者のそれと優劣があるとは思ってません
てか、そもそも比較とかあり得ないですし
マインドフルネスで能力開発を目指す
ヴィパッサナーで悟りを目指す
どこに優劣がありますか?
このスレをウォッチしてるのは、たまに自分の知見からお手伝いできる事があったり、学ぶことも多々あるからですねえ
で、貴方は何をしにこのスレに来ました?
あらら…最後まで「このスレの人達」を心に描いて相手にして去ってしまったか… ヴィパッサナーやマインドフルネスやっていながら何故こうなるのかね…
>>443 マインドフルネスは仏教に由来があるとしているのでややこしくなっているね
しかしマインドフルネスと言われているものは仏教のサティとは違う
仏教の指導者がマインドフルネスと言うから混乱が起きている
マインドフルネスはマインドフルネス
欧米人が作った劣化サティ
けれども仏教の指導者が欧米のマインドフルネスをサティとしているから混乱がひどくなっている
サティのことは山下氏が一番わかっていると思う
放っておきましょう、三毒が生じる前に 人には人の業があるのですよ
マインドフルネスの中にもいろいろあるし仏教のなかにもいろいろあるのだから自分のこと以外は基本ほっとけばいいのに 言い出したらキリがないでしょう上座部と大乗だってかなり違うんだし そもそも上座部ですらマハーシやパオやそれ以外で見解の違いはいろいろ出てるんだから
今まで気づかなかった悩みの理由や原因に気がついたことを気づきといって、 これをサティとかマインドフルネスとしている人もいる でもこれはサティでもマインドフルネスでもないよ 原因に気づくことはサティもなければマインドフルネスでもないんだけど このあたりでも混乱が起きている サティもマインドフルネスも混乱している 定義や理解が人によって違っている これじゃあ話しがかみ合わなくなるのも当たり前かな
理由や原因がどういう意味かにもよりますが理由や原因に気づけることは心や心所といった自分の構造がわかることでもありますから、 心髄観や名色分離を起こすという意味でサティやマインドフルネスと被ってることだと思いますよ 少なくとも全く関係ないことではないでしょう
構造を知ることは直接関係ありませんよ そのまんま受け止めて流せばよいわけで原因究明はサティでは関係ありませんよ
サティを入れていくことで名色分離智やいろいろな智慧が出て来るでしょ その智慧が生じたときには原因がわかっているのですからサティによって原因がわかるようになると言えると思いますよ サティするときに原因究明や余計なことは考えずただサティするのは初心者には基本ですが、 サティによって原因がわかってくるという結果が生じるのだから内容が被る部分は大きいと思います
その智慧は仏教の智慧ではなく世間的な知恵ですね 世間的な知恵は原因を知り構造を見抜きますね あなたのサティはサティではなくマインドフルネスですね
だから仏教のサティとマインドフルネスを混乱していると言うのですよ ほとんどの人が混乱しています 日本の仏教の指導者が混乱しているので学ぶ人達も混乱してしまうのですね
サティを入れていくと悩みがなくなるでしょ 悩みがなくなったときに原因がわかってないのだとしたらおかしくないですか? 悩みはなくなった、でもその原因が何だったのかわからない、そんなことがあるでしょうか? サティを入れていくことで主観に捉われず物事や自分の心を見ることができるようになっていきますし、 主観なく観ることができてきたとき当然悩みを生じさせていた原因がわかると思いますよ 悩みの原因には個別の原因もあれば有身見などの根源的な原因もあるでしょ それらはサティを入れていくことによってわかると経典にもあるのですからサティと原因がわかることは関連してると言えるでしょう
>>401 =ID:83Qz1r12です
もう去ってしまった方へレスするのも意味がないかもしれませんが
多分、僕の書いたことが少し失礼だったので、勘に触ったのかもしれませんごめんなさい
自分がマインドフルネスに興味を持ったのは自分自身の長年抱えてきた心理的な問題の解決ですよ
それに尽きます
そして、それには成功しました
自己嫌悪ぐらいの感情、想念であれば超宗教的に取捨された「マインドフルネス」の技法で解決可能だと考えます
これは変わりません
そしてその技法は単純で簡単なものだと思います
マインドフルネスでも原因究明はしないで意図的に観察しますね ジョンカバットジンの説明ではそうなっていますね
冥想で目指すものは、考えるという行為を超越することです。 何かを考えている限り、普通の意識レベルに留まります。 夢を見るときはあなたの潜在意識に入ります。 つまりそれはアストラル体がより意識されている状態です。 意識がさらにもっと深く超意識へと入っていけば、あなたは脊柱を柱として、 無上の喜びの中心にいることに気付きます。 その至福の中で、あなたはコーザル体、即ち自分の魂の中にいることに気付くのです。 (パラマハンサ・ヨガナンダ)
>>488 だからね、それはサティではなくてマインドフルネス的なのですね
マインドフルネスにおいては原因や分析、理解という知恵も関わってきますよ
なるほど、僕の思い違いの部分がわかってきました 僕の言っているのは、ネガティブな想念や感情が浮かんできた時にそれを観察すること そして消えたら呼吸の観察に戻ること これが僕の言っていた「マインドフルネス」の全てですね
>>492 あなたはただの他人の言うことは聞かない人に思えるのでスマ長老の応答をコピペしますね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Q: 冥想は自我をなくすためにやると考えてもいいですか。
A: 理論的にはそうなりますが、冥想を実践する人が何かの概念で頭を固めることはよくないのです。
自我とは何かも理解していないうちにそれをなくそうとしても、単なる妄想で苦労するだけです。
未だ発見もしていない敵を倒せるわけがありません。あれこれと目標を立てたりすると、かえってそれが自我意識を強化するのです。
お釈迦さまが推薦するのは、ありのままの自分を観察することです。ヴィパッサナー冥想というのは、その手法です。
考えること、妄想すること自体が、苦しみを作り、自我という化け物を出現させる根本原因なのです。ですから、今の瞬間・今の一秒を実況するというやり方で思考も妄想も出にくい状況を維持しつつ、ありのままの現象を確認するのはヴィパッサナーのやり方なのです。
自我をなくそうではなく、痛い時は「痛み」、お腹が膨らむ時は「膨らみ」、お腹が縮む時は「縮み」というように、今の瞬間を観察していけば、徐々に人が目標に達するのです。
自我などは、実はもともと存在しないものなのです。冥想実践で自我なんかはないことが発見できるのです。
「自我というのはただの幻覚だ」とわかるのです。自分を観察して、自我という化け物が構成されるシステムを発見した人は、もうどんな条件のもとでも自我を作ることはありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここでも『「自我というのはただの幻覚だ」とわかるのです』とあるでしょう
これは自我を実体だとみなしてしまっていたという原因がわかったということですよね
サティによって原因がわかったと言えるのではないでしょうか
もちろんすでに言ってますが、サティは原因究明しようという思いをもってするものではないですよ
ただサティしていって原因がわかるということは当然あると思いますよ
>>493 そういう感情が浮かんできたとき以外もいつでも常に観察するのがマインドフルネスでありヴィパッサナー(仏教のマインドフルネス)だと思いますが、
やういう呼吸の観察をベースに何か生じたらそれを観察してまた呼吸の観察に戻るやり方はヴィパッサナーでもありますよ
>>495 そうですか
結果的に、今は何をしていても自分の反応、感情の動きに敏感になったというか、
観察するまでもなく、あ動いた、という感じで気づくようになりました
そうしてみると、自分のがプロセスが逆なのかなぁ・・・
>>496 観察が進むと観察しようと思わなくても自動的に観察が行われるようになっていくのはヴィパッサナーでもきちんと説明されています
そうなってきてるというのはヴィパッサナー的にも(もちろんマインドフルネス的にも)かなり進んできている証拠です
もうすでになっているかもしれませんが、観察するというよりは自分は何もしていないただ受け身で向うから全てが来るような感じになってくると思います
そして自分はただ受け身で観るだけのもので心や全ては自分でない向う側のもののように感じます
そうなると心や身体で何が起きようとそれは自分でない向う側で生じ滅し変化していくもので自分とは何も関係ないものだと感じられます
観察でネガティブな想念や感情が消せるようになっているということはもうすでにけっこう心や身体と自分が離れてきてる証拠だと思います
心や身体を自分だと錯覚している人にとっては観察してもそれらが自分自身であるという錯覚のせいでうまく観察もできませんしなかなか消えないのです
>>496 相当進んでますね 嬉しいです
>>495 の方も仰っていますが本当は できるならば 常に そして 全てを なんです
そしてネガティブな自分の反応は目立ちやすいんですが 嬉しい時 ワクワクしている時にも観察するんです そしてもっと先の話かもしれませんが 潜在的な望みや恐怖 いつもは隠れている感情 思考なども観るときが来るかもしれません 観察に対して注意深さが必要になります
進めば進むほど 自身の変化とそれに気づく時間は短くなります 同時と言っても良いくらい短くなります
たまーにで良いので長くやるか 強度を高めるかしてみると グッと先に進むかも...; ってどうしても早くこっちに来て欲しくて激しくやって欲しくなるw 自分のペースで無理なくですね
>> 475 流れ見たらすごいな なんか一人で空想して、一人で自分の敵を作り、一人で勝利宣言して、一人で納得して 行っちゃった 妄想100%、この人ぜったい瞑想してない。あるいは間違ったやりかたしてるか 瞑想していたら絶対こんな風にはならない
>>500 わかんないよー
私達凡夫が考える正しい瞑想こそ間違ってたりしてね
だからこそ覚者は少ないのかも・・・
マインドフルネスって瞑想中だけじゃなくて仕事中にもできるね 特に雑念が湧きやすい単純作業で雑念が湧いたら雑念とラベリングして意識を作業に戻すと 仕事以外でも万事の調子でやっていって淡々と生きていけば悩み苦しみから解放されるのかもしれない 606.(606) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。 607.(607) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、正知と気づきの者として、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。
>>502 みたいな事は私も考えて、オリジナルな瞑想法とかも考えてみたけど悟れる気配はないです。まあ、ブンシャカムニムニが瞑想で悟ったってんなら瞑想で悟れるんでしょうとも思うけど
「ある人に合う靴も別の人には合わない、あらゆる場合にジャストフィットな靴はない」みたいな話を哲学者か心理学者のカントかデカルトかユング辺りが言ってましたよね。ブンシャカムニムニがどの方法で悟ろうとそれが唯一の方法ではないのでは?
まあ、仏教以外でもと言うか大抵の宗教ってそれぞれ悟ったって人とか独自の瞑想法とかある訳ですからね……私はまだこの肉体では瞑想歴半年ですけど魂は宇宙誕生と同時に生まれてるんでそろそろ悟りたいです。
悟れたら若い女の子のおっぱい揉みしだきたいす。というか悟れなくても揉みしだきたいです。
>>503 サマタ瞑想だっけ?あれをやったら結構煩悩が浮かびづらくなったのでおすすめな気がします。
>>504 いや、おっぱい揉みたいとか煩悩丸出しじゃないすかw
まあ確かにサマタでジャーナに入ると煩悩がどんどん減っていく感じはしますけどね
というかジャーナの至福感が凄すぎて肉体的な快楽が大したことないと思うようになる感じかな
仏教ではヴィパサッナーがやたら持ち上げられてるけど、悟りを目指さないならサマタを極めていつでも一呼吸でジャーナに入れるようになるのも凡夫には良いかもね どんな環境でも落ち着いていられるようになるよ 例えば洞窟に閉じ込められた時とか
>>506 在家にはサマタを極めてるヒマが無いから
いきなりヴィパッサナーやろうっていうのがマハシ式じゃなかったっけ?
>>504 おっぱいは揉みしだいたら良いんですよ 全てやりたいことはやってしまいましょう そして早く飽きてしまいましょう そうすればまた次にやりたいことが現れます なくなるまで実際にやってみましょう
子どもの頃にファミコン買ってもらえなかった奴ほど大人になって取り戻すかのようにゲームやりまくるからな
マインドフルネススレだしスレチになると嫌なんでとりあえずマインドフルネスについて書きますね。 マインドフルネスってサーチインサイドユアセルフ的な自己啓発と言うか能力開発とかそんな感じの認識であってますか?多分ティクナットハンがトップ的な…… Googleとか色んなIT企業が瞑想をビジネスに取り入れてそれなりに成果を出してるし本も結構ビジネス書の並びにありますし。 きっとこれからの時代めっちゃ重要視されるでしょうね。瞑想が上手い人って。さあ、修行だ! ぶっちゃけ御守印ガールとか遍路ブームとか寺社とかパワースポットブームもあったしもうじき来るんじゃないかと。つまり、先に極めとけば後から来て教えを乞う女の子のおっぱいを揉める。 そうじゃなくても瞑想で発想が柔軟になって何か大成功してなんだかんだでおっぱいが揉める。 母親のは小学校を卒業するまで揉んでました。けどAカップだったんですよ。 中学生になってからは流石に母親のおっぱいを揉むのはどうかと思って同級生のを揉んでました。小さかったですけど。 病気になってからはひきこもりになったんで飼ってる猫のおっぱいを揉んでました。まあ、飼ってるっていうより一緒に暮らしてる?リスペクトしてました。飲んだ事もあります。数年前に死んじゃったんですけどきっとどこかで美少女に生まれ変わってます。 と言うわけでおっぱいに飢えてるんです。私にとっておっぱいは酸素なんです。かれこれ数年呼吸してないんです。
>>498-499 どうもです、ありがとうございます
これでいい感じなのかな^^
レス頂いて色々思い出すことがあったのですが
整理できてないのでまた
ともかく、やはり気づきと観察というのは不思議で面白いものですね
恐怖の狂気の(仮称)大魔王みたいなのには出会ってます、といっても魔王の形はしてませんが
自分は静かに落ち着いるのに他人皆に狂気を見てしまったり、夜になると狂気が空気中に充満してる感じで
それですくんでしまいましてw
で、観察の瞑想を試したわけというわけなんです
結果的には消すことが出来ました
再開するかもしれませんがもう大丈夫です
(仮称)魔王を消してから半月から1ヶ月くらいの間にいろいろ並行して変化があって
変性意識が更に早くなりほとんど瞬間に入るようになりました
自動になるにはこれが途切れないようにならないとでしょうね
かつてアメリカではヴィパサッナー瞑想を学ぶには仏教施設に行くしかありませんでした マインドフルネスの普及に尽力したジョン・カバットジンやジャック・コーンフィールドらは、ヴィパサッナーの効果に感銘を受け、キリスト教やその他の宗教でもヴィパサッナーを行えるように、宗教の要素を排除したヴィパサッナーを普及させようとしました それがマインドフルネスと呼ばれています つまりマインドフルネスの名を冠しているだけで、実質ヴィパサッナーと同じです 炊いた米をご飯と呼ぶかライスと呼ぶか程度の違いだと思います それは違う、と主張する人はこのスレにはいると思いますが自分が学んだ限りではそういう認識です
再び話が逆みたいだなーと思って整理出来なかったのですが 思い返してみると、要するに気づきの練習になることを 観察の瞑想を始める以前にしていたということなんです また、サティということと実況中継式の瞑想ということが頭の中でゴッチャになっていました ナラテポー師の手動瞑想の動画を見てわかりました
おっぱいに関しては「揉みたい」という確固たる意志が無いと揉めないと思う。 自分で言うのもなんだが30前半の平均収入の倍ぐらいの収入はあるが、揉めてない。 俺が異性愛者で性欲も人並みに備えているのにも関わらず、揉めてない。 やはりこれはステータス、収入関係無く「揉みたい」という意志、それに伴った行動力、決断力を駆使しないと揉めないという証左だと思う。
楽器を集中して弾いた時の脳波は瞑想中の脳波と同じで楽器演奏には瞑想と同じような効果があると聞いた。 ◯◯智が楽器演奏で育まれるのかどうかは知らんけど
おっぱいがどうとかくだらないしつまらないからやめてよ ほんと
>>511 変性意識のことはよくわかります ですがその状態についてもあまり気にせずに続けられたらと思います 私の場合は変性意識を経てやがてそれは薄くなっていきました
薄くなってもちゃんと観察できますのでね それから観察系の瞑想ではそれほど心配はないかもしれませんが 色々と幻を見たり隠されていた耐えられない恐怖が表出してくる可能性も無いとは言えません
体調や感情が極端に変化したりする場合は少しペースを落とした方が良いかもしれません まあ大丈夫そうですけどねw 頑張って下さい
>>516 いや おっぱいのことは男性にとっては冗談抜きに非常に重要ですよ 性欲 お金 名誉 近親者との関係等 生きるパワーであると共に苦しみの原因の主要なものですからね
おっぱいへの思いが解消できれば一つ悩みが減るわけです
おっぱいの次はお尻に移行するかもしれませんがいずれ終わりがきます
先週の土曜日、ショッピングセンターの健康グッズ売り場でJK二人組が高速で振動する奴の上に立ってて物凄い勢いでお尻がプルンプルンいってました。見とれちゃいました。しかも可愛い子だったので尚更。思い出して3回も抜いちゃいました。 そう言えば日本の男性はおっぱいが好きなのに外国の男性はお尻が好きなのは乳離れの時期が関係しているそうです。外国は赤ちゃんの頃から別々に寝たりするので乳離れが早い=おっぱいに執着がないって事らしいです。 xvideosみたいなアダルト動画サイトで巨乳動画が世界的にもそこそこ人気なのを考えると外国にもおっぱい派は居るんでしょうけど……そう言えば外国だとお尻を整形したりお尻にパッドを入れたりするらしいですね。 ビックリ人間並みにお尻の大きい女性とか見たことありません?そう言えばおっぱいも居たな……おっぱいで缶を潰す人。 ジャーナってのは禅定の事ですよね?どうも横文字は苦手で……足の痛みとかを感じない状態の事であってます?まあ、リラックス状態?その状態になるための瞑想とか考えたんですけど時間的にはサマタ瞑想とそんなに変わらないです。 ためしてガッテンで紹介してた方法も試したけど簡単だしおすすめです。なんか小太りの人(名前分かんない)と成瀬さんが出てました。Youtubeで見ました。 ヴィバッサナーについて読んだ本によると雑念が沸いたときにとりあえず心を元の状態に引き戻そうとするのがサマタ、その経過も含め観察するのがヴィバッサナーみたいに書いてあったんですけどどうなんですか? まあ、個人的には気持ちいいのが好きなんで名前とか型に囚われない瞑想をやっていこうと思いますけどね。
おっぱい大好き、ネガティブは大嫌い。 悟りなどという面倒臭いものは一番大嫌い。 悟らなくたって、いいじゃないか。。。それがマインドフルネス。
>>516 魚川みたいなバカの影響を受けるなよな
品性を保つことも大切だぞ
感情や思いを原動力に、人間は歴史を積み重ねてきた、或いは社会の発展やテクノロジーの進化を遂げてきたと言えるのではないかと思うんだけど、 AIというのが更に進化していった場合、感情や思いのようなものをAIが持たなければ、もしかしたらそこに真の仏性のようなものがたち現れて来はしないだろうか。 そして、意図せずに実はそういう方向に歴史が進んでいたとしたら…
悟りがネガティヴ? 極めてポジティヴ いつまでたってもおっぱいを追い求める強烈な執着からの卒業
さっき飼ってる犬のおっぱい揉んできたけど普通に柔らかかった。おっぱいかどうかは分かんないけど……メスの中型犬(雑種?)、小学生の時に犬に噛まれて病院送りになってから犬が嫌いだったけど好きになりそう。 まあ、おっぱいが好きなのは揺るぎない事実。と同時に瞑想を頑張ってるのも事実。1日7時間をノルマに頑張ってます。病気で手術をした時に夢だと思うけど神様っぽい何かに会ってそれ以来宗教を頑張ってる感じです。瞑想は今年からですけどね。 ところで皆さんはどれ位(時間)瞑想してますか?気になって色々調べたんですけど合宿とか大接心とかそういうのしか載ってなくて……。 まあ、マインドフルネスは15分位でも効果あるよとかためしてガッテンだと3分でって言ってたけど。 因みに座禅は50分一区切り、休憩中はムーブメント瞑想等をしてます。
>>525 まず考えない状態に入らないとならないよ
それは出来てるかな
最初は長い時間挑戦しても難しいんだ
瞑想は好きな時に好きなだけやる 座るのに時間を測るのは自分はナンセンスだと思ってる テレビを見たりスマホをいじるのと同じ感覚 30分くらいの時もあれば5時間くらいぶっ通しでやることもある 瞑想歴は15年以上、座禅やサマタ瞑想、マハシ式、ゴエンカ式などのヴィパサッナーをいろいろやってきたが今は只管打座しかやってない というかそれしかできなくなった
一回45分にプラス電車待ちや人待ちの時間足して、一日平均1時間くらいかなあ 休日は2〜3時間くらいです 基本はゴエンカさんのところでやったボディスキャン、あとは呼吸や全体に気づくこと ゴエンカさんの合宿前に、事前に参加希望記入欄があって、なにかの瞑想やヨガをやっているか との質問があったので、マインドフルネスをやっていると書いたら、調査の結果マインドフルネスと ゴエンカ師のヴィパッサナー瞑想は相容れないものだとわかったがそれでもいいかと聴かれた これはゴエンカ師の方針もあると思うが(ジャック・コーンフィールドが瞑想センターを作ったときに メソッドを混ぜるのは悪魔の所業と非難したらしい)どうなんでしょうね あとあまりスレとかけ離れた書き込みは控えて欲しいです こじつければなんでもマインドフルネスにこじつけられるだろうけど、こじつけてすらいない女子高生で抜いたエピソードとか、日記に書けばと思います それはどんな会合、人の集まりでも当たり前の配慮だと思いますよ あなたも顔の見える人の集まりでそんなことは言わないだろうし、そうした場面違いによる内面のゆるみも気づくことだと思います
結局いまは只管打坐しかしてない 仏教はマインドフルネスのルーツだからスレ違いにはならないかな
只管打坐は道元の説いたこと マインドフルネスは原始仏教から 大分違うよ
>>528 >はどんな会合、人の集まりでも当たり前の配慮だと思いますよ
>なたも顔の見える人の集まりでそんなことは言わないだろうし、そうした場面違いによる内面のゆるみも気づくことだと思います
友達とワイ談で笑いあったりしないの?
どの場にも共通するルールなんてないよ
もし、このスレで好意的な人が多ければ受け入れられるよ。
ひきこもり氏だって、親戚のお葬式でリアルにワイ談したり
してないと思うんだが
ネットだから言える 匿名だから言えるってすごく大きなメリットよ
どの人のあつまりも同じはちょっといいすぎかな
只管打坐は涅槃の境地。
>>527 氏のようにベテランがやること。
素人がやっても成長が止まるだけ。とゆうか寝てしまう。
寝不足や体調不良でないなら只管打坐で眠くなるのはやり方が間違ってるから 自ら何もしなくても頭は常にクリアで風通しの良い状態
僕ら日本人には只管打坐のほうがあってるのかもしれないけどね 社会の違いとか色々な意味で あの坐法自体には、必要なプロセスが詰まってるだろうと思うし 坐禅から始める場合、わかってなくても最初から完成形の姿になる そして、坐することで自分で1つずつ掴んでいく訳だよね 口さえ開かなければわかったような顔をしていても良い 日本人として仏教の理解はこれでよし!としたものだと思う で、日本人にはそれ以上は必要ないというのも多分歴史的真実なんだろうな マインドフルネス、ヴィパッサナー瞑想などをやれば坐禅の理解の助けにはなるだろうし それらの経験積んだ人がそこにたどり着くというのも理解できるけど しかし、マインドフルネスといったら超宗教的なものとして受け入れられてるわけだから 坐禅以前、宗教以前のものとして捉えてるよ
坐禅はザブ坐って自然に重心を載せると、丹田に意識が落ちるでしょう それだけで妄想っておさまりますからね 安楽の法門でしたっけ、そんな感じはします 一般にマインドフルネスといった時、まずそこをクリアしなきゃならない けど出来るようになればどこでも出来る
実践! ! 瞑想の学校
https://www.amazon.co.jp/dp/4865640894 ネルケ氏が只管打坐について解説してる。
眠気の問題も書いてある。
坐禅は結跏趺坐が出来れば一番安定して長くできるけど無理なら椅子でも良いし病気なら横になった状態でも構わない その人の身体の機能に応じて姿勢は変えても良い
そうかな、さっき書いたことの続きで言えば 体が不自由だったり、寝たきりならば、まずどうやって丹田の意識を作り、維持できるか それだけでも全然違う訳で、例として禅の優位性を説くのには不適切じゃないかな
マインドフルネスは禅からも影響を受けてるでしょう。 カバットジンが道元の言葉を引用してたり、なによりティクナットハンは禅の人だったり。 はっきりと線引きするものではなく、重なりあってる部分は多い。
マインドフルネスはどんな宗教の人でも関係なく受け入れられるものだと言われたりするけど、禅も同じことを言われていた。
>>540 例えばクリスチャンがマインドフルネスを学んで祈りの質が変わる
なんていうことも期待できる、実際に起きていておかしくないわけですね
クリスチャンに坐禅組んでみなよ、なんて言えます?
また、悟りとか涅槃とか心身脱落とか目指してない、日常のメンタルトラブルを
解消したいだけの人ならマインドフルネスの方がとっつきやすいでしょう
線引きがあるとすればそういうものでしょう
>>542 実際にクリスチャンでも禅やってる人いますよ
>>541 でも、それが一般的にはマインドフルネスに取って代わられた
敷居が低いからですよね
禅未満、仏教未満、宗教未満のものをマインドフルネスと呼ぶことが出来る気軽さがあるからです
何が真実かという点に於いては線引きは本質的な意味は持たない
けれど、そういう話ではなく、他宗教に受け入れられるか?という話では重要になる
マインドフルネスは仏教なんだぞ、悟りを目指せ、心身脱落だ、
そんな事言ってたら取り入れられないでしょう
仮に将来、天国とは悟りのことだった、黙示録とは悟る前にある魔境だった
というような読み替えがなされるような時がくるのだとしても
今はその線引きには意味がある
>>543 居るでしょうね
病気や身体に障害がある人でも出来るということが言いたいんだけどね まあ丹田に意識を作って維持しようとするのは然程重要な事じゃない 万事を休息してただ坐るってこと 万事を休息してが重要なので痔の人は立っても良し 目が不自由な人は目を開けられなくても良い もちろん目が開けられる人は必ず開ける
>>537 只管打坐 = ねんね or おっぱい。
赤ちゃんかwww
>>545 長い時間坐って習熟している人にとっては重要でなくても初めは重要ですよ
>>546 まてよ。
老子の思想としては赤ちゃんみたいに生きるのは理想だな。そういえば。。。
禅では例えば子供が死んだとか 殺したいぐらい憎しみがあるとか 性欲が抑えきれないとか そういう状況にはどう対処するのがセオリーなんですか? というよりそういうものが片付いてから座るって感じなのかな?
>>549 悲しいときは悲しんだらいい
性欲が湧いたら湧いたままにしたらいい
ただしそれらに対して何もしない、考えない
何もしないで流れに任せる
どうせどんな感情も感覚もやがて消えていく
>>552 同じだと思う、自分は悟ってないから断言はできないけど
同じ山を別ルートで登るようなものじゃないかな、でも行き着く先は結局同じっていう
マインドフルネスも禅も色々あるから同じだとも言えるし違うとも言えてしまうということでは、と思った みんなマインドフルネスという言葉で同じものを語ってるつもりになってるけど、それぞれ違うのでは
只管打坐のときって気づきはすでに育ってるんじゃないでしょうか 禅寺の構造、生活様式そのものが気づきを育て自我の膨張を抑えるものだという気がする だから改めてメソッドについては言わない キリスト教の黙想生活も同様だと思います 一切の沈黙を守る修道生活をナレーション、照明なしで3時間映すだけの 「大いなる沈黙へ」という映画を観ましたが、これがなかなかすごい映画で、観ている間中、自然にマインドフルになった 画面の中のグランド・シャルトルーズ修道院が気づきで満たされてるのを感じました チャンスがあったら観てほしいです
そう、レベルが上ってくれば同じ 入り口としては違う マインドフルネスをうたっている本もそれぞれ違う 話が錯綜しないために線引というものは有効 なるべく狭いほうが紛らわしさがない 同根と言えるものだから話題としてNGにはしないほうが良い 「違う」と言う人がいたら、入り口のことだなと思えばいい そして、節度を守って、押し付けないようにしたほうがいい
読みかえと言えば、永井均がイスラムの中田考とのやりとりの後に、仏教のサティと一神教の神の顕現する場は一致するみたいなこと書いてたの興味深かった
要するにマインドフルネスは慈悲や自己放棄と同じで、世界共通の真理(ダンマ)で、当然それを取り組んだ宗教は 多いでしょう テーラワーダではそのメソッドがシステマティックに発達しているので我々でも利用しやすい しかし他宗教でも深いところでは同じことを覚知していると思います 利用する人間の限界から解釈の違いが生じ宗教間の争いが起こったりするが ダライ・ラマ14世も他宗教に敬意を払うことが必要と強調するのも同じでしょう
マインドフルネスも○○も一緒みたいな言い方はそりゃ何でもそう言えるでしょ 全ては無常でただ移り変わる全体に境界線を社会や自己が作ってるものなんだから ○○と△△の同じ要素なんていくらでも見つかる でも掲示板のスレはあくまで境界線を引いてその中のことを語るわけだから、 ここはマインドフルネスとせいぜいそれに直接関係のあることを語る場所で、 あまりなんでもかんでも○○もマインドフルネスと同じみたいな言い方で語ると無限にキリがない たまに脱線するのは仕方ないけど脱線してるかどうか各々が気づいていかないと
しかし曹洞禅の藤田一照もタイ上座部のプラユキ・ナラテボーもマインドフルネスと銘打ってワークショップを開くだけの幅がマインドフルネスにはすでにある。
【猛暑、台風、大地震】 ボランティアもチャリティーも無駄、すべきことは、異常気象の真因を正すこと
http://2chb.net/r/liveplus/1536373882/l50 千羽鶴折るのをやめろ! 偽善は自己満足でしかない! 受験と、五輪と、改憲をやめろ! 競争やめろ!
藤田さんもプラユキさんもヴィパッサナーの実践されて指導もされてる方なんだからそれは当然でしょう ヴィパッサナー(仏教的マインドフルネス)はマインドフルネスと直接関係あるし同じ意味で語られてる部分もあるのですから
そんなややこしくないよ 掲示板のスレッドとして、ライト層や一般的な受け取られ方、入り口段階での違い、など といった切り分けの話と 禅と得られるものが同じなんだ、という位相の違う話が錯綜してるだけ 本質的に違うものだなんて誰も主張していないと思います > 定義 さしあたっての定義は マインドフルネスは超宗教的な心のトラブルの解決手法、セルフヘルプ、ストレス軽減法でしょう
一般的に言われてるように「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」でいいんじゃない もう一面として 宗教色を排したり分かり易くすることにより大衆やキリスト教徒も取り込んで商業化に成功したとも言える
マインドフルネス ・超宗教的 ・心のトラブルの解決手法、セルフヘルプ、ストレス低減法 ヴィパッサナー ・宗教的 ・悟り、解脱が目的 実際の手法はどちらも「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」 ってとこかな?
マインドフルネス ●超宗教的 ●心のトラブルの解決手法、セルフヘルプ、ストレス低減法 ●手法は気づき ヴィパッサナー ●宗教的 ●悟り、解脱が目的 ●手法は気づき 只管打坐 ●宗教的? ●目的は無い。ただ坐る。 ●手法も無い。ただ坐る。
瞬間、囚われのなさ、は度合いを言い出したらきりがないし 最初から意識しなくても次第に身に付いてくるものだと思うんだ 慈悲の瞑想があるから評価は入ってるよね だから「今ある状態に気づきそれをただ観ること」かな より具体的には思考、情動とはなれて観察すること だと思うけど
マインドフルネス ●超宗教的 ●心のトラブルの解決、セルフヘルプ、ストレス低減 ●手法は気づき ●商業的に成功 ヴィパッサナー ●仏教的 ●悟り、解脱が目的 ●手法は気づき 只管打坐 ●禅的? ●目的は無い。ただ坐る。 ●手法も無い。ただ坐る。 公案 ●禅的 ●悟りが目的 ●公案について思考する手法
こう見ると、只管打坐、公案などの禅はスレチになるね。
>>569 マインドフルネスは気付きと観察ね
ヴィパッサナーだと精進かなんか加わるんじゃなかったかな
マインドフルネスはジョン・カバットジンが最初の提唱者で カバットジンのやり方が最も広まっているから カバットジンの定義にもとづいたほうがいいね 困るのが仏教の指導者。 それぞれの解釈でマインドフルネスを使っている ティクナットハンも使っている しかしマインドフルネスといえばジョン・カバットジン式として、 カバットジン以外は亜流か無視したほうがいいと思う そうればスッキリする
マインドフルネスもヨガもそれによって悟る事は不可能じゃないにせよ9割方の人達はそう言った意図を持たずに実践している。みたいな認識。
>>508 そこはレーズントレーニングするところだろ
>>563 藤田一照さんはヴィパッサナーやってないんじゃなかったか。
もちろん体験的にどんなものか、というレベルではやったことはあるだろうけど。慈悲の瞑想にも否定的だし。
指導してるのも野口体操やアレクサンダーテクニーク等のボディワークの経験を活かした禅みたいだよ。
マインドフルネス ●ジョン・カバットジンが提唱 ●超宗教的 ●心のトラブルの解決、セルフヘルプ、ストレス低減 ●手法は気づき、観察 ●商業的に成功 亜流マインドフルネス ●ティクナットハン、プラユキ・ナラテボーなど ●やや仏教的 ●心のトラブルの解決、セルフヘルプ、ストレス低減 ●手法は気づき、観察、慈悲 ●商業的に成功? ヴィパッサナー ●ブッダが提唱 ●仏教的 ●悟り、解脱が目的 ●手法は気づき、精進、禅定、観察、慈悲 ●非商業的
カバットジンは大学時代に鈴木大拙によって禅を知り、後に鈴木俊隆の禅マインド ビギナーズ・マインドを読んだことによって本格的に精神世界に目覚めていったとマインドフルネスストレス低減法に書いてあったような記憶
馬鹿馬鹿しい 本質的に同じことをやってるのに、どうしてそんな表層的で瑣末な事にこだわる 名称とか方法なんかどうでもいいと、真剣に座ればわかることでしょうに 言葉遊びがしたいならいくら座っても無駄だから瞑想なんかやめなさい
>>577 ティク・ナット・ハンの「禅への鍵」を翻訳してるから、
実践はともかく接点は理解してるんじゃないの
只管打坐は何もしないというけれど、マインドフルネスストレス低減法にも瞑想は何もしないことだと書かれている
>>526 逆になんですけど本に書いてあったサマタ瞑想をやってたら思考ってのを中々浮かべれなくなったのでヴィパッサナーってのに進めない感じです。
まあオリジナル瞑想を頑張るつもりですけど(実を言うとサマタ瞑想も本の内容がいまいち理解できないままやったのでそっちすらもオリジナルです)
>>527 最初は時間とか決めないでやってたんですけどそうしたらご飯とかお風呂の時間がずれるのが気持ち悪かったと言うか……
それでタイマーを使ってやってましたね。実際のお寺だと時間になったら鐘を鳴らしてくれる的な話は聞いた事ありますけどそう言う人が居ないんでね……
段々慣れてきてタイマー無しでも「そろそろかな?」ってのが分かるようになってきて誤差も減ってきた感じです
>>528 瞑想に限らずありとあらゆる場合においてこの流派を学んで別の流派を学ぶとなると前の流派の癖が邪魔になる、みたいな事ってありますよね……まあ私はその癖も活かしていきたいとか考えてます
方角なんか分かんなくてがむしゃらに走っててもどこかには辿り着くだろ的な……ケセラセラですね。
なんか不快に思われたならすいませんでした。
>>531 うーん、確かにそうとも言えるけど少なくとも板とかスレに適した話をすべきだったと言うか……反省してます。猥談したい時はbbspinkにでも書き込みます。おっぱいはさておき女子高生で抜いたってのは完全にスレチですからね。
>>536 瞑想を始める時、最初に買った本です。確か眠気についてって偉い人が座禅中に眠くなる事を克服する為に頭の上に座布団を乗せて座禅した。みたいな話だけじゃなかったですか?
まあ、初心者には凄いありがたい1冊ですよね。
前に片岡鶴太郎さんが瞑想状態は覚醒と眠気の中間みたいな話をしてましたね。
>>549 セオリーかどうかは分からないけどそう言った観念も認識して観察するのが良いと思ってます。
>>580 議論するためには言葉の定義と、共通理解が必要
議論しないで瞑想だけする人には関係ない
俺もレッテル貼りするのはマインドフルネス的ではないのではと思う
メソッドが与えられていて、それをやっていれば瞑想になってると思う人って たまにいるからな スレチで悪いけど超次元導師みたいな習う気のない我流の人は坐禅一本でいいと思うよ そのうち日曜坐禅会なんかに行けばいい
>>580 話題が本質論じゃないからでしょ
>>586 話が錯綜しないための線引をしようという話でしょ
カバットジンも禅から入っているが、効果のあるメソッドを普及するために
名前をマインドフルネスとして禅とは銘打たなかった
話が本質論でないのは、ストレス低減法などとして接する人 宗教とは切り離して捉える人がやってくることへの配慮でしょう そうでないなら、禅スレに統合すればいいという話になる 「俺はわかってるんだ!本質は同じだ!それなのにお前らは言葉遊びをするな!」 あなた瞑想なさってます?本当に
全部同じなら仏教一本にしてくれよ。ややこしいから。
>>577 マインドフルネスに関した著書もあるしマインドフルネスについて結構語ってるよ
そもそもそのボディワークにマインドフルネス取り入れてるでしょ
マインドフルネスって単語を使ってるかどうかは知らないけど
それから慈悲の瞑想はヴィパッサナーと一緒に行われることが多いけどヴィパッサナー(観瞑想)とはまた違うしね
結局定義にすぎないから議論するほどのことじゃないと思うけど、 定義についてそれぞれが自らの記憶と経験と立場から主張してるだけと気づいてればいいんじゃない?
本質的には「気づき」「観察」で同じだけど、バックグラウンドとか、目指すものがだいぶ違うよね。 ただ亜流の人達は仏教なのかマインドフルネスなのか、どっちかにして欲しいね。ややこしいからw たぶんブームに乗っかりたい出版社とかの影響もあると思うけど。
>>591 藤田一照さんがマインドフルネスと銘打ってワークショップを開いてることは知ってるけど、ヴィパッサナーをやってはいないでしょ
ティクナットハンやプラユキさんが亜流呼ばわりされるのは違和感がある
>>595 ん?そうなの
そこまで詳しくは知らないけど藤田さんはマインドフルネス=ヴィパッサナー的な意味でヴィパッサナーもやってると思ったけど
基本禅僧(大乗仏教)の立場を崩してないから公にヴィパッサナー(初期仏教の瞑想)的なことを言うのは控えめなんじゃない?
小池龍之介が初期仏教やり始めて浄土真宗やめたように初期仏教側に入れ込みすぎると禅僧やめないといけなくなるかもしれないし
日本だと初期仏教やるってことは大乗否定するってことにつながりかねないしね
そういう立場的なもんだと思うけどね
>>596 プラユキさんは上座部だし伝統的な仏教だよね
伝えやすいようにマインドフルネスって言ってるだけでヴィパッサナーやってるし
プラユキさんが亜流ならマハーシやパオだって亜流って解釈になる気はする
マハーシやパオだって初期経典を解釈してるって意味で釈迦在世の仏教徒は違うわけだし
>>597 小池龍之介とはだいぶ違うと思う
山下良道と一緒に仏教3.0とか言ってたから誤解されがちなのかも知れないけど
アップデートする仏教の後書きでも坐禅について書いてるし
一環して禅の人でしょう
『現代坐禅講義』は名著だと思う
藤田一照さんは大乗否定どころか明らかに大乗側の人だよ
>>599 一貫して禅の人ってのはそうだと思うよ
初期仏教批判っぽい意見も言ってるしね
>>600 うんだから大乗批判みたいな側にはまわらないってこと
仏教、禅のサブカテゴリとしてのマインドフルネススレでもあり ストレス低減法のマインドフルネススレでもある
ティクナットハン師も臨済宗だけど瞑想は清浄道論から取ってるそう ベトナムじゃそういう文化背景なんだね ちなみにマインドフルネスという言葉を使い始めたのはカバットジンより先 ヴィパッサナー瞑想自体はチベット仏教にだってある マインドフルネスという言葉は文脈によって心理学的ストレス低減法だったり、 単に正念の訳語だったりいろいろあるけど、このスレは単にカバットジンからの 流れにとどまらず仏教的な文脈で語ろうってスレじゃなかったっけ? 禅その他との差異を明確にするのは絶対必要だけど、共通点を語るのも有意義だと思う なにしろ、同じ上座部でも、パオ、アーチャンチャー、マハーシ、ゴエンカでもこんなに違うの ってくらい違う
仏教修行者であるこてを隠して宗教色を消してマインドフルネスとして広めた事にスマちゃんは怒り爆発してる
仏教者が怒り爆発してどうする?w 宗教色を消したのは より多くの人が入りやすく より多くの人が救われてほしいからだろ
マインドフルネスはジョン・カバットジンが作ったものだからね で、カバットジンはテーラワーダや禅を下地にしているとはいえ 宗教要素を全部カットしているね マインドフルネスはストレス低減法なので悟りは関係ない しかし仏教のサティとか禅をやっている人は戒律だとか悟りだとかを言い出す傾向がある だから話しがかみ合わなくなりがちだし不毛な論争にもなっている 結局、マインドフルネスが流行っていることをいいことに仏教がマインドフルネスの言葉を取り入れて 著書などで言い出したために混乱が生じ始めた マインドフルネスという言葉にあるやり方はジョン・カバットジンが発案したもの それ以外はタイ仏教であろうとミヤンマー仏教であろうとベトナム仏教であろうと 全部亜流であり別物としたほうがいいよ 下地や前提が異なる上でマインドフルネスとか言っても混乱が出てくるだけ
ヨガをするOLは悟りを目指しているか……答えはNOだ!ではヨガをする成瀬雅春は悟りを目指していないのか?それもおそらくはNOだ! マインドフルネスをするGoogleの社員は悟りを目指しているのか……答えはNOだ!ではマインドフルネスをするティクナットハンは悟りを目指していないのか?それもおそらくはNOだ! そう言う事だと思う。これなら分かりやすいですかね? 別に指導者が悟っている必要はないと思ってて、と言うか「悟りました〜」なんて人は麻原並におかしい訳で……要は先達みたいな人に「こうすると良いよー」って教えて貰えれば良い訳で……そう言うのを求めてこのスレに来た面もある。
> ヨガをするOLは悟りを目指しているか……答えはNOだ! 人による、オウムに入ったOL達は解脱を目指した > マインドフルネスをするGoogleの社員は悟りを目指しているのか……答えはNOだ! これも間違い ハッカー文化あがりのエンジニアは悟りとかそういう概念にチンポギンギン、チクビビンビンだよ > …要は先達みたいな人に「こうすると良いよー」って教えて貰えれば良い訳で お前さんは教わる気はない、かまってほしいだけだ 形があるから崩せるのであって、形を学ばない我流はただのデタラメだ デタラメ瞑想で通せば一生を棒に振るだろう 実践のないデタラメ我流の子供のダラダラした能書きなんか誰も興味を持たなくなる そのままだとかまってもらえなくなるからな? 何も掴んでないうちから我流をやろうとせず、学んで実践すべきだぞ
結局マインドフルネスの話しを深めていくなら仏教に触れざるを得ないのさ マインドフルネスの副作用とか弊害の話しにも禅が役立つしね
マインドフルネスという言葉がひとつのものを指してるわけではないのと同じく、悟りという言葉も色んな捉え方があって、全員がひとつの状態を指して言っているわけではないという問題もある テーラワーダの指導者同士でも、あれが悟りだいや違うこれこそが悟りだみたいな論争があったりするわけでしょ カバットジンは悟りという言葉は使わないけど、全体性と内的な結び付きという言い方で縁起を表現していて、瞑想による視野の変化、モードの転換が起きたあとも、 修行は一生続いていくものだと書いてるから、単純にマインドフルネスは悟りを目指していないということばで理解してしまうと、違ってしまうのではと思う
精神的に問題がある人、助けが必要な人を普通に戻すのがマインドフルネス。 普通の人が、どんどんレベルを上げて悟りまで達するのがヴィパッサナー。
ストレス低減法という言葉からの単純な誤解が
>>613 みたいな理解だと思うよ
>>614 ヴィパッサナーはやる前に三帰依、五戒、解脱への請願があるけど、マインドフルネスには無い。
>>615 会話になってないけど、普通の人は気づきを持って日常を過ごしていないでしょ
気づき=サティを生きていれば、それはマインドフルネスと呼ばれてよいと俺は思う だから禅の藤田一照さんもマインドフルネスという枠内での活動が多いのだろうし ちなみに藤田一照さんは確かアメリカに渡ったこと、ティクナットハンとの出会いでマインドフルネスを知ったのではなかったか それまでの日本の禅では念=サティが形骸化してしまっていて、元の意味が薄れて型だけになってしまっていたというような発言があったような
ひとつもしかしたら…と感じていることは、マインドフルネスについて批判したがる人は実は マインドフルネスストレス低減法等を読み込んだことがなくて、なんとなくのイメージやスマナサーラ長老の批判の言葉からそのまま影響を受けてるだけではないのかということ
サティが形骸化したのではなく そもそもヴィパッサナのような意図的な事を禅ではやらない
だから禅では「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け」をやっちゃいけない
禅は食事からトイレの使い方から全部決まりがあるわけでしょ それはつまり今この瞬間に位置的に意識を向けているわけだ あと不忘念という言葉もありますね でもそれらが日本の禅では時間の経過と共にいつしか形骸化してしまって型だけになってしまったと
世界のエリートがやっている最高の休息法って本だとマインドフルネスは脳の休息法として紹介されてます。マインドフルネスの起源は原始仏教にあると言われているが宗教性は排除されむしろ実用面に比重をおいているとも。 まさにその通りでだからこそIT企業なんかでマインドフルネスが導入されてるんですよね。 別に経営者が「社員の皆、頑張って悟りを目指してくれ!」的な意図をもって導入している訳じゃないでしょう。 流石に原始仏教をベースにしているだけあって普通の瞑想法と重なる部分も多いしそのまま採用されてるものもありますけど……。 ヨガに関しても、ヨガをやってるOLなんかが悟りを目指しているかって言うと99%は違うと思ってて美容とか健康の為じゃないかな?と思うんですよね。
意識しなくても六根は素直でしょ 本来心というものは目の前の様子と寸分 違わないんですよ 心と現実にまったくズレがない こっちに自分がいて向こうに山があったりテレビがあったり何かが起きたりするような気がするけど本当は環境と一如としての動きがただあるだけ でもね観察してたら一体感としての動きにはならない ズレまくる 自分を観察してるのは頭で概念化して作ったものを追いかけてるだけ マインドフルネスはお気軽といっても自我を強固にしていく人もいるから注意が必要だよ
心ここにあらずで考えごとをしてるのが普通になってしまっているから、それをそぎおとすために修行があるのでしょう それは禅でもテーラワーダでもマインドフルネスでも同じでは
概念化したものを追いかけてるというのが誤解だと思いますよ
環境と一如としての動きというのが縁起ですよね それをカバットジンは全体性と内的な結び付きと言っている
>>589 自分が十何年も迷ったから言ってるわけですよ
やれマインドフルネスがいい、ヴィパサッナーがいい、禅がいい、ゴエンカか、マハシか、パオかティエンか、呼吸か、ラベリングか、歩行か、手動か
定義、定義ってやってるうちは山の麓で色々ルートを考えるだけで結局登らないんですな
ちょっと登っても、いやまて本当にこっちでいいのかとすぐ引き返してくる
ジョン・ガバットジンのマインドフルネスでも禅でもヴィパサッナーでもやり続ければ結局一本道になるわけですよ、亜流も本流もない
どんなルートを選ぶか、山頂まで登るか、途中まででいいのか、そういう話をろくに登りもせんと延々とやってるんです、あなたたちは
だったら自分はどんなルートから入ってどんな景色が見えているのか話した方がよほどタメになる
下手に言葉の世界にはまり込んで遭難してる瞑想難民が瞑想会や座禅会になんと多いことか
戒も八正道も杖みたいなもん、登ってるうちに必要だと思ったら使ったらよろしい
迷ってる人がいたら、結局行き先は同じだから自分が信じた道を安心していきなさいと後押ししたいですな
明らかに変な方向に逸れてるときは指摘しますがね
まあ結局座りなさいと言いたかったわけです
その上で具体的な問題、疑問があったら力になりましょう
言いたいのはそれだけです
>>618 その本を読み込んだことのある君が、説明してくれたらいいじゃないか。
マインドフルネスは本当はこういうものなんだよ、と。
>>629 なんでみんな瞑想してない、実践していないと決め付けるのか。
結局一本道って、思考停止でしょ。目的も手法も背景も適正も全部違う。共通点は確かにあるにしても。
八正道が杖ってwww八正道は仏教の真髄ですよwww
>>630 いや、読んだこともなしに思い込みだけで批判するならそれはマインドフルネス的とか仏教的以前に人としてどうなのか
>>632 勘違いしてるかもしれない人に、間違いを正してあげる努力をケチるのは人としてどうなのか。
>>634 じゃあ書いてみなよ。
みんなどういう思い込みをしているのか。その本にはどう書いてあるのか。
>>635 俺のIDを追いかけてください
マインドフルネスのすべてを説明しろなんて言われても困ります
>>636 >単純にマインドフルネスは悟りを目指していないということばで理解してしまうと、違ってしまうのではと思う
これかな?
悟ろうという誓願を起こさなくても、何となくマインドフルネスでいたら、気がつくと悟ってましたって話がありうるんですか?
>>637 悟りというは、どういう状態を指して言っていますか
>>638 テーラワーダではまず預流果に悟るといわれてます。
有身見、疑、戒禁取見が無くなるそうです。
人間界、天界にしか転生しなくなり、あと7回までしか生まれないそうです。
一応前スレまでのテンプレはっとくね。なぜか今スレ立てた人が省いちゃったけど、こういう趣向
いまさらなんでもめてるのか
1神も仏も名無しさん2018/06/25(月) 23:58:26.63ID:RNqoav+I
>>111 >>114
>>115 >>733
マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
つまりマインドフルネスは「正念」の訳語 カバットジンのやっているのは正念によるストレス低減プログラム ティク・ナット・ハンは著作やリトリートで正念を持ち続けましょうと繰り返している 禅は正念を生活の一挙手一投足に保つやり方 テーラワーダでは正念を保つための瞑想法がシステマティックに発達している なんか議論がマインドフルネス(正念)とマインドフルネスストレス低減法をごっちゃにしてる人がいる カバットジンが主流で他は亜流とか、無茶なこといってるなぁ
で、ここは宗教板だから、あえて宗教とからめてマインドフルネスを語ろうってところでしょ
>>640 参照
宗教をからめないマインドフルネス板は心理学とかメンヘラ板にあったよ
もう落ちたと思うけど
マインドフルネスだと、肉体は全体性、外界や地球や宇宙に属しているもので、痛みは想像の産物、これをしなくちゃいけないという自己での縛りへの気づきという言い方になるかと思いますが、 そこへ至ったから終わりだというのではなく、瞑想による修行というのは、一生かけて続けていくものだと言っています 生まれ変わりについてはおそらく文化的に受け入れられないので省かれていますね
単純に
>>626 のいうことでいいんだと思う
やり方さえ間違っていなければ、悟りを意識的に目指さなくてもベクトルはそちらに向かっている
わけだし
自分の解釈では、テーラワーダ仏教国って案外歴史的なイデオロギーに縛られてる
触れてみてびっくりするくらい。解脱しなきゃ意味ないくらいの極端な苦と解脱の二元論的
な論法が欧米ではなじまないと見て、ジャック・コーンフィールドが
あえて解脱というゴールを抜いて「今の苦の状態よりよい状態をめざそう」と瞑想センターを
つくった。
それを参考に医療的なプログラムを組んだのがカバットジン
そういう視座の差異はあるとして、マインドフルネスストレス低減法も禅もテーラワーダも
みな心の成長に役立つマインドフルネスを活用してる。それぞれのよさを語ればいいのでは?
時には欠点もだが
痛みは想像の産物? 殴られて痛みを感じるのは痛みを想像したからなの? マインドフルネスでは皆さんその様な理解なのかな
実際の痛み以上のものを想像で作り上げてしまうということ
あと、観ているしている主体とは別のところに痛みは存在する 自分とは切り離した存在として扱えるというか
ためしてガッテンに出てた小太りなおっさんも瞑想中に痛みを感じなくなるとかで顔とかに洗濯バサミをつけられてパチーッン!ってやられてた。芸人かよ。 まあ、脳を騙せば痛みは感じなくなるんじゃないの?というかオキシトシンだったか脳内麻薬にはモルヒネ以上の沈痛効果があるとも言われてるからね。
いや、痛みはある それが自分のすべてではないということ 禅マインドビギナーズマインドの鈴木俊隆の 「私が死ぬとき、死に行く瞬間、私が苦しんだとしてもOKです。それは苦しみのブッダだからです。そこになにも混乱はありません」 と共通する
誰が痛みを自分のすべてなんておもうんだろう こういう頭でっかちのアホに延髄斬りぶちかまして 痛みでのたうち回らせたいw 想像の産物ならすぐに消せるだろ
観ている主体など何処にもない 痛みが別の所にあるなんて事もない 瞑想する事で自分がウルトラ化するというのは正念じゃない
病気を苦にして自殺を考える人というのは痛みが自分のすべてになっているわけでしょう 俺の身内で白血病になって、今は幸い退院できているのがいますが、 やはり治療のあまりにものつらさに、こんなことなら早く死んでしまいたいと何度も繰り返してましたよ
ウルトラ化なんかしてないですよ 感情を観るのも身体を観るのも同じこと 観ている主体はないと言いますが、それなら呼吸を感じている時のその感じている主体のようなものと言い換えてもいいですよ
>>641 共通点は正念。
ただ背景、目的は全部違う。
同じジャガイモでも、ポテトサラダにしたり、グラタンにしたり、フライドポテトにしたりする。
大人用に料理したり、子供用だったり、犬に食わせたり、いろいろある。
スマナサーラを崇拝してる人は師に似て 攻撃性が高くて排他的で嫌みっぽい気がする もう少しスマナソーニしても良いのでは
痛みが痛みでなくなるのはあるよ ようするに刺激でしかなくなる マゾの人も痛いけど痛みじゃなくて快感になるでしょ 痛みをいわゆる痛みとして感じるのは危険とか死を連想させてネガティブな感覚を生じさせてしまうから あれと同じで、心身が自分でないとわかってくると痛みはただの刺激になる もちろん痛みといえば痛みなんだけど苦しみとしての痛みではなくなる うまくすれば快楽にすらできるただの刺激になる
>>648 エンドルフィンの事だろうな。
熱湯風呂に入ると出てくるやつだな
オキシトシンはおっぱい揉んだら出てくるやつだな
産後の授乳期はいつもより出やすくなるらしい
前にレスしたけどエンドルフィンの量が最も多かったのは慈悲の瞑想中の僧侶マチュー・リーカルさんって人でした。オキシトシンも同時に増えるので慈悲の瞑想は本当に最高です。
何でこう頑迷なんでしょうね 瞑想の本質的な話として異論唱えてる人、迷ってる人なんて居ませんよね (コテの超次元導師は除いて) 別に高いところまで行きたくない、という人に高い次元の話を無理強いするのは良くない 少し登って「あ、いけるかも」と思った時に後押ししてやるのは良いでしょうけど そこをちょっとわきまえませんか、という話ですよ 失礼になるといけないから他人に「わきまえる」という言葉は使いづらいでしょう? 察してくださいませんかね
浮かんでは消える思いや感情が実体のない無常なものであるのと同じく 痛み痒み暑さ寒さも実体のない無常なもの
>>648 ヨガの達人だね
この人なら心頭滅却すれば火もまた涼しの境地に至れるのかもしれない
ダウンロード&関連動画>> VIDEO いや、八正道は杖ですよ 真髄かもしれないが、それで正しいかどうか確かめながら受け入れるものでしょう 杖をありがたがるよりも、まず登ろうとしなさい というのは全く同意です しかし、こうしてまた議論が錯綜するのは何故ですか? それぞれ論点をわきまえずに「これが真理だ真髄だ」「私の体験では」と 相手が否定できまい、というものを持ってくるからですよね まず、話の本筋はそういう話ではない 本質論ではない
マインドフルネスはあくまて亜流、傍流でもあり、また本流のサブカテゴリでもある 他宗教者にも使えるものにしたものであり 仏道の入門編でもある これは、言葉遊びではなく、現状、事実ですね 本質から言えば仏教徒から見ればマインドフルネスも仏教なのはわかってるわけです しかし超宗教的な宗教の本質とも見ることが出来る 禅出身のカバットジンもそういうものとして広めた マインドフルネスには幅がある 登る力が付いてきた人、まだ入り口に入れずに居る人、我流でやるんだという人、 クリスチャンだけど祈りの質を深めたいという人も居るだろうし、 色々いる 面倒くせえからみんな只管打坐しとけ!という話にもなりえないし 須くマインドフルネスをやるものは解脱を目指すべし、という話にもなりえない
あと、ただのストレス軽減法として取り組む人、ここがボリューム層でしょう 近所のスーパーの雑誌コーナーにもカラー写真のムックがありました
>>664 マインドフルネスと仏教はやっぱり違うよ。
サティは共通点としても、心構えが違う。目指すものが違う。
マインドフルネスはストレス低減が目的かも知れないけど、仏道修行者はむしろストレスに突っこんでいく。
ストレスに負けずに修行する。頭陀行なんかはいい例。
マインドフルネスは治療、トレーニングとしてやるかも知れないけど、
仏教の場合は修行、自分という存在を道の中に投げ入れる覚悟でやる。
マインドフルネスは下手をすると自我を強化する可能性もある。 「私」を苦しめるストレスよ、無くなれ、という態度だから。 マインドフルネスをツールとして、道具として利用して、 「私」がどんどん生きやすくなれ、という態度だから。
>>667 それは中でも禅から見るとそう見えると思うよ
でもね、マインドフルネスは悩んでいたりストレスを抱えている人には役に立つ
で、それでいいと思う
割り切って
言葉にこだわってはいけませんよ 瞑想している瞬間 実際に起こっていることを考えましょう 観察系の瞑想である限り瞬間 瞬間は同じです ヴィパサナだからといって気合が入ってマウンドフルネスだからいい加減ということはないんです 実施中にかかる心身への負荷もヴィパサナでもゆっくりやる人もいるでしょうし マインドフルネスでも発狂寸前までやってしまう人もいるでしょう マインドフルネスには これをやってはいけない これ以上やってはいけないという決まりはないんですから呼吸の観察をひたすらするかもしれませんし 体 心 感情 思考の全てが移り変わっていることに気づいて 実際に起こっていることは全部観察しよう そういう風に工夫する人も当然いるでしょう 全部その人次第なんです
ただ、ややこしいのはこのマインドフルネスと同じやり方が仏教でも行われているということ しかしマインドフルネスと同じことをしている仏教では悟ることはできないね なのでこの手の仏教とマインドフルネスはやり方は同じになるけれども 問題なのは、その手の仏教であっても戒律を言ったり悟りとか言って上から目線で言っている点だね 藤田一照さんは無心のマインドフルネスとか言っているけれども、 言葉で説明すればこれね これこそが仏教のマインドフルネス が、話しを戻して、マインドフルネスは宗教の要素を落としているので誰でも取りかかれるし 悩み解決やストレス軽減法として役立つと思うよ で、これで充分
そうだね 上座部では悟れない 現代でも決着がついた人が続いてるのは禅系の一部と僅かに浄土真宗くらいだろう
>>669 瞬間瞬間のサティはヴィパッサナーもマインドフルネスも同じでしょう。
しかし心構え、目的が違えば、潜在的な願望、煩悩が変わってくると思います。長期的に見れば。
マインドフルネスでは、ストレス、悩みが減っては行くでしょうが、知らず知らずの内に自我が強化され、
わがままになっていき、結局いつまでたってもストレス、悩みが無くならず、イタチごっこになり、
輪廻の罠にハマっていくような気がします。
>>672 もちろんそういう人もいるし そうでない人もいるということです 観察系の瞑想は観察を的確に行なっている限り自動的に自我が崩れていきます
上手くことが運んで得意になっている自分 自分を特別だと思うようになる自分さえも観察するからです
ですが自我が強化されて自信が出たり明るくなったりすることはとても良いことです そこで瞑想をやめてしまっても本人の人生にやり甲斐や価値が生まれればそれは素晴らしいこと
ほとんどの人間は落ち込んだり自信たっぷりになったり そういう振幅の中で生命を燃やして生きています
本人がそれは虚しい 苦しいと認識しない限りは精一杯生きれば良いと思いますよ
目的が違うというけど、ストレス低減するはストレスを無くそうなんて思いながらやったりはしないよ ただ今の呼吸や体に注意集中するだけ むしろ悟りという目的を持って坐るなら、そちらの方が自我強化になってしまうでしょ
ストレス低減する
じゃなくて
ストレス低減法
>>670 藤田一照さん良いよなあ
>>667 みたいな態度でやるマインドフルネスというのは、誰が推し進めてるものなんだろうか
俺が知ってるマインドフルネスとは違うから知りたい
仏道はストレスに突っ込むというけど、一照さんはガンバリズムでは悟れないという方向性だね その辺りで、悟る以前のプロセスとしてはガンバリズムも必要ではないかという魚川氏とぶつかったみたいだけど
ID:VBIHcRfz ↑朝から晩まで張りついて24レスもしてるコイツはなんなの?w
>>672 そんな固定化した見方はどうかと
マインドフルネスに取り組んでる人だって真摯な菩提心に突き動かされている人も多いだろうし、
仏教徒でもインタビューだの受けたり本書きまくってるうちに自我肥大起こしたり、瞑想の境地ばかり気にしたりしてるものや
増上慢に陥ってる人も山ほどいるんじゃないの
それから自我の強化についてですが 私は一旦自我を強化すべきだと思う きちんとあれは嫌いこれは好き 嫌なものは嫌 欲しいものは欲しい 異性に告白して恋愛でもして自分の面倒は自分で見られるように独立して 戦うべき時は戦ってじぶんという
自分という自我を作らなければいけない まあ一部の生まれながらにして特別な人は例外でしょうけどね
>>679 仏教徒で増上慢に陥いる者がいたとしても、悟りという目標にきちんと向かっている人は、最終的には自我が落ちる。
白隠禅師がそう。
マインドフルネスでは自我が大きくなったり、小さくなったりするかも知れないが、
最終的に無我になることは無い。
ちなみに悟りに向かう気持ちは欲望とか自我強化とは違う。
精進、不痴の善行為。
マインドフルネスは悟りが目的ではなく社会的地位を高めたいビジネスで成功したいなどへの執着から取り組む人が多いんじゃないかな
なんか自分の思い込みの中のマインドフルネスについて語ってるようにしか見えないんだよなあ
マインドフルネスは初めて来た人に目的を忘れろと言うんだよ 悟りを目的に〜とか思うのは、それは執着だからマインドフルネスでは推奨されない
マインドフルネスについての思い込みと思いつきを語ってるだけだよな 浮かんでは消える思いを真実であるかのように書き込んでるだけ 本当に禅をやっているんだろうか
前スレのテンプレにあるように情報交換出来る有意義なスレを期待してたのに……。
まあマインドフルネス関連の本見るとどれも大体同じ方法(5種類前後)しか紹介してないんですよね。慈悲の瞑想(やさしさのメッタ)は不動のセンターですけどね。後はボディスキャンとかモンキーマインド、ムーヴメント瞑想辺りですかね?
だからぶっちゃけマインドフルネスをこれから始めるよって人は良い本を2、3冊買えば十分だとも思ってて、むしろネットでそれらの方法とかを調べればOKな気もするんですよね。
テンプレは
>>640 が貼ってくれてますけど少なくともこのスレではWikipediaにもある定義を採用するってのが答えみたいです。
スレをマインドフルで見てるとマインドフルネスやヴィパッサナーのいい実践 いろいろな人が自分の視点(主観)であれこれ言ってるだけのことだし
会話は相手が何を考え、何を目的にして 何を大切にしてるかがわかると 自分も相手が大事にしてるものを大切に扱って会話することで その考え方での理想や結論がでたりしてとても楽しいよ 私にとっては他人と話すことは楽しむことが重要だな・・・
>>672 >マインドフルネスでは、ストレス、悩みが減っては行くでしょうが、知らず知らずの内に自我が強化され、
>わがままになっていき、結局いつまでたってもストレス、悩みが無くならず、イタチごっこになり、
>輪廻の罠にハマっていくような気がします。
マインドフルネスって「正念」の訳語なわけですよ
正念を保つと知らず知らずのうちに自我が強化されるんでしょうか
そうならないためにどこでもメッター、慈悲の瞑想(ラビングカインドネス)を指導しているんだと思いますが
マインドフルネス、ヴィパッサナー等の上座部、禅では実践上どのような違いがあるので結果がこのように違うと思われるが実際どうなの?みたいな切り口だったら有益な話になりそうなんだけどねぇ…
マインドフルネスだと魔境に入るぞ そこから出られないぞ みたいな事を言ってる人が時々居るけど 実際どうなの?
別にパチンコでも酒でも恋愛でも何でも魔境に入るよ つまりどんなことでもそれに余計な価値観を見出だしたり執着すればへんなハマり方して不自由になるってだけのこと 常に執着しないように謙虚に自分の心身を見張っとけば平気 仏法でも悟りでも執着すればそれはただの魔境
>>692 大きな違いの一つが指導者 師の存在です 解ってしまえば大きな区切りまで自分であれこれ試しながら進めるとは思うんですが どうしても色々引っかかってしまうので指導者がいる方がベターです
マインドフルネスは門戸は広いですが相応しい指導者に出会えるのが難しいのではと思います そう思うので私なんかは自分の体験などを通してヒントになればと思って覗いていますよ
>>691 マインドフルネスは気づき、サティの事でしょう。
正念はサンマーサティ、正しい気づきです。
「正しい」とは、解脱の為になるという意味で「正しい」です。
解脱の為にならない念は邪念らしいです。
泥棒が盗みをするときも気づきを働かせています。
欲のためのサティもありうるということです。
>>696 ごめんなさい。
間違えたようです。
その辺まだ不勉強です。
撤回します。
>>694 そういうものだとして、どんな風に扱うの?
修行僧などでも修行が進むに応じて何段階かの魔境があると聞くので
違うもののことを想定してるのかなと思ったけど
>>682 マインドフルネスでは
> 最終的に無我になることは無い。
そこまで断言できる理由は何かあるの?
>>698 修行僧だとある執着などがなくなることである境地が現われる
執着が無くなったなら無くなったという境地が現われる
するとその境地に達した自分という執着を出してしまう場合がある、それが魔境
ようするにその境地に達した自分というふうに自分を実体視するわけ
あらゆるものは無常であり実体はないって修行してたのに実体はないってわかった自分を実体視しちゃったという魔境
境地もそうだし修行が進むにつれていろいろな智慧が出たりするけど、それが出た自分というふうに自分を実体視するとそういう魔境になる
マインドフルネスもそういうふうに何かできた、こういう段階になった、悩みが消えた、そういう自分を実体視すると魔境になるだけでしょ
別に仏教、マインドフルネス関係なく、何かを実体視すればそれが執着を生み不自由になるというだけの話
マインドフルネスはこういうもんだとかこうなるとか、それを偉そうに言う人は、わかった自分という魔境に入ってる人が多い
でも多かれ少なかれそういう慢心や執着は起こるものだから、起きたら気づくように、なるべく起きないようにしてれば平気
>>700 無いということですね
>>701 本当にそうなの?想像で言ってない?
>>702 想像ってどういう意味?
確実なことが知りたいなら自分で文献調べるなり実践するなりしたらいいよ
どのみち他人が言うことなんて何言っても信じられないでしょ
みんな自分が知らないことは知らないし自分に信じられることを信じてるだけなんだから
>>702 あるけど君に教えるのは危険だから教えない
>>694 に沿った表現すると
マインドフルネスでそういった執着、あやまった価値観に陥らないためには
(そこに評価が加わってる気もしますがどうなのでしょう?)
常に自分をマインドフルに見張っているとします
すると感覚が研ぎ澄まされていきます
研ぎ澄まされてくるた強迫観念や異常心理に陥ったり、幻覚幻聴などが現れてくるのだといいます
それが魔境と呼ばれるものです
視力を鍛えたら見えない床の汚れが気になったり
二階に上がって家の庭を見たら、隣の庭より汚れていた事に気づいたり
そういった話かと思うのですが
カバットジン自身は禅の知識もあり魔境についても当然知っていることと思いますが、
どのような対処法を用意してますか?
>>703-704 それは思い込みだよ
>>705 思い込み?の意味がわからないけどあなたは思い込みって判断したってだけだからそう判断したってだけでそれでいいと思うよ
魔境でよく言われるのは仏や神が見えたとかいうようなの それもただの執着の話で、仏や神に見えるもの知覚したようだというだけの話でそれらを実体視するのは魔境だってだけの話 別に仏や神だろうと机や椅子だろうと頭の中の想像や幻覚だろうと、あらゆるものが現われて消えていき、それが心身上の知覚に現われただけの話 だからって知覚上のものや知覚した自分を実体とみなすとそれに執着して不自由になるってだけの話 仏教やマインドフルネスが心を直で扱うからそういう幻想めいたものが実体のように感じられる場合があるけど、別に特別なことじゃない 禅宗なら修行者が仏や神を見たって言ったら捉われず流しなさいって言うし マインドフルネス(ヴィパッサナー)ならそういう思いが生じたとだけ気づいていま生じてるものを観察し続けなさいって言われるだけ 魔境と同じように何かに捉われて(執着して)身動きできなくなってる人なんて現実にいっぱいいるし、仏教やマインドフルネスがどうという話でもない
>>704 ID:3714+tlaは知ったかぶりで結構と強いこと言ってしまってるよね
>>696 >>697 だから、根拠なしに言っても多分バレない無我については撤回しなかった
そうでしょ?
>>699 横スレだけれども、マインドフルネスは意図的に行っているから無我になれないのね
これでピンと来なければ、まだ理解できるくらいに観察ができていないよ
マインドフルネスは自我を強めるというか自我の範疇で行っているもの
で、マインドフルネスはサティではないのね
覚知というもの
五感に入る情報に注意して意図的に自分をコントロールすること
瞑想に入る前の準備段階
覚知と念がごちゃ混ぜになっていているのに念といっている
で、マインドフルネスが誕生した
テーラワーダでもこれを行っているところが多い
でもそういうマインドフルネスでも社会生活をうまく過ごすために役に立つよ
だからマインドフルネスはマインドフルネスで独自の立場を取ったほうがいいと思う
>>707 そういうことはあるでしょう
けれど、俺がしたのはそういう質問ではないと再度言ったよね
>>705 で
落ち着いてよく読んで
>>709 そういう話か、理解したよ
けどさ、マインドフルネスでもサティになっていくんじゃないのかな?
強迫観念や異常心理が出たらそう出てるって観察するだけでしょ 強迫観念や異常心理という実体のようにみなすから巻き込まれるだけで そもそもマインドフルネスは巻き込まれないよう観察を続けるものだからその原則を守りさえすればどのような状態が現われようと巻き込まれないはず まあだいたいそう上手くできないから誰しもそれなりに巻き込まれるけど、マインドフルネスやって強迫観念や異常心理が出るような人は 元々そういう素養を作ってしまってるわけだからマインドフルネスやってなくても遅かれ早かれ出るよ もしくはそういう部分がハッキリとではなくても日常的にちびちび出続ける
>>712 うん、ありがとう
達したことがないなら無理に語らないほうが良い
それは危険だ
>>710 魔境って言葉で聞かれたから仏教などで魔境と呼ばれてる状態に関しての話をしただけだよ
それに707はあなたに対して言ってるわけじゃないから
アンカもつけてないでしょ
>>713 あなたは何に達して何の話をしてるの?
俺は魔境って呼ばれてるものは実体視であるって話をして
あなたがそれはどういうことか聞いてきたから答えただけなんだけど
マインドフルネススレなのにこれだけ皆が個々の見解を話したくて勢いがあるということは、皆修行の過程なんだね 自我や無我や悟りの境地にも多様性があって欲しいものだなぁ
マインドフルネスを極めるとオウムの麻原になるんだよ 麻原はサマディに到達して魔境に落ちた 自我の最後の抵抗に飲み込まれた
>>719 彼の魔境は本とか他の解脱者の言うことの受け売りでしょ?
改めて質問します カバットジン自身は禅の知識もあり魔境についても当然知っていることと思います マインドフルネスにおいてどのような対処法を用意してますか?
マインドフルネスでも素養によって悟れる人はいるかもしれないし、サマタやヴィパッサナーいくらしても上手く出来ない人は悟れないだろうし 心身に対して執着が薄い人ならマインドフルネスでも四向四果の最初の段階なら悟れるかもしれないと思うけどね ちなみに麻原がやってたのはマインドフルネスじゃなくてサマタやクンダリニーヨガとかでしょ
>>722 マインドフルネスか自我を強固にする可能性があるのはその通りだが
この記事で行われている瞑想がどのような瞑想か不明
マインドフルネスなのかヴィパッサナーなのか只管打坐なのか
そしてそれらを正しく出来てる人たちなのか
正しい方法で修行したかどうかまで確かめていないのと 本物の仏教やヨガの修行者に同じ傾向があるかどうかはわからないとしているね
>>709 意図的にというけど、カバットジンがやってるのは、目的をもたずに何もしない状態に人を置いて(=瞑想)、視座の転換が自然に起こるようにすることだぞ
無心のマインドフルネスだよ
>>726 いやいや意図的に価値や判断を入れずに行っているわけ
何もしない状態にはなれないの
つまりカバットジンが定義しているマインドフルネスそのものが矛盾を抱えている
でもストレス低減に役立っている
だからマインドフルネスはマインドフルネスでいいわけ
マインドフルネスで無我になれないというのは個我からマインドフルしても個我中心で変わらないという話で マインドフルネスで無我になれるという人はマインドフルでいるとある瞬間に個我という中心が失われてマインドフルでいられるという話でしょう 段階的な話とみればどちらもその段階ではそう表現できるって言えるだけかと そもそも自分が悟るのか、悟りが悟るのかって話と同じだと思うけど 自分が悟ろうとしても無理だけど自分が悟ろうとすることである段階から自分でない悟りが悟り始める
悟るのは自力なのか他力なのかという昔からある議題 自力と他力の定義にもよるけどそもそも自力(個我視点)と他力(全体、無我視点)を分けるから異なる見方が生まれるわけであって
そう、段階的な話だと思うんだよな 意図的に価値判断を入れないというのは初期の段階の話で、只管打坐だって最初から悟れる人なんていないでしょ 自力でなんとかしようとしたあげくに何かのキッカケで他力で動く、みたいなもんと違うのかな
まあ個我から離れることができた人にとっては、その視点から、個我からいくらマインドフルネスしてもその先にいけないっていう言い方になるのはわかるんだよね だから言い方としては、個我からマインドフルネスしてもマインドフルネスできてることにはならないし、どうにかうまく個我から離れていくことで本当のマインドフルネスできるようになってその先まで行ける、って言い方になるかな 個我から離れるためにマインドフルネスするけどできないし、個我から離れたときにできるし、できたときは個我から離れられてるっていうへんな話なんだよね
マインドフルネスの定義で出てくる、意図的に〜という言葉に引っ張られてる面もある気がするがどうか
マインドフルネスは自我を強化するものだという人のマインドフルネスの捉え方は、日常で今に在ろうと意図的に生活するのがマインドフルネスのメインの部分だみたいな感じなのかなと思うんだけどいかがでしょうか
悟りの話とかどうでもいいじゃないですか どっちみち禅も観察系の瞑想も関わって悟りを得る人は数千人に1人 殆どの人に関係ない話です
鈴木俊隆が初心が大事だというのも個我だから問題だというのかな
悟りっていっても最終段階の阿羅漢は世界中でもほとんどいないだろうし、でも最初の段階の預流果ならちょっと修行した程度の人でもいるよ 上座部だと預流果でも一応悟ったと言っていいことになってるし
知らないことを知ってるように話す人は悟ってますか?
知らないことを知ってるように話す人は悟ってなさそうだけど、 その人が本当に知らないのか知ってるのかその人本人以外はわかりようがないことなのだからどっちでもいいことかな
なんか難しい話になってきちゃったね 仏教側にしても心理学側にしてもそこまでいってないだろうに
本当は知ってるんだけどわざと間違えた思い込みをしているかのようにして 何かを貶めるかのような事を言っている悟った人も居るということですね それは嘘にはならないのですか?
「本当は知ってるんだけどわざと間違えた思い込みをしているかのようにして 何かを貶めるかのような事を言っている悟った人も居る」なんて誰か言ってる? 俺に関してはそんな内容のこと言ったつもりはないよ
>>743 ええ、そうですか
それならば、悟ってる方がここに来て悟れるかどうかを話してるわけではない
(と思われる)ということですね
マインドフルネスではサティはないと、無我になることはない、悟ることはない、 と大上段に斬ってみせてくれたわけです ならば、その方たちは悟ってるのかな?という疑問があります
>>744 いや、俺が言いたいのは「誰かが悟ってるかどうかも、誰かが何を知ってるか嘘をついてるかも、本人以外にはわかりようがないんだから、詮索してもしょうがない」ってだけ
仏教である人が悟ってるかどうかも師や長老が相当いろんな質問して試すし、それにちゃんと答えられてようやくその境地だって認められるわけだしね
スレである人が悟ってるかどうか気にしても真相はわからないだけでしょ
わからないことはわからないことで済ますのがマインドフルネスやヴィパッサナーだと思うけど
>>745 疑問はあっても解決しないんじゃないの?
相手が俺は悟ってると言えば信じるの?
悟ってないと言えば納得するの?
何が本当で嘘かなんてわからないでしょ
自分が実践して悟りが何かわかることしかわかることはないと思うけどね
>>746 お手数かけてすみません
アンカー当ててるもの以外はは皆さんに問いたかった
答えはいらないんです
東大理三志望で二十浪以上しているという人が居た 彼女いわく 「あたしは理三目指してるから、理三以外の医者より偉いんだ」 とのこと なお、偏差値20近辺の模様、近年の最低で偏差値9を取っている マイ反面教師の一人
マインドフルネスの気づきも瞑想中の体験によってもたらされるモードチェンジによるもので、日常の中でマインドフルであろうとする行いも、そこへ到達するための補助でしかないだろう 禅僧が修行する日々の中で、様々なルールに則って、生きるすべてが修行になっているのと同じこと マインドフルネスによるストレス低減は、意識的に日々を過ごそうとするからもたらされるものではなく、瞑想によって視座が変わるからもたらされるもの マインドフルネスに批判的な人たちは、そのあたりに誤解があるような気がするがどうか
禅の場合はやる事をやるだけで、そこに観察が入り込む余地はないんです だから「こちら」からの工夫(観察など)が止むと「むこう」から証してくれるという言い方になる
見つけた。 中部経典117、大四十経によると、正念とは、 邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命を捨て、正見、正思惟、正語、正業、正命の五つを得るための気づきを正念という。 邪念については定義されてないけども、おそらく正念以外の念が邪念でしょう。 マインドフルネスにおいて、解脱への道、八正道が説かれ、実践されるのでなければ、 マインドフルネスのサティは邪念ということになる。
邪念は定義されていないと自ら白状しなさっておられる
「おそらく〜でしょう」を根拠に「〜ということになる」は論理がおかしい。 言いたいがために飛躍してる。邪念ですな。
普通は邪は正の否定だから。 正念により邪念は捨てられると説かれている。 こういうの何ていうんだっけ? 対偶だったっけ?
>>752 > 邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命を捨て、正見、正思惟、正語、正業、正命の五つを得るための気づきを正念という。
って書いてあるのに
> マインドフルネスにおいて、解脱への道、八正道が説かれ、実践されるのでなければ、
> マインドフルネスのサティは邪念ということになる。
って言葉をわざわざ変えてるのは何故w
文献が正しいと仮定して、
素直に読んだら、マインドフルネスのサティが邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命を捨てていれば正念になるわけでしょ
経行って歩行瞑想でしょ 禅では観察が入らないというけど、日本の禅がサティを忘れて型だけに形骸化してただけじゃないだろか 藤田一照さんや山下良道さんが初めて海外へ行った時に 気づきが大事だと言われて何のことか分からなかったという話があるじゃない
>>756 前提が君の推測だから背反もも推測としなければならないところを
君は断定してしまった。
>>758 形骸化してるなら悟りが現代まで伝わらなかったでしょう
もちろん山下氏や他多くの人達には正しい法が伝わってない
決着のついた師家に参じないと形だけで終わる
>>751 ということは普通の主婦が食事を作ったり掃除したり 一切のわざとらしい意識を排して行動している状態と同じってことですよね?
>>760 いやいや ここはマインドフルネス瞑想に関して議論するところですからね そんな訳のわからないことをいわれても困るんですよ
それに正法って.... マインドフルネスの定義と目的知っていますか? ヴィパサナの議論の場じゃないんですよ?
>>762 が何に対してからんでるのかわからない
>>760 のレス元にならともかく760はレスしただけでしょ
なんかあれじゃ駄目これじゃ駄目っていうけどさ、 別にみんな悟れなくてもいいじゃん 野球やってる人がすべてプロになれなきゃ駄目ってことじゃないし、 野球やらなくても筋トレは健康にいいよ。メンタルを整えれば、自他利益があるよ こんな議論自体が自我を強化してると思うんだけどな わざわざ自説強化するために自説に都合のよさそうな部分を抜粋して よく知らないまま八正道に伴わないサティは邪念とか そんな時間があったら瞑想しようぜ!
スレの目的は何日か前に話題にでてたけど 仏教に絡めた話がダメになったのなら終わりにするよ
>>757 邪見を捨てて正見を得るってことは、つまり、
真理を理解して解脱するということ。
正見には八正道の全てが集約されてる。
正見を完成させることが八正道を完成させること。
>>764 悟れないマインドフルネス
↓
自我が残る
↓
煩悩が残る
↓
悟れないマインドフルネス
↓
自我が残る
↓
・・・
>>766-767 君は簡単な誤謬をする人だからそんな事を人に説く立場にはないな
仏教、瞑想とは関係なく
自説が先にあって証拠集めしてるだけだからな 「地球は四角い」から出発してるようなもん
マインドフルネスは正念を得たかどうかには関心がない しかし、サティを続ければ邪念は減らすことになる そして邪心が減ること自体に価値はある 邪念まみれの人と違い、邪念を減らすことの出来た人は 仏教に興味を持っならば正念を得ようとすることだろう それで何か問題あるのかな
>>770 うん、愉快犯の釣りにしてもちょっとお粗末なんで無視でいいと思う
>>766 まあ仏教の枠組み内で正見を解脱と定義しちゃうのなら、仏教視点ではそうなりますがw
それってトートロジーと変わらないのでは?
しかし、仏法修行者にも、目標志向=いまの自分と違うものになりたい志向が強い人がいるものだね… そういうのは確かにマインドフルネスとは違うわ
>>771 ブッダの定義は、
正念=正しいサティ
邪念=間違ったサティ
だから。
間違ったサティは解脱の方向に行かない。煩悩が減る時もあるし、増える時もある。
八正道から正念だけピックアップしようとすると、邪念になってしまうわけだ。
まぁブッダなんか関係無いよという人はそれでいいだろうが・・・
そもそもカバットジンが宗教色を抜いたマインドフルネスを初めた時点で、
ブッダは無視されたのかもしれない・・・
マインドフルネスのサティが間違ったサティならテーラワーダのサティも間違ったサティでしょ そして禅ではサティは忘れ去られていた
>>776 > そして禅ではサティは忘れ去られていた
え本当?
…なーんか最近このスレ、自分がやってない事について実態も知らずに皆が滔々と語る流れになってない?…
>>775 そうではないよ
ウィキペディアとかだけ見ればそういう理解になるかもしれないけど
例えば、グナラタナはマインドフルネスと題した本でサティを説いている 仏教をベースにした説明ではあるが、そこには宗教性はほとんどない 続編で八正道を説いた本を出しているがサティ=正念が出てくるのは七番目 八正道を育ててサティをしていくならばサマディに至るとしている だから正念でなければサティではない、と言ったようなものではないが 八正道がなければサマディには至らない
>>780 最後訂正
だから八正道を守らなければサティではない、と言ったようなものではないが
八正道がなければサマディには至らない
という理解をしている
つまり、現代の僧たちがマインドフルネスとして説明している文脈では必ずしも厳密な意味での 正念=サティというわけでもないということだ 実践している人ならわかることだが 八正道を行わなくとも、瞑想を行っていくと次第にその要件は整っていくものだ すなわち、八正道は必要条件というより、十分条件だろう しかし、人によっては抜けが生じることもあるからリファレンスとして 釈迦が説いたということだと思う マインドフルネスのサティが、厳密に仏教の正念でないということは 言葉の上ではそうですね けど、だからマインドフルネスの気づきはサティ=正念ではなく邪念になるというのはただの言葉遊びだと思うよ
>>775 >ブッダの定義は、
>正念=正しいサティ
>邪念=間違ったサティ
それって自分で作った定義では?
サティに正しいも間違いもないでしょ。あるがままをあるがままに気づくことなんだから
サティは端的にサティ。そしてサティの漢訳が正念。英訳がマインドフルネス
君の言うことに従うと「正しい正念」ってことになるよ
このスレみてると禅やってる人が邪念のかたまりに見えてくる
スマ師もマインドフルネス本でサティをただの気付きとして説明してたかな
関係ないけど子供の頃よく行ってたスーパーの名前がサティ 今日は8時間座禅できた、後は夕方の1時間で終わりにしよう 明日はもっと良い日になるよね?ね、ハム太郎!
>>782 そんなとこだよね
原始仏典でも釈迦の説法聞いただけで悟ったり仏教外の人間が釈迦と出会ってすぐ悟る例があるし
結局その人が八正道的な生き方してれば問題ない
マインドフルネスしてるひとだって八正道を守ってないかっていうとその人によるし
出家してる仏教僧だって八正道ちゃんと守れてない人は当然いるだろうし
結局その人の素養と生き方次第
実践してれば意識してなくても八正道的になっていくってのもその通りで、
そういう意味じゃマインドフルネスやっていくことで八正道的になっていく部分も当然あると思う
実践してる人と頭の知識で語ってしまう人でギャップが出てるとこはありそうだよね
仏教のサティとマインドフルネスのサティを分けてる人がいるけど、 どちらもちゃんとサティできればサティだし、どちらもできてなければサティできてないというだけでしょう 仏教で観瞑想に取り組んでるひとがみんなちゃんとサティできてるわけじゃない、初心者はできてないでしょう 同じようにマインドフルネスでも出来てる人と出来てない人がいるでしょう 仏教の修行僧でも日が浅い人は無駄話してしまってるだろうし八正道はちゃんとは守れてないでしょう マインドフルネスの人でも無駄話しない人はいるだろうし、サティであれ八正道であれその人次第って話でしかないと思うけど
>>788 それだと、八正道を知らず、正見、正思惟、正語、正業、正命を目指さなくても、
瞑想だけしていれば自然に解脱に達することになります。
ブッダなみの能力が無いと無理だと思いますが。
Satiを「気づき」という言葉で表現するのは適切じゃないと思います 「気づき」というと「何かにその都度気づく」ことだと解釈されます それだと「気づく」までは「気づいていない」のを許すことになってしまいます Satiは「気をつけること」「注意すること」であって それは「あらかじめ気づいている」ことを要求しているものです だから本来の意味するところとは違ってしまいます 「足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を 回避する人は、この世でこの執著をのり超える。」(スッタニパータ768) あらかじめ蛇がいることに気づいていて気をつけていなければなりません 蛇の頭を踏んでから「今、蛇の頭を踏んでいる」と気づいても遅いのです
>>791 観瞑想をしていけば自然と八正道に沿った生き方になるから結果的に八正道も守っていくことになると思うよ
っていうか、観瞑想によって心身への捉われがなくなっていくのだから八正道にそぐわないことは興味なくなるでしょ
それから原始仏典読めば釈迦に出会って法を聞いてその場で悟る例はけっこう出て来る
最初の悟りに入れば自然と八正道を守るようになっていくわけで、八正道を意識的にやるか自然とできていくかの違いでしょ
別に八正道はいらないという話ではなく、人によっては八正道なんて知らなくても自然とそうできていくって話
ヨガの人は八正道なんか知らなくてもジャーナに至るんじゃないのか と、ここでヨガナンダ信者を召喚したらどんだけカオスになることか
>>791 それって要するに三学の戒と慧だけど
まっとうに生活してたら戒は自然に守られるし
慧は阿羅漢にならないと完全じゃないから仏法修行者であっても有学ならまだ欠けてる状態
そこから定を基礎に慧が育つんだから、まさしく瞑想をしてれば解脱に達するんじゃない?
それが瞑想として正しい実践であればって限定付きだけど
まあマインドフルネスの世間的効果を主に考えてる人にとっては思わぬ意外な結果ってことになりそうだけどw
>>793 説法を聞いて悟った人は、一瞬で真理を理解して、正見を得たんだと思います。
一瞬で八正道を実践したのだと思いますよ。
観瞑想をやって、心身への捉われが無くなるのは、ブッダの言う正念を実践した場合だと思います。
邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命のまま観瞑想をしても心身への捉われは無くならないと思います。
ブッダの教えのエッセンスを除いたマインドフルネスが現れるまでは、
仏教のヴィパッサナーしか無いので観瞑想=正念相続で問題ないのですが、
解脱を目指さない、能力開発の為、ストレス低減のためのマインドフルネスが登場した以上、
観瞑想、サティの実践も、正しいサティか、間違ったサティかが問題になってくると思います。
野球のバットを素振りしている人に、「何が目標なの?」と聞いて、「ホームランを打つため」と答えれば、
正しい素振りだと言えますが、「人をぶん殴るため」と答えれば、それは間違った素振りです。
素振りは素振りですが。
だからこそ、ブッダは大四十経で、八正道について、正と邪について説いたんだと思いますよ。
>>797 素振りになるために素振りをするんじゃないかな?
素振りになった自分がボールを見てボールを打つ、
それぞれの段階、その瞬間に全力を注ぐこと、
素振りはホームランを打つためじゃない
そう思うけど
>>783 > サティに正しいも間違いもないでしょ。
ところがある
正念 サンマー・サティ
邪念 ミッチャー・サティ
>>797 そう思いたいならあなたにとってはそうだってことでいいけどさ
八正道を知ってて八正道を守ってる人と、八正道を知らなくてたまたま八正道を守れてる人の違いってあるの?
仏陀のエッセンスを除いたマインドフルネスって前提で話してるけど、その前提に則せばそうとも言えるけど、
仏教知らずマインドフルネスやってる人にも慈悲の瞑想したり道徳的実践などいろいろしてる人はいるわけで、
マインドフルネスの人たちが皆仏教のエッセンスを除いてマインドフルネスをしてるかっていうとそれはわからないよね
つまり仏道とマインドフルネスを分けるより、人それぞれの問題じゃない?
仏教信仰を基準に正と邪を語られてもねえ… 実践している内容が同じだったら、描いてる目標にかかわらず、結果は同じなんじゃないか?
>>801 八正道を知らずにたまたま八正道を守れている人はいないと思いますよ。
世間の道とは真逆の道ですから。ブッダも6年修行してやっと悟った道ですから。
八正道をきちんと守っている人は、あらかじめ仏教の勉強をしているはずですよ。
人それぞれといえば確かにそうですが、
問題は解脱を目指す、真理を理解するという目的意識があるかどうかだと思います。
八正道の最初にして最重要の正見は、真理を理解して正しい見解を得るという意味ですから、
これが無ければ正念、正しいサティとは呼べない事になります。
>>803 それじゃあ全く別カテゴリーですよ マインドフルネスを実践している人で解脱を目指している人は数パーセントじゃないかな? 一瞬で解脱できる魔法のボタンを渡されても何か怖い気がして押さない人がほとんどでしょう
まずさ、今日的な意味を考えてみようか ストレス解消というのは何のため?ってさ 今受けてるストレスを上手く対処しながら社会生活をスムースに進めていくためであって、 より社会で役に立つ人間に成長していくことでもあるでしょ そして、瞑想が効果を上げて差し当たってのストレス対処は上手く生きましたと それだって完璧に自分の人生を全うしていると言うには程遠いことを自覚させられる もっと成長すれば周りの人も幸せになるし、あらゆる瞬間にもっと真剣に生きられることがわかる 成長欲というより、続けていかないことが一種の後ろめたさすら感じてくるかもしれない そうしたらより深く、仏教なり他宗教なりで深い意味で自己を律しつつ成長をしていくことを選ぶだろうね そう感じない、もう十分だと思うなら止めたって良い 必要に応じて教えに触れていけば良いんだよ 瞑想をやっていてその段階段階に応じて起きてくることがあるんだよね 最初から超越世界目指すんだとか思ってると下手するとオウムになるからね 入門段階から中観的な見方が必要だと思うよ
>>803 じゃあさ、あなたの言い方で言えばマインドフルネスの人でも仏教の勉強してる人はいるだろうし、マインドフルネスしてる人は仏教のエッセンスを欠いてるとは言えないんじゃない?
あと具体的に言えば例えばスマ長老はアビダルマの解説書の中でクリシュナムルティは最低でも預流果以上に達してるだろうって言ってるわけね
で、あなたと似たような言い方でマインドフルネスには足りないものがあるって言ってる山下良道さんは自分の見方を説明するためにニサルガダッタ・マハラジの引用をしてるわけ
山下さんは自分の見方をわかってくれた人たちが最近二人いたけどその人たちは二人ともクリスチャンだったとも言ってる
で、クリシュナムルティもマハラジも仏教徒でもなんでもないし、ただ二人とも八正道に則したような身のふるまいできてるわけなんだよね
あなたはあなたの見方があるだろうし自分が言いたいことは言ったのであとはあなたが主観に捉われないように正しい見方を自分で探せばそれでいいと思うよ
>>803 それは、解脱を得るためのサティを仏教的には正しいサティと定義します、てだけの意味しか持たないんですよ
いや、クリシュナムルティさんは不倫してたんだ 八正道守れてないんじゃないかな それでもあの人は悟ってるんだろうなぁと思う、多分
現代はストレス社会だし、宗教アレルギーもあるから、 宗教色の無いストレス低減法が必要ってのは分かるんだけど・・・ 仏教徒としては、ブッダの説を外れると、ろくなことが無いだろうって思うんだよね・・・
>>807 そうですよ。
でブッダは解脱以外のありとあらゆぬものに価値は無いと説いたんですよ。
人類70億人が解脱した世界を夢想するとたぶん持続不可能で人類は滅ぶ気がするよね
あと、何も得られていないのに最初から全てを目指してやっていたら 焦るだけでしょ 8つも守るべき道がある、それを暗記して日常の行動にピリピリしてる そんなの能動的が意識は強まるだけ あ、飲酒駄目だぁ?無理だよ俺には! と思うなら飲めばいい 瞑想続けたらそのうち飲めなくなるからねw 行動も心根も改まってくるもんなのよ 瞑想をちゃんと続けていくことなんだよ それによって、釈迦の教えが頭でなく腹に入るようになる 釈迦だけでなく、聖書でもなんでもさ それは文字が読めて、語義を知って、論理的な関係がわかるという以上のことなんだよね 瞑想をやっていればそういう体験をする、必ずする たからID:8lpZFrSxさんの言ってることは座学知識なんだなと思う 坐禅組でもヴィパッサナー瞑想でもやればいいのに
>>808 その点は噂だから本当かどうかわからないけど、そもそも戒は後から決められていったもので元からあったものではないしね
仏典にも預流果に達してる人が酒を飲んいて、あの人は本当に悟ってるのかって弟子が釈迦に聞いたら、仏法への疑がなくなってるからあの人はちゃんと預流果なんだって釈迦が答えた話とかある
こういったら怒られるけど戒は行為上から判断できるアウトラインで重要なのは行為してるその人の精神がどうなっているかだと思うよ
精神状態がどうなのか見かけからわからないから見かけで判断しやすい行為上の戒になっただけで
>>811 だから、そう言ってしまうと、
仏教的に正しいサティと、マインドフルネス的に正しいサティは、そもそも違いますね、用語の違いですね、という結論しか出ないわけですよ
>>813 私もずいぶん瞑想しましたけど、だんだんブッダの偉大さが身に染みてきて、
仏教原理主義みたいになってきましたw
八正道こそ唯一の道で、解脱こそ唯一の目標だと・・・
まぁキチガイですかね。
禅宗なら仏に逢ったら仏を殺せっていうけど 仏法だろうと執着するものや依存するものになったらそれはもう仏法じゃないでしょ 仏法という何かを頭で想定して個人性がそれを盲信してるだけ
>>814 そんなところでしょうね
言葉や行為の外形でガチガチに規則を作るのでは、古代バラモン教やイエスの現れた時代のユダヤ教、カトリック などと同じになる
凡人の認識できる外形を超えたところの世界でなければ、悟りなんて意味ないですもんね
>>816 正しいサティを説くならば、あなたは正しいサティを得ているんですね?
ということになる
つまり、あなたはもう悟りの一歩手前だ
素晴らしい
あなたが邪念とするところのマインドフルネスの気づきと正念のどこがどう違うのか
具体的に実感を伴った説明がお出来になるはず
どうかお聞かせ願えませんか?
>>819 瞑想を初めて最初のうちは楽しいし、上手くいっている気がしてどんどん瞑想できるんですが、
ある時から瞑想が全然上手くいかなくなってくるんです。
自分が煩悩の塊に見えて、妄想だらけで全然集中できない。
その状態になると、ストレス低減法とか、能力開発が目的の人なら瞑想しなくなると思うんですが、
悟りを目的にしている場合は止められない。止めたくなっても、自分に鞭を打つ覚悟で瞑想する訳です。
そうしているとある時点で、急に瞑想が楽にできるようになる。
楽になったら楽になったで、今度は瞑想に張り合いが無くなる。つまらなくなってくる。
そうなると逆に瞑想したくなくなるんです。ストレスは無いから毎日楽しいし、遊びたくなってくる。
私の場合はしばらく遊びました。でも結局、遊びも飽きてくる。瞑想の楽しみを前に経験しているから、遊びもそんなに面白くない。
結局思い出したように瞑想し始めて、苦しみも、楽しみからも心が離れた時に、やっと真理が見える訳です。
戒を守って、瞑想し、解脱を目指すという目的意識が無ければ、長い瞑想の波を乗り超えられない、
途中で嫌になったり、飽きたりすると思います。
>>820 それと私は瞑想の為に、仕事も減らしましたし、テレビとかパソコンとか、瞑想の邪魔になるものは全部捨てました。
なるべく出家と同じような条件になるように努力しました。
ストレス低減法、能力開発が目的の場合、欲を減らす、人となるべく会わないなどの努力は普通しないと思います。
マインドフルネスは能力開発だとかストレス低減目的でやってるからという言い方するけど、それって実際には瞑想の副産物でしかないでしょ マインドフルネスはカバットジンのしか知らないから能力開発をうたうマインドフルネスは知らないけど
ずっと誤解してる気がしてるんだけど、マインドフルネスストレス低減法はストレス低減を目的に瞑想しましょうなんて言わないからね 目的なんかもたない
>>798 私が言いたいのは言葉の使い方が相応しくないということです
paying attention(注意を払うこと)によって
awareness(認識、意識)を得るのです
Satiは「気をつけること」で、注意を払うことを指す言葉です
「気づき」はawarenessの方を指す言葉です
仏陀が何度も言っているのは「気をつけること」です
この「気をつけること」がSatiです、「気づき」はその結果であり
そのためにSatiが大切だと言っているのです
そこが分かっていないから、
「気づき」という曖昧な言葉のイメージから
Satiを何だか神聖で神秘的なものだと勘違いして
正念だ、マインドフルネスだ、それじゃ悟れない、ということになるのです
Satiは単に「気をつけること」です
Sati(気をつけること)によって、認識力(気づく力)を養うのです
瞑想(四念処)でそれを繰り返す(気をつけて観る)ことによって
洞察力(智慧)を養うのです
洞察(智慧)によって、真理(無常・苦・無我、縁起の理法)を悟るのです(悟り)
悟ることで、無明が無くなるのです
無明が無くなることで、執着がなくなるのです(無執着)
執着が無くなることで、渇愛が無くなるのです
渇愛が無くなることで、煩悩が無くなるのです(解脱)
煩悩が無くなることで、苦から解放されるのです(涅槃)
Satiで涅槃へ達するというのはこういうことです
原理主義より ほとけに会ったらほとけを殺せ の方に真理を感じる
>>813 言っちゃ悪いけど脳天気だねw
> あ、飲酒駄目だぁ?無理だよ俺には!
> と思うなら飲めばいい
> 瞑想続けたらそのうち飲めなくなるからねw
> 行動も心根も改まってくるもんなのよ
マインドフルネスやってこれが出来た人は少ないよ
出家してるとか恵まれた人でないと無理
ID:+S+JjujYさんはかなりやり込んでいる人だと思うけど
どこかズレているなあ
なんだろう、この違和感
マインドフルネスやってこれ出来た人は少ないよ というのは自分の脳内の物語だよね
>>825 殺仏殺祖は、仏を妄想するな、祖師を妄想するなという意味ですよ。
ブッダを否定せよという意味では無いです。
ブッダだろうが、祖師だろうが、頭に浮ぶ概念は全て無我であり、実体は無い。
ありがたいものでは無いという意味です。
>>828 原理主義の人はありがたがってるわけでしょ
ID:8lpZFrSxさんは木曜あたりに来てた ID:oIE2ofGnさんだろうか 八正道にやたらこだわってるが
>>820 それだと、やっと瞑想になってきたらいきなり真理が見えちゃった感じですかね?
>>826 少ないというのは、何千人かリサーチされた結果とかなのでしょうか?
見ていて感じるのは 仏教を勉強したことによる自我の強化 だよねこれ
>>829 ありがたいものは無い=一切皆苦です。
諸法無我を説き、一切皆苦を最初に説いたブッダは偉大です。
原理主義の人は、偉大なブッダを実体視して、崇めるようなことはしません。
ブッダも無常であり、苦であり、無我であると知っています。
ブッダに対する執着も捨てています。
>>824 私も最初のレスをよく読んでませんでした、失礼しました
>>831 リサーチはしていないけれども、
人から聞いたことなどだけどね
マインドフルネスで性癖や悪い習慣が改まる人もいれば
できない人もいるみたいだね
自分の解釈を強く持ってしまう人なのかな 他人にどういう言う暇あったら自分の実践したらいいのに 自分の実践がうまくいかないからって他人に主張することでストレス発散してもしょうがない
>>837 でも、想念を一つずつ消していくと、微妙に行動変わってきません?
大の酒好きがパッと止まるとかそんなことはないでしょうが
>>833 ブッダの言ったことへの絶対視と執着はあるわけだよね
欧米マインドフルネスを「ストレス解消」と定義している人がいるけど、 ほどんどの人は「ストレス=苦しみを呼ぶ煩悩」と考え、それを何とかしたいと思ってる。 するとあら不思議、欧米マインドフルネスの目的「ストレス解消」=「煩悩からの解脱」となるw なにか問題あるんですかね
欧米マインドフルネスの参加者は大体煩悩で苦しんでるのを何とかしたいって人たちでしょ 煩悩が問題だと知って、生き方やものの見方を学びたいという 苦を何とかしたいという おまけに自利利他、与楽抜苦の慈悲心も持ち合わせている 正しい生き方、新しい存在様式を学ぼうとしている それって仏道とどう違うのかなぁ そりゃ能力開発に焦点をあわせる不純な動機の人もいるけど、ほぼ指導しているほうで、そんなことを 肯定しているところなんてないでしょ、むしろ戒めている。怪しげな自己啓発団体がマインドフルネスを 取り入れてる場合は別として
煩悩というか、西洋人はストレスはストレスと認識してるんじゃないのかな…(偏見 今日は自分が連投王になってしまった、いかんいかん 自分、 ID:8lpZFrSxこの方ちょっと心配なんですよね
>>820 瞑想が上手くいく上手くいかないってのは、マインドフルネスでは無いよ…
上手くいく上手くいかないの判断は自分の中に何かの基準を描いているからだよね?
マインドフルネスはいまの事実にいることであって、心に描いた基準で今の現実の答え合わせをする事じゃないからね
その…貴方の実践している修行では、目の前の現実意外の何だか正解みたいなものがお勧めされてるの?
>>848 誤 目の前の現実意外
○ 目の前の現実以外
ちらっと見てみれば ストレス低減目的の人は瞑想中に妄想だらけになったら瞑想をやめてしまうだろうという妄想 をよりどころにした自分スゴい というお話だった
頭の中で想像を連鎖させないで、マインドフルネス(ヴィパッサナー)の基本、常にいまあることにだけ気づいていくをやってればいいだけなんだけどなあ
仏法とか、聖書解釈とかってやっぱり奥の深いものだから 瞑想進めていくと、あっそうか!となるんだけど、まだその先があるもんなんだよな こういうのはさ、わからないならわからないままにしておけるかどうかが肝心 表面的な浅い理解で、わかったことにしてしまうことは何より自分にとって有害じゃない? わからなくたって良いじゃない、凡夫だもの
マインドフルネスが宗教色をできるだけ消したことは大英断だったんだなぁと確信を持てるスレ進行なので、このスレの存在をステキだしアイシテルわ 時代や社会の要請に従ってreviseする柔軟性があったから仏教は今も残っているので、禅が今後も生き残るためにはマインドフルネスからの逆輸入的なreviseが必要なんじゃないのかな
宗教的知識が逆に捉われになってる人ってのはたしかにいるよなあ そのためにちゃんと師に逐一報告して指導を受けろって言われるわけなんだろうけど
目的によるんです 仏教にも出家と在家があるように立場によって適切な心構え 実践があります 瞑想の実践もそうです 解脱なのかただ一つの辛いエピソードの解決なのか 健康体操的なものなのか 上座部でいう預流果でさえも実生活でhs
実生活で困ったことが出てきます 困っても不安や悩みにはならないんですけどね 普通の人は預流果までで充分 そこまでは観察に次ぐ観察!でok !
ストレス解消、健康目的、気づいているだけでいい、観察すればOK・・・ ぬるいなーマインドフルネス 昔のバッチバチの禅僧とかからしたら、噴飯ものだわ
衆生無辺誓願度 煩悩無量誓願断 法門無尽誓願智 仏道無上誓願成
>>860 悟りきった道元禅師の安楽の法門は、一般人からしたら苦行レベル
新幹線の徐行運転にチャリンコで追いつこうとするレベル
気づいているだけで「いい」、観察すれば「OK」・・・ ってとこに分かってない感が表れてていいね
自分の中に何らかの基準をもうけて、現実に対して良し悪しの判断をするってのが普段の思考だからね 判断をしないってのは、なかなか理解できないんでしょ まあ人それぞれ 心の中に基準を描いてよしこれはOKとか言ってるタイプの修行が合ってる人はそれでいいんじゃないかな…
ライトユーザーとヘビーユーザーは違うからね ライトがヘビーを、ヘビーがライトを批判してもしょうがない
昔のバッチバチの禅僧様がいらっしゃってるんだ… 今日も朝から
テンプレに書いておいた方がいいね 悟り志向の方はご遠慮下さいと 話が合わない、はっきり言って
5ちゃんのバッチバチの禅僧様は自分の妄想を真実だと言い張るからめちゃめちゃ安楽そう
考え方や信念は人それぞれだから合わなくてもいいんだけどね。 その考え方で、他人の考えや信念を評価して来なければ、 「私はこう思って自分を律しているんですよ」「へー源流は同じなのに違いがあるもんですねー」くらいで、特に問題ないのに。 自分の価値基準で他人を評価したくてたまらない。そういう人もいるってことで。
比較や想像を加えずあるものをただあるままに観るが仏教でもマインドフルネスでも基本なんだけど そんなシンプルなことが一番難しいってことを証明してるスレ進行だな
認識を示しただけで、評価は示していないつもりだけど 俺間違ってたかな? 認識しても示さないと、時には相手が気づいてない場合もあるから オラオラが始まるでしょう そうなってしまうと認識の齟齬を埋めるのが難しくなるよ
なんというか、まず悟りが必須派もそうじゃない派も、他者否定をやめること 悟りを目指すものも、自分自身がバチバチの禅僧でも道元でもないんだから。 悟りを目指していないからと言って自我が厚いとは限らないし、逆もまたしかり クリスチャンやイスラムの人でも尊敬すべき人はいるし、悟りを目指していても 自我がガチガチの人もいる 人それぞれの因と縁があるんだからそれを良いものとしなければね
他人の目的ややりかたは 自分の目的ややり方と同じように 価値があるとして接するのが好きだな 話す相手が何が目的で 何を大切にしているかわかったなら 自分が大切にしていることと 同等な態度で接したらいいと 思うけどなあ
怒りで他者否定したくなったときは、慈悲の瞑想か、チベット仏教の入菩提行論を 読むのがいいかも 「ダライラマ 怒りを癒す」が入菩提行論のよい入門書 悟りを目指していても他者を愚弄するような態度はいけない 悟りを目指していなくても自利利他を指針にすればそれは功徳を生むでしょう 悟りを目指すのも結構だが、その前に不善心を起こさず心を善心所においているか それに留意もせず「お前らは悟りを目指してないからだめ」というのは不善心でしょう
おほけなくうき世の民におほうかな わが立つ杣に墨染の袖 ガチ僧侶が衆生の我々、凡夫の我々がぬるいと言って噴飯するものでしょうか?
タイでもミャンマーでも日本でもあくまで解脱は出家者に任せて、在家は悟りを今生の目標にしなくても とがめられることはない 過去生で波羅蜜を積んでいれば在家でも悟れることはあるだろうが、在家の務めは徳を積むこと。 マインドフルネスも十分徳をつむので僧も在家に推奨している。 私も参禅会に行くが、特に僧に噴飯されてしまうことはないですね。 昔のバチバチの僧がなんというかは知らないですが、誰もあったことがないんですから妄想しても仕方ないでしょう
>>881 人類がみんな解脱してしまうと、きっと人類は絶滅すると想うんだよね
在家と出家の区別はとても大事だ
持ちつ持たれつで
在家に解脱を強いるのは、今風にいえばパワハラだよね〜w
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●本来のお釈迦さまの教えと、テーラワーダ仏教徒たちの「いつか解脱に達するぞ」という考え方は、一致しません。
●「執着を捨てたくないが、ブッダの教えはありがたい。実践したい」と言っても矛盾があります。ブッダの説かれた「生きることは苦である」という真理を否定しているのです。その真理を否定すると、「解脱は最高の幸福である」という真理も否定しているのです。
http://www.j-theravada.net/howa/howa165.html 現代日本語で言い換えてみます。やると決めたことはやりなさい。断固としてその道を進みなさい。
諦めず、不撓不屈の精神で、結果を得るまで進みなさい。ということになります。何か原理主義者の言葉のように聞こえるかも知れません。
しかしこれは原理主義にはならないのです。なぜならば仏道では、いま・ここで解脱という結果を得ようと努力するからです。
http://www.j-theravada.net/howa/howa187.html >>883 マインドフルネスと禅は対立するものではなくて
禅があるところにマインドフルネスがあり
マインドフルネスがあるところに禅がある
このスレに出てくる禅の人は強烈な自我の持ち主だったり妄想にとらわれていたり執着心のかたまりだったりする
>>888 あなたの妄想だよ
それさえ分からなくなっている自己愛性パーソナル障害
>>889 マインドフルネスをやってると
こんな風になっちゃうんだね
下品で理性の欠片もない
すぐに人を障害者扱い
ある人の脳と心の表現にある人の脳と心が反応している
筋トレも瞑想も効果を高めるにはストレッチをすると良い。 このスレを見ると「自分は真面目に頑張っている部類なんだな」と思える。下を見て安心してちゃ駄目だけど……もっともっと上を目指したいけど頑張る事が正しいとも限らない訳で……けどそれは結果を出してこそ言える事で……。 とりあえず今週の土曜日、明後日ですね……ステーキ食べてくるんです。ヒレ肉。凄い美味しいんですよね。 最近はスクワットもやってます。オウムだと1分に3回のペースで6時間ぶっ続けでスクワットするらしいです。オウムのスレで知りました。
しかし、「心と宗教」の話題度をたまに見てれば、必ず暴れとるな。 同一の前のめり自我主張自己愛性パーソナル障害が。
「このスレに出てくる禅の人」も「 マインドフルネスをやってると」も心に描いてるものの典型だからもうお腹いっぱいです勘弁してや
>>897 ただのネガティヴ無限ループ妄想モンスターのはけ口ですよ
世の中の、禅をやっている多くの人のことではなく マインドフルネスというタイトルのこのスレにわざわざ出てくる禅の人の傾向性というのはありますな
>>899 禅にもマインドフルネスにも失敗してした成れの果てですよ
それでバームクーヘン、じゃなかったアウフヘーベン(弁証法的止揚)を自分だけ成し遂げたことにして、自己愛性を満たそうと
このスレ見て思ったことは マインドフルネスは自己愛が強くなる 禅は虚無が強くなる マインドフルネスも禅も関わった年月が長ければ長いほどどちらも自我が強くなる 困ったことにこのことへの自覚が無くなるのが恐ろしい なれの果てを見るようだ
>>901 まあおおよそ共通するのは、結果的に己れや人類を巻き込んで、心を嫌い、否定することにひたすら邁進するのですよ。心が可哀想じゃないですかね。そりゃ反逆したくなりますよ。心も。
>>888 みたいな成れの果ては、何故こうなってしまったのか、マインドフルネスに観て洞察してやって下さい。
呆れ果てるでしょうが、教訓の足しにはなるかもしれません。
14歳に、X軸の2項対立は分かっても、Y軸が出た途端、数学が理解できなくなって落ちこぼれ出した時からだそうですけど。
*「死後のことはどうでもよい。落ち着いて幸福を感じて生きていきたい。それが人生の目的だ」と考える人々は、
それに相応しいプログラムを考える。そのプログラムを冥想だとするならば、「良い気持ちに達する実践」になるのです。
ですから、「冥想なら何でも宜しい。どんな冥想も同じ目的を目指しているのだ」というのは、正しくない考えです。
*ブッダのヴィパッサナー冥想以外、こころの煩悩を完全に無くす方法は無いのです。このポイントを明確に言わなくてはなりません。
こころの汚れが機能しない睡眠状態と、こころの汚れが残りなく消えた状態は、決して同じではないのです。
*せっかく修行の道に入って、こころの一時的な安らぎに達しても、解脱を目指さないひとは、また矛盾の道に迷いこんでしまうケースもあるのだ
http://www.j-theravada.net/howa/howa208.html 900も超えたことだし、ここで次回のテンプレづくりにとりかかりませんか?
悪口、両舌に巻き込まれないように
衝動的、感情的にならずに意見交換するのもマインドフルな修行の一環だと思います
それも人間だからたまには仕方がないとしても、スルーするのも修行かと
自分も全然出来てませんが、感情に巻き込まれた言葉はなにより自分のためにも周りのためにもならない
ちょっとづつ思いついたことを皆さんも書いて欲しいです
道元様の言葉を紹介したい。自分としてはこれを指針に日常を送りたい。
およそマインドフルに徹せられれば、このような心がけも自然に身につくかと思います。
「正法眼蔵」「四攝法」
「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。
おほよそ暴悪の言語なきなり。
世俗には安否をとふ禮儀あり、佛道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。
慈念せし衆生を、猶ほ如もし赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。
徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。
愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。
しかあればひごろしられず、みえざる愛語も現前するなり。
現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし。
世世生生にも不退轉ふたいてんならん。
怨敵おんてきを降伏こうぶくし、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。
むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。
むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。
しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。
愛語よく廻天かいてんのちからあることを学すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず。」
http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_26.html マインドフルの定義は前スレの1でいいとして @マインドフルの定義は前スレ1で示されたものを採用 Aこのスレに限っては、禅・テーラワーダ(仏教)の立場から、医療的なマインドフルネスを否定しない それは自分で別のスレをたててやってもらう B他人の境地やメソッドを否定しない。意見があるときは否定ではなく「自分はこう思う」 との見方の提示にとどめる。 C上記ができなければ書き込まない。ルール違反については指摘して改められなければスルーする。議論はしない。 正直これだけできればスレは荒れないと思う
>>904 「自分の集中力を高めたり、幸福感を得たりすることが目的となっているマインドフルネス」
ここに誤解があると思うんだよな
マインドフルネスもビジネス書ではそんなことを書いてあるけど、専門書では
ゲインを求めるなとくりかえし注意している。
ダライラマは仏教の目的について聴かれると常に「幸せになることです」と答えている。この幸せという言葉にも、そのときそのときの文脈があるので、適切なこともあればそうでないこともある。
ビジネス書に書いてあるようなマインドフルネスだけをとって、マインドフルネスは駄目だ、といっても仕方がない。
>>909 いいですね
「自分は思う」というのは主観事実ですから、客観事実との区別にもなります
また、情報一般の話になりますが事実、認識、評価の区別を心がけて読み書くこと
これも役立つのではないかと思ってます
読んだ時に感情的にならないためにも、書く時にも揚げ足取りを気にしたりされたりしなくなりますよ
私の主張したいことは、迷っているのに筈だ論で己れの自尊心の構築の為だけに、人に迷惑を撒き散らすなってこと。 一発逆転で恋焦がれる解脱主義で他人を己れの固着した隠滅さにアリ地獄のように普通の人を巻き込むなってこと。 その事例収集、構造分析は、ほぼ終わってるわよ。 覚悟しなさい。
なるほど、こういうところに文を書いてる禅僧からしてマインドフルネスを誤解してるから、それを鵜呑みにする人間も出てくるのか
ID:bbe0pPR6 ↑5時間ほどで10回書き込みコテまで付けだした(外し忘れた?)アホw
愛語を言ったつもりのリアルな相手が、どんどん苦しみの深みにはまってゆく。 示した技法はさらに深みにはめてゆく。 もう逃れられない。 己れの経験できなかった解脱、光の涅槃に飛べば、一発それで解決。
>>910 > 専門書ではゲインを求めるなとくりかえし注意している。
それ確認してませんでして、なるほどと思って貼ってしまいました
カバットジンはここらへんどう書いてるのか知らないのですが
個人的には、結果的にゲインは起きるのだけど、やってる時はゲイン求めずやってます
只管打坐ではないけれど、効いた実感があってもなくてもひたすら続ける姿勢が
この手のメソッドのコツをつかむには必要だと思います
語学学習でも只管音読というのがあります
音読を何百回も続けていくと、段階的でない質の変化が現れるんですね
つまり、あるとき飛躍的に理解力が高まる
それと類比的だと思っています
メーテルさんというコテはどっかで見た気がするんだが…
>>916 自分でメーテルと名乗れるほど酩酊してるんだろうな
>>919 反論はそれだけ?
どうぞ、どんどんどうぞ
まがい物めが 完全にマインドフルネスの悪貨よ 悪例及び、その分岐点として体現してくれていることには、評価しているけど。
キョトーンとしてしまってるんだがw 何が起きてる?
>>917 たとえば「マインドフルネスストレス低減法」にはP309より、「成果への期待を手放し、あるがままに生きる」
という節があります。
「瞑想はゴールを目指すものではないからです。あまりにも期待感や目的意識が強すぎると瞑想の精神が損なわれ、効果どころか
逆に障害になってしまうのです」
「なにかを獲得しようとすると、この基礎が揺らぎ、損なわれてしまいます」
ただ、IMSやカバットジンの本、あるいは
ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの本をみて瞑想について書かれていることをみれば、
瞑想とはある特定の感情や身体の状況を目指すものではなく、「混乱があれば混乱、
雑念があれば雑念を見て、それを支えにする」ものだという教えだとわかると思います。
「目的を持ってはいけない」と強調するとそれがまた執着となってしまうので、
「何が現れてもどんな状態でも、それに気づいているかぎり瞑想は間違っていない」
「瞑想をしようと思ったときそれ自体が瞑想」(ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェ)ということを
正直ビジネス書系のマインドフルネスではなく、ちゃんとした本ででも素直に読めば、獲得目的に執着してしまう陥穽に陥ることなど普通にないと思います。
マインドフルネスは特定状態の獲得を目的にしてしまっている、という批判は、ちまたの
ビジネス系自己啓発系を眺めただけの浅い理解だと感じます。
そりゃ、「穏やかで怒りのない状態」「感情的に波立たない状態」を「得よう」としたら、 自分の状態に好悪の感情を持たざるを得ない。それは「あるがままの観察」から離れてしまう。 かといって、「目標」や「目的」を「持つまい」というのも同じことで一つの執着です だから、かたくならず、「続けていればいろいろいいことがあるらしい、結果はダンマに任せて、 軽く期待は持ちつつも、焦らず執着しないようにしよう」くらいがいいんだと思います
>>924 日本マインドフルネス学会理事長の越川房子さんの古典的訳書を読んだ時、世は「to do」一色だけれども、これからは時に「to be」も大切にしていい時間があってもいいのではないか?できれば、それが人が生きてゆく基盤になればと
本来は、マインドフルネスとは、そういった地(生活姿勢)に足着いたものだと私は思っています。
世の流れに逆らう流れと自覚なされた釈尊も、これを否定しましたか?
「to be」を基本というのは賛成です どういう文脈でそれを語られたかはわからないですが「to do」というのは 必要以上にある状態、状況を獲得しようと行動することでしょう 人間は獲得しなければ不幸になる、という思考や感情に本能的に突き動かされていますが本当にそうなのか。たちどまってその思考や感情を観察して、距離を置いてみれば、突き動かされずにすむのでは 「足るを知る」「心田を耕す」というのは関連したキーワードではないでしょうかね
あれもしなきゃ、これもしなきゃと不安でいっぱい。 何とかしなきゃ、と飛びつくまえに、ちょっと座って、そのモンキーマインドを観察すれば、案外する必要は なかったり。 そうすると不安も落ち着く。足るを知れる。
「to be」ティク・ナット・ハン師の御言葉では「be mindfulness」、座る程でもなくとも、1日数度立ち止まって観回してみると、可笑しいことばかり
自分を含めてね 可笑しさに愛情込めればいいのじゃないかな
>>923 こういったものは最初はほとんど効果なんか感じないですからね
少しだけ頭の整理が付きやすくなったかもしれない、程度で
最初は1分とか短い時間で呼吸を感じるのをやるのが良いと思いますけどね
ひたすらそれでやると良いと思います
>>923 リンポチェみたいになりたい、あるがままに生きたい、正しい瞑想をしたいと思った瞬間に我が生まれる。
結果失敗する。
目的、期待を持たない人は初めからマインドフルネスを真剣にやらない。
マインドフルネスが抱える自己矛盾。
何も難しく考えなくても良いですよ 観察系の瞑想では徹底徹尾 瞬間瞬間を観察するだけなんです ああなりたい こうなりたい なにかを得たい 全く問題ありません とうより瞑想以前にこれらの意識を払拭できるなら瞑想は必要ないわけですから... 話を極端に故意にわかりやすくいうと 物を盗みながら ドキドキしている 集中している 興奮している 相手を八つ裂きにする妄想をしながら 体に力が入っている 高揚している ボロボロの相手の姿を妄想している これだけです 次の瞬間にはお年寄りを実際に助けてお礼を言われて 嬉しい と感じているで良いんです 本当はこれを仕事の間もご飯を食べている間も一瞬の隙もなく休み時間もなくずっとやるだけなんです 実際にはそれでは大変なのでできるだけ 自分の熱意の分だけ限定してやるというだけのことですよ
道元みたいになりたいと思って禅をやる人だっているだろうに
観瞑想においては心と身体に生じる反応をただ観るだけ 心と身体の状態がどうであるかは全く関係ない 心と身体の状態が気になったら気になったと観るだけ
リンポチェみたいになりたい、あるがままに生きたい、正しい瞑想をしたいと思ったら、そういう思いも、"今"という瞬間の現実の一つとして尊重し、受け止める そして、それはその瞬間の一時の感情や思い、希望、判断であると受け止め、その中に引き込まれたり自分を見失ったりしない それがマインドフルネス
>>935 >気になったと観るだけ
とは良く聞きますが、それで済ませようとすることで躓いている人が多いそうです。
で、結局あなたは何を観ているのですか?
盗みをしても、煩悩が生まれても、我が出ても、観察し続けてはいるが、 悟れないので死後はどうなるか分からない。 それがマインドフルネス。
>>931 なるほど。ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの本には、こうありました
・一日に短い時間の瞑想(1分〜30秒)を何度も繰り返すこと
・ほんの少し時間を作って、白昼夢にふけるのではなくただ単に 自分の心を観察して
みようとすれば良い、一滴ごとにという調子で
>>933 .935
まさしく同感です。少しづつそれが常態になればいい。やりがいのあることだと思います
>>934 同感です。人間、発言するときは無自覚に自己のドグマへの防衛機制が働き、他者攻撃に
走る。マインドフルにならなければ「愛語」で話せない。それを踏まえても、上の正法眼蔵の
一節は見習いたい
>>934 禅ではきちんと誓願を起こし、悟りに達するまで不退転の覚悟をもって行じる。
我も煩悩も最後には無くなる。
次スレですが、書き込み参加者に「マインドフルネスの実践者、または実践したいと思っている人」という要件をつけるのはどうでしょうか それでかなりすっきりすると思います。
悟りに執着していたり死後という未来を心配していたらマインドフルネスにならないので、そのへんを気にかけるなら別スレで話したらよい
*「死後のことはどうでもよい。落ち着いて幸福を感じて生きていきたい。それが人生の目的だ」と考える人々は、
それに相応しいプログラムを考える。そのプログラムを冥想だとするならば、「良い気持ちに達する実践」になるのです。
ですから、「冥想なら何でも宜しい。どんな冥想も同じ目的を目指しているのだ」というのは、正しくない考えです。
*ブッダのヴィパッサナー冥想以外、こころの煩悩を完全に無くす方法は無いのです。このポイントを明確に言わなくてはなりません。
こころの汚れが機能しない睡眠状態と、こころの汚れが残りなく消えた状態は、決して同じではないのです。
*せっかく修行の道に入って、こころの一時的な安らぎに達しても、解脱を目指さないひとは、また矛盾の道に迷いこんでしまうケースもあるのだ
http://www.j-theravada.net/howa/howa208.html >>937 躓いてると思ったらそう思ってると観るだけです
常に自分の心と身体ににいま生じてる思い、反応を観るだけです
わたしは心と身体に生じるものを観ているだけです
私だけではなく誰でもそうなのです
ただ心と身体が自分であるという錯覚がその上にかぶさっているためそれがわからなくなっているだけです
あなたもわたしの書き込みを見て心に判断が生じそれを書き込んだということを観ている(認識している)でしょう
自分とは認識されるものではなく認識する側でしかないということです
それをはっきりわかるために心と身体に生じるものをただ観ていくのです
認識されるもの(客体、心や身体やそこに生じるもの)は自分ではない 自分とはいつでも常に認識する者(観る者)だから 認識する者(ただの認識主体としての自分)はただ認識を続けているだけでそれは減ることも増すことも変化することもない それゆえ苦も悩みもない 認識されるものである心や身体という変化するものを自分だと錯覚しているのでその変化に苦や悩みを生じさせているだけ しかしその苦や悩みも心や身体に生じてる認識されるものであり、認識している(観ている)わたしとは全く関係ない それがわかるためにただ観ていく それが観瞑想
その観瞑想がそのままマインドフルネスだということだよね
そうです 仏教でいうとヴィパッサナーで欧米で広まるときにマインドフルネスと訳されたものですね
>>946 ヴィパッサナーとは違いますね。
ヴィパッサナーでは、身体、感覚、思考、意志、認識の五つについて、
無我であると観ます。
どこにも私という存在は無い、ゆえに生老病死が無くなり、四苦八苦が無くなる。
というのが仏教ですね。
>>949 そういうことを書いたつもりですが、違うことだとあなたが思ったならあなたは違うと判断したということでしょう
それだけでそれ以上言うことはありません
>>939 リンポチェ師というのは多分チベット密教でしょうか
オウムで迷惑かかったとか仰っていたのもリンポチェ師という方でしたが
体験的にも1分くらいの短い瞑想をひたすら繰り返すのが掴みやすいと思うんですよね
徐々に感情が静かで思考のおさまった瞬間が育ってくるというか、キャッチできるというか
毎回でなくても1分以内にそこに入るようになります
それだけで、ストレス、モンキーと離れつつある実感があります
二ヶ月くらいでかなり効果感じますよ
出来るようになったらそのうち安定して入れますから
カバットジンのやり方とは違うかもしれませんが
>>950 仏教的には認識も無常で変化しますし、苦であり無我ですから「わたし」ではありません。
あなたの主張とは違います。
>>952 それはあなたが無我ということを対象になるもののように思考しているからでしょう
無我は認識対象になりますか?
わたしは認識の対象にならない主体としてのわたしを言ったのです
主体やわたしという言葉が無我と相反するように感じて仏教教理と違うとあなたは言っているのでしょうが考えてみてください
認識の対象にならない主体を在ると言えますか?
説明のために主体やわたしという言葉を使っているだけでそれは無いものなのです
有と無での無ではありません、在るとも無いともいえないものです
なぜなら決して認識の対象とならないし言語で言い表されないものだからです
説明の便宜上主体やわたしと言っているだけなのです
そう、あの人は我と一体化したままなのに、頭の理解だけで、それがそのまま無我というものだと誤解しているように見える
>>953 >説明のために主体やわたしという言葉を使っているだけでそれは無いものなのです
>有と無での無ではありません、在るとも無いともいえないものです
結局認識の主体は無いんですか?有るでも無いでもないんですか?
>なぜなら決して認識の対象とならないし言語で言い表されないものだからです
>説明の便宜上主体やわたしと言っているだけなのです
言語で言い表せないのに「わたし」と言うんですか?
仏教では、認識は無常で常に変化しているから、実体は無い、苦である、空である、ゆえに無我である、
とシンプルに考えますが。
そこがわかってないから、悟りに執着したり死後という先のことを心配したりする
>>955 無我というより非我のほうが釈迦の仏説に近いということも言われてますよね
我が無いということではなく、あらゆることは我に非ず
そういう考えるとわかりやすいんじゃないでしょうか
客体にならない主体を在ると言えるか無いと言えるか在るとも無いとも表現するかはあなたが考えてください
わたしは在るとも無いとも言えないと言ったつもりです
仏教教理でいうと認識主体も最後には消えると言われています
涅槃は主客がなく認識されるものもするものもなく認識それ自体がないと言われるからです
ただこのことに関してはヴィパッサナーのマハーシ派やパオ派でも見解が分かれています
認識それ自体がない涅槃をどのように理解したのかと言う言語説明上の矛盾があるためです
ただそれは阿羅漢にでもならないとわからないことでしょうし、
それまでは認識されるものではない認識主体として観瞑想をつづけていいと思います
心身とそこに生じるものを客体として観るもの(認識主体)に徹するわけですから
>>957 仏説では認識の主体と客体を何と呼んでいますか?パーリ語では何ですか?
私の理解では認識はただの認識、主体も客体も無いと思いますが。
その無いはずの認識の主体を妄想する事を、有身見と言うのだと思いますよ。
>>958 瞑想するとき誰が瞑想するんですか?
智慧が生じるとき誰に智慧が生じるんですか?
涅槃に入ったとき誰が涅槃に入ったと言うんですか?
その誰というのを言語上どう言うかによると思いますよ
あなたは師から瞑想してくださいと言われたとき無我ですから瞑想できないと答えますか?
瞑想する主体がないから瞑想できないと答えますか?
ヴィパッサナーすることは瞑想する私(有身見)になるのでしませんと答えますか?
言いたいことは言ったのでこれで終わりにします
あなたはあなたで修行なさってください
>>960 瞑想するときはただ瞑想します。
私を妄想せずに瞑想します。
涅槃に入ったときは、ただ識が滅するだけです。誰もいません。
無我 非我の議論も一切無意味ですよ 理解が向こうからやってきて既にわかっている人は決して本当の意味では他人に説明できないとわかっている筈です まだ理解が向こうからやってきていない人は解説書を読んでもそれは徒労に終わると知っています 無我 非我は瞑想の先に続いているものです 先生 生徒で確認の意味で議論することはあるでしょうがそれ以外はエンターテイメントや娯楽以外の意味を持たないでしょう ですが娯楽のためでしたら相当面白い議題ですけどね もちろん観察をずーっと続けていればわかります 勇気 探究心があればそう長くはかからないでしょう
『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』(清浄道論Visuddhi Magga)
山下良道がいうところの、ピッチャー交代ができてない瞑想だよそれ
全然ちゃちゃ入れるつもりは無いけど 無常だから実体が無いゆえに無我ってのは一般人からみるとまったくの屁理屈だよね いろいろ状態は変わるけど有るときは有るんじゃん、そのときは無我じゃないじゃん、ってさ
そう、何もない(無我)という理屈で思考してしまうと交代するピッチャーなんていないことになる 山下さんがピッチャー交代という言い方をした理由を考えるべき もちろん交代するピッチャーなんていない ただピッチャーなんていなかったというピッチャーがいる(いるとかいないとかいう二元性でないところで、いる)
無我で何もないと言ってるわりには輪廻を語りたがる人でしょこの人 頭でばっか考えてないで本当に瞑想すればいいのに
>>967 ピッチャーの意味がよく分かりませんけどねw
預流果では実体のある私は無いと悟ります。
それ以降は変化している私のような流れがあるという微妙な錯覚、慢がありますが、
阿羅漢果でそれも無くなります。
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html ID:RjXLvGyb氏はコピペしてる文章が本当の意味では理解できていないでしょ
>>969 終わりにしたのにレスつけられても困るんですが
「実体のある私は無いと悟ります。」と誰が悟ったんですか?
無我が悟ったでも悟りが悟ったでも言い方はなんでもいいですが、悟ったという主体のような認識がそこにあるでしょう?
本当に何も無かったら「実体のある私は無いと悟ります。」とすらわからない、認識されないし、そのように言えないでしょう?
その誰が悟ったかということを無理やり言語にすると、無我が悟ったとか悟りが悟ったとかいう言い方もあるわけですが、
それを私は対象にならないただの認識主体としてのわたしという言い方したまでです
山下さんのピッチャー交代も同じ意味だと私は理解しています
わたしに関わらずあなたはあなたの実践をどうぞなさってください
>>971 悟りは認識ではないですよ。
誰かが悟るわけではないです。
煩悩、妄想、邪見が無くなるだけです。
悟りの瞬間以降、現れなくなります。
>>972 自己に関する煩悩、妄想、邪見ね。全部じゃないよ。
私がいるという見解、私に関する妄想、私について悩んだり、苦しむことが無くなります。
預流果では。
そんなこと説明されなくても多分ID:tw3qi7nDさんはわかってるし そういうことを言っているんじゃない 知識にばっか執着してないで本当に瞑想しましょ ただし死にものぐるいだと難しいかもね
>>976 いちおう瞑想して確かめましたけどね。いろいろと。
>>978 真理を確かめようとする努力は必要ですよ。どうしても。
ギリギリまで努力して、限界を超えた後に、冷静になると悟ります。
盤珪禅師みたいに。
>>977 あなたにとって何が確かめられたんですか?
わかったことは?
コピペじゃなくてあなたが何を確かめてどういうことがわかったのか聞きたいです
>>980 普通に諸行無常、一切皆苦、諸法無我ですね。
確かめた事は普通に経典に書いてあるような事です。
>>971 ただ感情がある、ただ行動がある、という状態で
感覚として「私はいない」というようなのがある状態のことを言っているんだとしたら
>>946 の「認識する者(観る者)」という表現を使ってしまうと遠回りにならないか
という疑問はあります。
観察する者も因がそろって一時的に現れるもの
因が消えれば消えるものと注意しながらの説明も見たことありますし。
カルマは常に生成変化しながらここにあるけど、それは観察している自分自身(のようなもの)ではない これが知識や頭で考えたことでなく体験として理解できている境地がある(とする) それがわからないならわからないとわかるのがマインドフルネス わからないのにわかると言ってしまうと無間地獄 という例え話はどうか
>>981 それがわかったのならもう悟ってますね
おめでとうございます
マインドフルネスはそんな高級な次元を目指さなきゃならないものではないからこそ 現在普及してるわけです マインドフルネスやって仏教に興味持ち始める人だって多いでしょう 「悟り目指さないなら矛盾してるから意味無い」としていたら興味持たなかった人たちです その方たちにも近親憎悪的に攻撃してしまう マインドフルネスは仏教の下位概念だからね、と泰然としていられないものでしょうか? 悟った方からすれば矛盾だという けれども、マインドフルネスで気持ちが楽になって生きづらさが解消された ということがあるから企業も取り入れてるわけですよね 役に立ってますよね 世の中が全て矛盾なく見える境地は素晴らしいでしょうが それで沢山の矛盾を孕んだ先進国の現代社会を正していったら、スリランカ、タイ、チベット、ベトナムといったレベルの後進国になるのではないですか? 中国に侵略されてひどい目に合うかもしれません そこらへん中観的な見方が出来ないものでしょうか?
悟ってない人ほど他人や自分の外側のことが気になってしょうがないんでしょうなあ 悟り以前に性格が幼稚なんだろうけど
>>986 悟りに憧れているけど、いつまでたってもみえてこない。
それで八つ当たり。
>>986 いやー そうでもないんですよ 悟りといっても段階のようなものがあるので世の中に「関わりたい」という思いが結構残っていたりします
何かを認識していたい 生きているという実感を感じていたいという機能が根強く残っていたりします
これがなかなかしぶといんです 生きるのはかなり楽にはなりますが
>>909 このスレは荒れているのかな?
特段荒れているようにも見えないが
荒れてるってほど荒れてはないけど マインドフルネスのスレらしくないなあって感じ 書き込んでるときちゃんと気づけてる?って思っちゃう書き込みが多い
>>949 > どこにも私という存在は無い、ゆえに生老病死が無くなり、四苦八苦が無くなる。
無くなりません
意見交換より論破が目的になってるよね。目的もつなといいながら
前もテレビもパソコンも捨てたって言いながら自論を連投してる人いたけど ネットで主張を連投してたらテレビやパソコン捨てても意味ないじゃんって思った むしろテレビやパソコン見ながら気づいてたほうがよほどマシ
>>993 その分歩きスマホしていたら却って悪そう
毎日ボコボコにされてる禅の人また新スレにくるんだろうかね 禅だからボコボコにされてるんじゃなくて机上で考えた空想のやこ禅だからぼこられてる
ボディスキャンって好きじゃなかったんだけど昨日30分位やっただけでも効果を実感できた。これから毎日続けよう。
>>991 私の生老病死が無くなるって意味じゃないの?
この身体は死ぬけども、私の身体じゃないから悲しまない。的な。
>>985 先進国、後進国って言い方俺は嫌い。
経済についてならいいけど、精神や幸せについては、どっちが進んでて、どっちが後退してんだか。
盤珪禅師みたいに、なんて言ってると結局
>>932 になるわけで
>>936 に転換しないと瞑想にならない
それが結局ほとけに会ったらほとけを殺せということなのでは…
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read.cgi ver 07.7.23 2024/12/25 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる
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