最近、豊臣秀吉と徳川家康の人気がなさすぎじゃないだろうか
昭和の時代は秀吉や家康の方が信長よりも人気があった
しかし今や、信長の人気は歴史上の人物の中で圧倒的一位
ゲーム、漫画、アニメ、小説など様々なメディアミックスにより、
もはや織田信長を見ない日はない
一方で秀吉・家康の人気は落ちる一方
戦国武将だけのランキングでも6位とか7位が定番になりつつある
どうしてこうなった
テレ朝の戦国武将総選挙の結果
1位:織田信長
2位:上杉謙信
3位:伊達政宗
4位:真田幸村
5位:徳川家康
6位:豊臣秀吉
7位:武田信玄
8位:黒田官兵衛
9位:明智光秀
10位:石田三成
秀吉は人気がなくなったけれども家康は昔よりも人気になったやろ
秀吉は戦前の人気が異常でしたからね
戦後秀吉の史実研究が進むと織田家からの簒奪、騙まし討ち、家康や毛利への妥協など
秀次切腹、側室皆殺しや千利休切腹、大崎一揆や梅北一揆や肥後一揆に代表される
反乱など褒められない点が数多く出てきて評価が落ちていったと思いますが
秀吉さんって百姓でも農民でもなんでもなく普通に領主出身でしょうし
織田家でなりあがれた理由も「尾張に土地持っていたから」が大きいと思いますが。
丹羽とか佐久間とかと同じ理由。
今川家に仕官してもあっさり許されて織田家に仕えられるほど強い立場だったんだと思いますよ。
>1565年に尾張松倉城主(現在の岐阜県各務原市)坪内利定への知行安堵の書状に秀吉の名前が見られるのが最初のようです。
秀吉さんの織田家での初出の一次資料はこれですし「小物として仕えた」という史料もない
前田や佐久間に及ばないものの下層では絶対にない
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。
なぜか研究者からはこの書状が無視されるんだけど、貧農を織田が雇うかというと
能力主義的人材登用なんて信長はまったくしておらず、光秀も名家だし滝川も親は城主だし
柴田も、前田も丹羽も、佐々も浅野も佐久間も池田もそうなのに秀吉だけが都合よく尾張の領主連合から外れてるかというとそうではないだろうと
そもそも、もし外れてるとしたら流石に本能寺の変後にスムーズに天下取れない
秀吉が人気がなくなったのは老害化するからだと思う
かつて、高度経済成長期の頃は、
実家から1人飛び出して、出世していき最後に武家の頂点に立つという流れが
田舎から上京してきた若者たちにウケたんだろうけど
今はそこの部分よりも、天下統一した後に老害化した部分がクローズアップされている
みんな老害嫌いだから、秀吉へのヘイトが溜まっていって人気がなくなってしまったのだろう
実家から飛び出したのも義父との関係が悪いからですし、
信長の下を勝手に出奔してそれでも受け入れてもらってるわけですから
流石に小物身分には落とされたみたいですが、ずいぶん高い立場だなぁと
>秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し
子供のころ義父との折り合いが悪かったので
孤立して信長に仕えましたと書状があるが
いくらなんでも当時大大名の織田信長に小物といえど苗字を持たない身分が
簡単に仕えられるわけないと思われるが
調べれば調べるほど貧農説が否定されるのが秀吉の特徴
将軍警護衆につけられるほどの人物の秀吉さんの何が貧農なのでしょう
いずれにせよ秀吉なんて調べれば調べるほどサイコパス以外に人気が出ない人物ですし
家康は朱子学導入がマイナスだったかなぁと
信長は女キャラにしていいみたいな風潮があるから馴染みやすいんでしょ
猿と狸やからな
イケメン枠じゃないと人気なんてそんなもん
>>2
一番の大きな理由は、日本人が以下のことに気づいたからだろ。
信長なくして秀吉なし、信長と秀吉なくして家康なし。
要するに、信長はパイオニア(起業者)として人気があるわけだ。
最も、3人とも出来なかった重要案件もあるけどね。銅銭発行だ。 >>19
それは間違いない
信長がいなければ秀吉はただの農民、良くて侍大将止まりだっただろうし
家康は今川の家老で終わっただろう
ただ、信長の事業を秀吉家康が引き継いでくれたからこそ、
信長が歴史に残ったという部分もある
一時的に天下取ってもそれを維持できず、
水泡に帰してしまった人物は結構いるけど、
だいたい悲惨な評価じゃん
木曽義仲とか、中華だと符堅とか あんまり語られないけど秀次事件ってのは
数少ない親族衆や尾張土豪衆を皆殺しにし地盤崩壊をしてしまってる
秀吉の強みってのは木下氏時代から培った尾張の土豪ネットワークであって、
秀吉が織田家中で簡単に出世できたのも
親の代からの織田の尾張譜代だったからなんだよね。
本能事後に織田をあっさり乗っ取れたのも木下氏からの縁が大きい。
本当に貧農とか姓名を持たない身分だったらいかに秀吉が有能でも乗っ取りは不可能だからね。
秀次事件は父の尾張と先祖の近江のどちらかの選択であって関ヶ原で近江閥が崩壊した結果あっさり乗っ取られる事態になってしまった。
ヒデキチは尾張時代からの譜代の家臣も追放したり殺害したりしてしまってる
自分で自分の首を締めるどうしょうもねえやつ
加藤清正も福島正則もヒデキチを信用してなかっただろう
もうこの際だからもっと深ぁ〜いところ言っちまおう
史料に残る3者の違い
信長「一人扶翼の功をはかり、万邦鎮撫の徳を敷かす、これ帝の重臣、中興の良士なり」
秀吉「親王が早世したのは秀吉のせいだ」
家康「天皇を軟禁している」
現代人も多くは朝廷好きだし、
3人中では信長だけが朝廷守ったってこと、何となくでも知ってる人が多いんだろ?
で、朝廷も嫌い秀吉も嫌いの人は、家康や江戸時代だけやたら持ち上げる、例えばマスコミw
逆だろ
世間には朝廷にすら縛られない革命家としての信長像が流布してて、それが信長人気の理由の1つ
秀吉と家康の対比だと主家を根絶やしにしちゃったのが印象悪いよなぁ
>>25
実際は保守派だったと知ってホッとしたなんて言ってるノブ好きもいたよ
つまりマスコミや学界が拡散してる人物像なんて正直どうでもよく、
とにかく好きだって人たち一定数いるのよ、しかも大量 >>5
ちょっと昔までは人気どころか嫌われ者やったろ 家康は司馬遼太郎が嫌ってたからそれでだいぶ人気落として
直江兼続とか石田三成とか真田幸村とか西軍側が主人公のコンテンツが最近多いから
基本的に悪役としての出番になり、より人気がなくなってしまった
今の信長のポジションってオイシイよな
比叡山焼いても長島本願寺を根切りにしても
将軍追放しても朝廷を壊そうとしていたとの説が立てられても
「信長すげぇ!旧体制をぶっ壊した革命児だ!」
ってなるし、逆に信長は割と理知的で優しいという説が立てられても
あざとい、かわいいって言われるし
もう最近の秀吉なんて何しても
「なんや猿ゥ!黙れやサルゥ!」
しか言われねーぞ
>>29
その関ヶ原人気のおかげで家康も人気になって>>3のように上位になれたんやん 昔の家康ってそんなに不人気だったのか?
仮にも260年続いた江戸幕府の開祖だし山岡荘八の小説とかもあったし昔から普通に5〜6位くらいには入ってたんじゃないのか?
そのランキングで言うと信玄と幸村、秀吉と家康が入れ替わるくらいで
ジジイだけど家康は非常に不人気
高度成長期だと秀吉が圧倒的人気だった
山岡荘八の小説は不人気であまり知られていない家康の一生を知るという意味合いのものだったし
信長の野望が世に出るまでは戦国時代だけがこれほど人気じゃなかったと思う
家康は信長秀吉に比べたら武将としてより遥かに政治家としての業績が大きいからな
日本人に限らず大衆というのは基本晦渋な政治家をあまり評価しなくて武将とか軍人とかに流れる傾向がある
ドンパチの勝ち負けではっきりしててわかりやすいからな
政治家という観点から見たら家康は日本史上三本の指に入る傑物なんだが
あの司馬遼太郎もそこはわかってて頼朝家康大久保利通の3人を優れているが大衆に不人気な政治家として挙げている
他に挙げるとしたら北条義時なんかもそうかな
でも頼朝、大久保、義時が実際自分ではあんまり戦ってないのに対し
家康は政治家イメージでありながら日本史上トップクラスに戦争漬けの人生だったんだから
なんかそのへん損してる気がする
信長秀吉に比べると家康は自力でのし上がった感じがないんだよな
どちらかというと、周りに振り回されっぱなしというか
今川の人質になるかと思いきや親戚に裏切られ織田に売られ
今川の家臣として一生を終えるはずが、信長が桶狭間で義元を討ち取ってくれたことで独立でき
武田にボコボコにやられながらも、信長が長篠で武田を撃退してくれたおかげで生き延び
織田の一家臣になりそうだったところ、光秀が信長を討ち取ってくれたことで再独立&その後の混乱を突いて領土拡張
秀吉の家臣になったところ、北条の旧領を貰えて領土が一気に倍になり、豊臣政権トップの力を持つことに
肝心なところはいつも他力本願
関ヶ原も豊臣恩顧の大名が主力だったし、そもそも三成が挙兵しなければああはならなかったし
創作のように全部家康の計算通りではない
家康の場合、状況の変化に対して打った手が結果から見ると上手くいきすぎてしまうので、
なんか他力本願の様に見えてしまうところがあると思う
選択、判断間違えたら破滅の場面ばかり。
家康はよく凌げた、乗り越えたとしか思えん。
中国では山岡荘八の小説のヒット以来
家康の人気が高いとのこと
秀吉にしても家康にしても、人生山あり谷ありで面白いからね
秀吉はまさに成り上がりのストーリー、高度経済成長期の日本で人気があったのも頷ける
様々な苦難に耐えて耐えて耐えて、最後の最後で大逆転する家康の人生も熱い
なんだろうなー、現代には合わないのかなー
この2人のストーリーは
単純な話として生まれ変われるとして信長秀吉家康の誰になりたい?って質問の答えがすべてだと思うよ
信長選ばない人がいたとしても本能寺の変が嫌なだけでしょ
本能寺は回避可能としたら全員が信長だろな
誰も進んで小賢しいキモ猿や堅物の肥えた狸になりたくはない
シュッとしてエネルギッシュなイケメンに生まれてマッチョな武将たちと戯れたいでしょ
信長だけど、理由が全然違う。
信長みたいな上司には絶対に仕えたくないので、秀吉はない。
家康みたいな逆境に次ぐ逆境もゴメン被りたい。
>>43
誰にもなりたくねーよ
信長の人生なんて常人だと尾張統一までに死ぬぞ まぁ、その3人だったら信長でしょ。
周囲の制約を最も受けない立場だし。
現代の労働者階層の多くが憧れるのは、そこが理由ではないかと。
ちなみに、経営者層で最も人気があるのは、圧倒的に家康なんだよね。
これはもう中間管理職以下では、絶定理解できないらしい。
>周囲の制約を最も受けない立場
物心ついたスタートライン時点の話ね。
昭和40年代生まれの愛知のじじいだが、子供の頃から信長が圧倒的に人気あったけどなぁ。秀吉、家康も人気あった。
生きていれば偉い順だね。
幸村などは歴史においてほぼ影響ないが真田十勇士の物語でかっこいいので人気あった。信玄、謙信、政宗、幸村などの脇役キャラが人気あるのは、調査母体が歴史ドラマ見る層だよね?歴史なんてまったく興味のない層がわんさかいるから。三英傑以外知らないなんてのもいるわけよ。
歴史に興味のない層も含めた投票なら今も昔も三英傑がトップ3だと思うよ。
俺の認識では昭和時代でも1信長 2秀吉 3家康というイメージ。
調査母体によって違うと思うな。
>>7
秀吉の出自が領主??ソースはなんでしようか?あるなら読んでみたいです。
領主というからには最低でも惣村のトップレベルのことを言ってるのでしょうが。
寡聞にしてそういう話は一切ありません。
愛知は保守的な地域で、平安から鎌倉後期の主に源氏由来の開発領主が開墾した地域が多いです。通婚も同レベルの家と行います。そういう家は今でも地域の名家として残っており、秀吉クラスの縁者なら誇りを持って語り継ぎます。
秀吉領主説はあまりに驚きました。
斎藤道三や伊勢宗瑞が下賎からの成り上がりではなかったことが証明され、そこから憶測しているのでは?
二次資料レベルでも秀吉が卑賤の出自だったということは記述されているし、秀吉自身もそう言っています。フロイスの日本史にもそう書かれてる。
秀吉の生まれた中村という所は昔からいわゆるB民の巣窟で治安も雰囲気も最悪ですし。
私自身は秀吉が非常民であった可能性が地域から見ても一番高いと思ってます。
非常民の生きる知恵が最大限に発揮された時代ですし。
戦国時代は賤民差別が極端に少なくなった時代だったので成り上がれたけど、江戸時代なら就業どころか、火まで別にしないといけません。
近隣の荒子の前田や奥村あたりの地主とはまったく違うと思います。 >秀吉自身もそう言っています。
史料出してほしいのですが
>私自身は秀吉が非常民であった可能性が地域から見ても一番高いと思ってます。
非常民が関氏の娘を取れますか?不可能だと思いますが
>二次資料レベルでも秀吉が卑賤の出自だったということは記述されているし
逸話集に過ぎない太閤記や祖父物語を二次史料とは言わないと思いますが
>通婚も同レベルの家と行います
それなら関氏の娘をとっている、
妹は城主時代の加藤に嫁いでいる
姉の旦那の妹の旦那は普通に城主である
などと同レベルであることは事実ですが
>>12
当時の信長は財力では勝れていましたが、足利の家来の斯波の家来の織田大和守家の三家老の家系で、大大名どころか、尾張下四郡の織田家の三奉行の家なんです。陪臣どころか陪々臣の家系なんです。
信長は特殊技能を持つ被差別民を保護し、深い交わりをした特異な人です。清洲あたりは今でも有名な巨大部落がありますが、起源は信長です。秀吉はそのような軍事開発の過程で知り合った有能な非常民であったと考えるのが蓋然性高いです。 >秀吉の生まれた中村という所は昔からいわゆるB民の巣窟で治安も雰囲気も最悪ですし。
それなら普通に小出氏だとかは中村出身で秀吉の叔母が正室ですが秀吉と似たような環境にもかかわらず
普通に信秀家臣なんじゃ
>51
それろくに史料が無いんじゃ
織田弾性家は信秀時代から尾張唯一の実力者になっており登用してるのもろくに農民だの
商人だの見られないのに秀吉だけは特殊って不可思議でしょうに
竹阿弥が水野氏出身という説もあり秀吉が羽柴に姓を変えるまで水野氏の家紋を使ってることや
慶長小判にも水野氏の家紋が使われてたり説得力はありますね
信秀直臣が、婿入りする家系の何が非常民なのでしょう
>>50
史料ですか。フロイスの日本史に書いてありますよね。
非常民との通婚は普通はありえません。
ですが、戦乱の時期は非常民への差別は極端に減り、非常民の実力によっては領主レベルの力を持つ者もあり、実力主義によってこういった勢力を取り込む者があったことも事実です。
観阿弥や世阿弥などは信長どころか将軍義政が取り立ててますし。
源平時代にも非常民の白拍子を妾にするのが流行りました。源氏の御曹司なんかも頼朝以外はそういう出自が多いですよね。
秀吉の継父である竹阿弥という名も非常民である傍証だと思います。さらに役職が織田家同朋衆であったことからも、非常民であったと思うのです。
ところで関氏も加藤氏が、小者時代の秀吉と縁戚関係にあったのですか?それはまったく知りませんでした。そうだとすると興味深いです。
ただ、関氏や加藤氏の出自は優れていますが、刀鍛冶や陶工のような非常民と非常に密接です。
このあたりは通常の常識とは分けて考えるべきです。
秀吉領主説、おもしろいので質問に答えて欲しかったです。 >竹阿弥
別に思いませんね、単なる坊さんの名前としか
>関氏や加藤氏の出自は優れていますが、刀鍛冶や陶工のような非常民と非常に密接です。
>このあたりは通常の常識とは分けて考えるべきです。
いやいや、城主時代の加藤家に娘を嫁がせてるのに、分けて考えるべきってのは無理があると思いますよ
>>55
フロイスの日本史は明智ですら出自関係は足軽出身だとしており信憑性にかけるのでは?
とにかく、卑賤の身=非常民ではなくニュアンス的には「名家ではない、土豪上がりである」とみなしてもいいと思いますよ
天下の名家に埋もれてる土豪なんて卑賤に見えるでしょうし
フロイスがそこらへんの事情を知るわけが無いわけで卑賤と書いたのでしょうね >>53
返信の意味がよくわからないのですが、清洲織田家が実力主義だったことは確かです。武装の為に、清洲に多く皮革専門業者を招き入れるのですから凄いことです。
家臣にするくらい平気な人なのでしよう。一般的な常識に従うなら下克上はしませんので。 信長が実力主義であったことは事実ですってそんなこと無いと思いますけどね、
佐久間…信秀時代からの家老一族
柴田…信秀時代からの重臣
丹羽…土豪
佐々…城主の息子
前田…城主の息子
河尻…城主の息子
尾張の領主層ばかりを厚遇しており他国衆なんぞほとんど要職に就けてないのが実態です
>>56
加藤家ってどの加藤ですか?名前教えてください。ググってみます。加藤は岐阜尾張の名族で多いのです。知らない話なので教えてください。
同朋衆であれば当然出自は非常民と関わってくるでしょう。阿弥というのは脱賤民する非常民が時宗の出家者として御目見するためにつける名前ですので。 滝川…城主の息子
明智…城主一族、一説には城主の息子どころか明智城を治める立場だった
毛利…主家一族の息子
池田…城主の息子
信長家臣団には尾張、美濃領主衆が多く平民からの登用なんてろくにしてないのが実態で
どちらかというと他国衆を要職に就けているなんてことほぼないですね
美濃だって道三との伝手も大きいのだろうし
いずれにせよ
妹が同じ中村出身のの織田家臣の小出氏に嫁いで
姉が差別層に嫁ぐのですか、
明らかに非現実的だとしか
実力主義というなら平民よりも武士の家に生まれて武士の教育を受けている人間を使うわ
>>55
1RPn+isyです。PCから失礼します。
確かに室町幕府の公文書の役職表に、足軽 明智という名が残っていることが分かりました。
このことについては私も非常に驚いて、室町幕府の職制を調べたことがあります。
この足軽という役職は、私たちが通常イメージする足軽ではないんです。
もし私たちのイメージする足軽であれば公文書に名前が残ることもないはずです。
たとえば老中という言葉は幕府でも潘でも使いますが、その差は天地です。幕府老中は大名ですが、藩の老中には百石に満たない者もいます。
総代に率いられる足軽と、将軍に率いられる足軽とは身分がまったく違います。
将軍の直臣の中で最低というほどの意味で、最低とはいえ、山名、細川、斯波などと同じく直臣であることには違いありません。もっともお目見えの機会やら役職手当の差は天地ほどあるということではありますが。
山口組の若頭と、山口組五次団体の若頭くらいの差があるのでは?
すみません。墓参りに出かけるのでまた夜に返信しますねー! >代々美濃に住み、正家から十二代目の小次郎清信は、尾州犬山に住み、美濃の怪物斉藤山城守道三に仕え、因幡守と称していました。 一説には犬山城を預けられていたとのことです。
彼は祖父ですね
あとフロイスさんは卑しい家柄出と明智さんに書いてますね
ろくに信憑性が無い
>元は越前朝倉氏の家臣だったが、足利義教、義政に同朋衆として仕えて能阿弥と号し
そうとは限らないのでは
善阿弥という庭造りで名を成した河原者を重用した足利義政が、善阿弥の死後、銀閣寺(東山山荘)を造営し、
庭木の選定や収集に河原者を使っていたので、ひょっとすると庭のコーディネイト全体を河原者にまかせたのではないかとの推測はなりたつが、
史料上確たる証拠はない。善阿弥が生きていたら銀閣寺の庭造りを彼にまかせたことはまず間違いないだろうが、
善阿弥の死後作られた銀閣寺の庭園の作者はわからない。河原者が作ったことが確実なのは、むしろ禁裏(御所の内裏)のほうだ。
これは、1474年(文明6)あたりから、『言国卿記』などにたびたび出てくる(『京都の部落史』第3巻555頁など)。
また、室町文化のところで、河原者の庭作りとならんで登場するのが、観阿弥・世阿弥の能であるが、これを賤民芸の一種と見る傾向がある。
しかし、芸能史研究家の山路興造氏によれば、能は古代以来の猿楽の系譜を引くプロの芸能集団に属するものであり、
室町時代以降声聞師など賤民集団が演じた千秋万歳にみられる祝福芸とは別系統の芸能である(『翁の座』平凡社,1990年 17頁〜、『京都の部落史』第1巻115頁〜)。
能と庭造りを並列して、中世賤民の文化への貢献とひとくくりにするわけにはいかない。
彼の場合は何を言っても、「こうなのですよ(史料なし)」我伝引水をするだけなので終わりにしておいたほうがいいんじゃね?
少なくとも織田信長は実力主義的登用を全くしておらず美濃尾張の譜代領主だけを引き立てるだけの人生だったので
脱線の仕方の意味がよくわかりません。
史料がないと言うなら、秀吉の出自が領主だったという史料をどうぞ、と言いたい気はするけどね。
私はあくまで断定ではなく推測で言ってますから。秀吉が非常民だと決めつけているわけではありません。非常民にコネのある常民かもしれません。
美濃に信長の譜代領主なんてどこにいるんですか?外様オンリーですよね?
譜代どころか元は同格でしょう。
明智、滝川、秀吉など軍団長レベルでも譜代の方が少ないんじゃないですか。
あと加藤のリンクの意味もわかりません。なんですかこれ。尾藤家の家紋?謎なんですが。
尾張と美濃の加藤氏は鎌倉由来の加藤景廉系列の城主が主流だと思うのですが。藤原流の鎌倉武士集団を祖とするものです。土岐氏とは通婚がありますけどね。
城主時代の加藤とは誰ですか?そこを知りたいのですが。
何を言ってるのか
前田、佐々、佐久間、柴田、河尻はどう見ても軍団長なのですが、尾張譜代出身ですね
これに池田と丹羽を入れると尾張譜代が多くなってしまうのですが、
明智と滝川だけを持ち出すのは普通に捏造だと思われるのですが
失脚した人間でいいなら、佐久間信盛や原田も尾張の譜代出身になりますねー
それは信長の馬廻武将で軍団長の寄騎レベルでしょう・・・
一国領有してる人物が軍団長じゃないのか…
河尻さんは最後に甲斐を普通に領有しており、軍団長と看做してもいいのでは?
信長が能力主義的な登用って信長革命児論の影響でしょうね
信長革命持論なんてとっくに否定されてますが
信長の家臣団に出身が不明な人物もいるがそれは史料が残ってないだけで、町人出身だとはならんし、
美濃(斉藤道三の縁)、尾張の領主ばっかり要職に付け他国衆は騙まし討ち粛清ばっかりしてた信長さんが
能力主義的な登用してたなんて思えません。
どちらかというと地縁的、縁故的、悪いけど衆道的な縁ばっかの大名です。
甲斐を普通に領有って・・・普通じゃないでしょう。
一揆だらけで統治と言えるのか。
形の上で数か月そういう体裁をとったとしても無理があるでしょう。
甲斐に殺されに行っただけのような形ですよ・・・
少しでも年貢なり軍役なりを課して応じられたんですか?
軍団長と言えば常識的には、丹羽、柴田、佐久間、明智、羽柴と息子の信忠、信雄レベルだと思いますが。
前田、佐々、河尻などは与力武将で上司がいる状態ですので。
信長革命児論www
そんな影響うけてませんwwww
いやいやいやいや領有してるんだから、その理屈無理がありますって
本能寺の変後でさえ河尻さんは甲斐の領土にこだわってますし
いやいやいや無理ないでしょう。
織田の代官として出向いて、言うことなんか聞きませんよってじきに殺されちゃうわけで。
武田信玄&勝頼親子の暴政のせいで戦後混乱してただけで、知行地なんだから入れてもいいでしょうに
領土じゃないというなら河尻は甲斐にこだわりませんって
武田信玄&勝頼親子の暴政のせいって。暴論ですなぁ・・・
横からやけど
織田家から知行されたかどうかとその統治がうまくいかなかったって論点ずれてるやろ
統治がどんなにうまくなかろうが知行されたって点が本旨やろ
そしてもっというなら軍団長かどうかの話やろ、ならそこに論絞りなよ
もっと絞ると、信長が譜代家臣ばかりを使った保守運営をしたということなのでそこにしぼりましょう。
信長が京都に入って以降、行政官僚だった明智光秀・村井貞勝・松井友閑・武井夕庵・塙直政などのうち譜代がひとりでもいるでしょうか。
地縁的、縁故的、衆道的な縁ばっかというのは、佐々、河尻、前田ですね。
地縁、縁故的、衆道的な縁というのは当然信頼おけますので積極採用するでしょう。
ですが、それ以外にも多くの外様家臣をあげることができます。
>そんな貞勝は信長の父・信秀の代より織田家に仕えていたとみられています
父の代からなようですね
>塙直政
尾張の城主ですね
父が築城して城主までしている尾張の城主ですね
塙直政は縁故的な感じもあるのでまぁ譜代としてもいいかもしれませんが、他の武将は地縁的、縁故的、衆道的な縁のいずれにも属さない。これは能力主義と言えるのでは?
父の代から仕えてる村井さんが縁故的じゃないと言うのは…
明智氏は義父の実家の嫁の実家だから縁故的では…
もっといえば、惣村に影響力を持つ城主というのはその時点で能力がありますからね。
当然、積極的に登用するのは道理です。
守護大名であってもあまり影響力を持てずに衰微になった人が大勢いることは知っての通りです。
地縁では義父の斉藤道三からの縁で美濃も入れてるんでよろしく
一国譲り状とかあるし
村井貞勝の父も清州織田の家臣だったのですか?それは知りませんでした。
ですがそれも信頼に足る史料があるというよりは、そういう説があるんでしょう?
私にとっては、様々な武将たちが信長の譜代と言えるかどうかもよくわからない。
あなたの定義に従えば、おそらく私の先祖も信長譜代ということになるが、そういう認識はまったくありません。
そのときそのときの関係性で服従したり離れたりするのが当時の常識ですので。
江戸時代の譜代のようにはいかないと思うわけです。
そんなことを言いはじめたら信長は政略の鬼だから地縁だらけですな・・・
伊勢、近江、京都に至るありとあらゆるところが地縁です・・・
織田信長義父の斉藤道三について義龍に攻められて離散した義父の嫁の実家の人物の登用は縁故的だと言えると思いますけどね
信長は天文17年(1548)熱田の支配を信秀に委任されるが、同18年の熱田社に関する文書に貞勝の署名がみられる
地域に影響力を持ってる者を私は実力者と呼びます。
実力者を登用するのは別に革命持論でもなく、信長に限らず普通に行われていることでしょ。
惣村を牛耳る城主や、学問や政治のできる者、登用するでしょ。
地縁と言うのであれば、まったく影響力を持たない領国内の幼友達を登用して初めて地縁と言えるでしょう。
外様であろうと惣村に影響を持つ城主であれば当然登用するのは、信長に限らず一般的なやり方でしょう。
そうでなければ年貢や軍役を課せない。
>信長は天文17年(1548)熱田の支配を信秀に委任されるが、同18年の熱田社に関する文書に貞勝の署名がみられる
貞勝が信長にとって幼いころからの家臣であったことは知っています。貞勝の父についてはまったく知りません。情報あれば教えてください。
ほんとに実力主義なら佐久間じゃなくて筒井を本願寺攻めの対象にして欲しいと思うけどね
最後まで美濃尾張ばっかだった
実力主義と信用主義を同時に用いていると見れば良いでしょう。
さすがに付き合いの長い佐久間は筒井よりは信頼に足るのでは?
明智や秀吉なんかは完全に実力主義でしょう。
能力主義とか言うなら北陸軍団は柴田佐々佐久間前田じゃなくて神保、長、椎名とかにしてみろよ
それに佐久間は元々、筒井よりは格上の体でしょう?
佐久間が信長名代としてあの地域に進出したわけですもんね。
筒井にズバ抜けた才覚がない限りは当然佐久間の与力になるべき人事になると思います。
筒井はあの松永に勝って能力はあるんだからとっとと本願寺攻めを任すべきやな
いやいやいやいや、なぜそうなるwww
神保などをいきなり柴田などの上にするとか異常でしょ。それこそ異常でしょ・・・
筒井なら本願寺攻めで島左近を用いて本願寺を早期に落として
佐久間が折檻状を送られることも無かったな
いやいや松永とかそこまで信用したらバカでしょw
本願寺攻め任すとか無理でしょw
へたにそんな役目任せたら裏切るでしょ・・・
信用されるということはすごい実力ですよ。
島左近が本願寺落とせるかどうかは分からんけども、信長が島左近を信用すれば使ったかもしれんよね。
なんせ信長ものすごく猜疑心強いから無理でしょ
そうそう。だから使ってたんじゃないのかなぁ。
活躍しなくなったからクビなんじゃないのかなぁ
島左近なら聞こえがいいから100倍活躍してたな
ゲームみたいに家老にするべきだった
そう考えると石田ってすげーな
佐久間のような譜代と言える家臣をぶったぎっちゃうんだからやっぱり実力主義の面もあるんだと思うのね
歴史ってのは定義がほんと難しいだよ・・・
でもまあ実力主義ってからには力があるかどうかじゃないのかな
愚者でも影響力ある人もいれば、智者だが地位がないなど、どれも実力あるとみなしてよいのでは
実力主義や能力登用と言うのはとはそういうことなのね
例に出すと地元の大学の出身者ばっかな企業内の競走出されても外部にとっては
地縁、学閥に見えるでしょうし
実力主義かどうかは、能力がない奴が上役にいるかどうかだよ。
そういうのが上にいた場合、なぜ上にいるのかという事になる。
年功序列なのか、学閥なのか、コネなのか。
俺の会社は、実力主義ではないと言える。
じゃなかったw
そういう意味で、信長は概ね実力主義と言っていいのでは?
軍団長クラスで無能はいないでしょ。
折檻状送られた佐久間さんや追放された林さんが信長から見て無能じゃないのか
それを我慢して30年使う信長さんっていったい
仰るとおりで、『信長から見て』ですね。
絶対的に無能なのか、相対的なのかを検証して初めて正解が出るかと。
両者は言われるほど無能ですかね?
より優秀な人材が確保出来る様になったので不要になった人材は切る、というのはよくある話ですね。
信長から見て無能なら織田家的には無能じゃないか
折檻状には三方ヶ原の戦いだとか朝倉戦の追撃のことまで書かれてるからそこら辺で切れよ
黒田さんを重用すればよかったんじゃね?当時から武名が高かったでしょうに
結局どの家でも地縁であれ血筋であれ能力であれ主君あるいは他の家臣団から見て何かしらの有用性があるから重臣になれるんだし
そういう意味では戦国時代って全部どの家も実力主義ってことになるしこの議論無駄すぎない?
どんどんスレタイから離れていくし
それを言ったら、無能な社員を実力があるとして抜擢しても実力主義になりますよ。
一般的に実力主義とは、第三者が見ても公平公正に実力が評価された人事体系を指しますね。
佐久間林は単純に派閥がでかくなりすぎたから粛清されただけじゃねーの
ずっと我慢させてた佐久間さんは無能じゃないとか
佐久間さんは織田家で権力持ち過ぎてこれ以上権力を持つと持て余してしまい
信孝や信忠などの織田家親族衆に権力を集めたかった信長さんの邪魔になってしまうので
言いがかり付けて追放したと思うのですが、世間ではなあなあな体制が続いていたと思われてるわけであって
黒田さんの方がどう見ても佐久間さんより実力が高いじゃん
当時から見てでさえ。
ちゃんと重用してれば別所に捕まらずに本願寺も北陸も平定できてたはず
少なくとも佐久間盛政や前田よりずーっとずーっと使えたはずだ
言いたいことはわかりますが、ゲームではないので、もうすこじ現実的に考察してみてはいかが?
黒田も小身から取り立てられ感激して忠誠マックスだろうし、鬼謀がバンバン決まりますよ
息子も結果的には有能だから問題なし
>>122
その「無能な」とか「第三者から見ても」とか「公平公正に」とか
全てが結局主観だから結論が出ないんだよ
少なくともこのスレで延々議論する話題じゃない 織田家はベンチャー企業だから中途採用だらけ
森可成、滝川一益、村井貞勝みたいな古くから仕えている面々でも他所からやってきた
林や柴田も一度信長から離れて信勝に付いていたし
元の勢力地盤が弱くて、一気に拡大するとどうしてもこうなる
というかせざるをえなくなる
結果的に超実力主義になっただけで、信長が実力主義を目指していたのかはわからん
実力主義に近いことしてたのが秀吉だけど、
蒲生を抜擢した後に、息子の代には徳川との婚姻があるとはいえ領地を削減してるし
粛清だろうが丹羽にもそうしておる。
武名が高かった上杉景勝もその後、会津に入ってるし織田派閥だからってのにもこだわっていない。
この秀吉の人事は信長から見て進歩的だといわれてる理由のひとつにもなりえる。
よく徳川幕府が賞賛される京都(関東)より遠くは大藩で政務を握る連中は小藩ってのも秀吉から始まったことで、
五大老制度ですら仕方なしに設定した面もある。
スレタイの脱線を戻す。
>>130
秀吉は親族衆・譜代が弱かったから
やらざるをえなかったんだろう
家康みたいに親藩譜代が充実してたらそうやってた 親藩、譜代がどうたらいうなら青木、小出なんとかさんだとか三輪なんとかさんだとかをもっと引き立てたらいいと思いますが、
そんなことしてないし実力主義的だったと思いますね
秀吉は親藩を秀次事件で思い切り自分でぶっ壊してるよ、
大和豊臣家も自分から潰してる
そして利家、家康を重用して乗っ取られたのが「あまりにも革新的で裏目に出た」のか
「愚行」だったのかは未だにわからない
戦国時代では南部家しかり斉藤家しかり、親子相克や一族同士の争いはよくあったことから抑制しようとしてたんじゃないかな?
冒険世界(明治42年1月1日発行)という雑誌の付録「全世界英雄番附」のランキング東洋編
1 豊臣秀吉
2 チンギスハン
3 徳川家康
4 西郷隆盛
5 北条時宗
6 始皇帝
7 諸葛孔明
8 源頼朝
9 伊達政宗
10 織田信長
11 源義経
12 毛利元就
13 フビライハン
14 上杉謙信
15 武田信玄
16 源為朝
17 加藤清正
18 楠木正成
19 北条早雲
20 坂上田村麻呂
(以下68位まで続く)
東洋といって日本人ばかりなのが草
格闘漫画のトーナメントかよ
教科書で出てくる偉人とりあえず書きだしたらこんな感じじゃね
戦前は楠木正成が人気あったと聞いたことがあるが、
18位なんだな
戦前だと山中鹿之助が大人気だったとよく聞くけど>>134には入ってないのか 一応21位以下も
21 劉邦
22 上杉景勝
23 平清盛
24 徳川光圀
25 前田利家
26 大石内蔵助
27 源義家
28 黒田長政
29 帖木兒(ティムール)
30 小早川隆景
31 加藤嘉明
32 蒲生氏郷
33 本多忠勝
34 藤原鎌足
35 項羽
36 石田三成
37 孟嘗君
38 山鹿素行
39 岳飛
40 真田幸村
41 関羽
42 新田義貞
43 張良
44 佐々成政
45 曹操
46 吉田松陰
47 李鴻章
48 北条泰時
49 鄭成功
50 井伊直政
51 劉備
52 木村重成
53 佐久間象山
54 明智光秀
55 島津久光
56 高杉晋作
57 足利尊氏
58 坂本龍馬
59 明智秀満
60 畠山重忠
61 文天祥
62 木曽義仲
63 山中鹿之助
64 韓信
65 酒井忠次
66 吉川元春
67 後藤又兵衛
68 由井正雪
全体的に人選が渋いなー
加藤嘉明とか孟嘗君とか今だと絶対ランキングに入らんぞ
謙信・信玄の人気者セットより元就が上なのが興味深い
長州閥の影響か
>>147
この前の戦国武将総選挙でも11位だったし
普遍的な人気があるのでは 室町幕府の人物は本当に人気ねーんだな
尊氏なんて江戸時代も戦前も戦後もずーっと人気ないでしょ
下手したら高師直の方が悪役として人気あったかもしれん
なぜか忠臣蔵では高師直が吉良上野介の役をやらされてたし
見立番付っていうのかこういうの
検索したら料理や温泉やらいろいろあるんだな
秀吉子飼いだと清正・黒田長政・加藤嘉明・三成か
三成が幸村より上位なのが驚き
今なら半兵衛・官兵衛が入りそうだけど
徳川も四天王は榊原以外はいるな
加藤清正と関羽がいて、福島正則と張飛がいないのは偶然じゃないんだろうな。
>>152
張飛は中国では人気あるらしいけど
日本だと粗暴なキャラは人気でないよね 文天祥て、船遂に覆る、ここに南宋滅亡すの人だっけ?
北宋初代より人気あったのか
>明治29年に出版された高額納税者番付『日本紳士録』によれば、
>当時の大富豪には旧大名家の当主の名前が多く挙がっているが、
>その中でも最も裕福であったのは、旧長州藩主の毛利元徳であった。
らしい
信長は人気あるけど実際の実力だと、どうしても秀吉に劣ってしまう
せやな
秀吉はトップとしてのスタートラインが丸々信長からのもらい物で
地力で元手築く実力があるのか未知数だから比較のしようがない
>>38
> 状況の変化に対して打った手が結果から見ると上手くいきすぎてしまうので、
初陣のピンチの時から頭を使って成功させたのに
一揆側を許してあげたから三方ヶ原のピンチも
一揆側だった人たちが家康を守る為に命を落とした経緯もあるのに
今までのピンチを乗り越えてきたのが運とか他力本願にされるとか・・・ >>165
まぁそうだけど、三方ヶ原の戦いで徳川家が滅亡せずに済んだのは信玄が病死したからだよね
信長の運か家康の運かはわからんが、天に愛されていたことは間違いない >>30
宗教自体嫌われてるから
そりゃ死ねば天国逃げれば地獄とか言ってる信者なんて誰も擁護しないよ
坊主が女色や酒色に耽ってれば尚更
どちかと言えば完全に壊滅させとけよと思ってんじゃね? >>32
家康って山岡の小説で凄い人気になった時期あったよ
何処の企業の社長もアホみたいに家康持ち上げて
会社員の愛読書みたいな雰囲気あった
今でもあの小説に出てくる事柄を信じてるじぃさん多い 実際、家康は日本史上の偉人で五指に入るほどスゲーけどな。
家康は何から何まで全てパクリ、独創性皆無
死後への備えだけが秀逸
三方ヶ原なんて明らかに桶狭間のパクリ
でも世の中ってパクリ上手がいいとこ持っていくんだよな
ぱくりはぱくりでも、どのタイミングでパクリネタを使うかの決断は大事だよ
>>166
桶狭間もたまたま兵力が分散したタイミングで今川本陣が手薄&暴風雨がなきゃ、ああも上手くいかんかった
本能寺もたまたま信長と信忠の周囲がガラ空きだったので、光秀がグラッときちゃったのが最大の要因ともいえるわけだし
たまたま天正地震が起きてなきゃ秀吉が家康滅ぼすことが出来てたかもしれんかった
なんつーか結局、三英傑達の運命も多分に偶然の歯車に支配されてるよな。
思わぬところで勝ちを拾い、僥倖となり、その逆もあり。
彼等が疑いなく才覚がある人間達だったのは間違いないけど、
その彼等もあの結果を全部当初から頭に描き意図して手繰り寄せたというわけじゃない。 家康はその影響が強いってだけだな
笑えるくらい運が有り過ぎ
無いのは家族運位か
運の良さでいったら信長かと
・たまたま三好長慶が死んで畿内の政情が不安定となっていた
・斎藤龍興が死んで美濃を攻略(調略)できた
・足利義昭が頼ってきて上洛の大義名分
・東の武田信玄、上杉謙信がいいタイミングで死んでくれて領土拡大ができた
家康は長生きと子沢山くらいが運で後は自身の才覚でのし上がったイメージ
長生きと子沢山も健康オタクだったり経産婦ばっかり側室にしたりといった地味な努力の結果でもあるから…
っていうか子沢山で言えば50前であれだけ子供いた信長の方が凄い
足利義昭に関しては周辺大名だってだけでしょ
朝倉、六角、齋藤、若狭武田に声かけもしてるし
義元や信長の死には適わないな
運の良し悪しを間違えてる人が多い。
宝クジに当たったのは運がいい。
宝クジに当たった金を、運用で増やしたらそれは実力です。
>>180
イケメンを生かし逆玉に乗って跡を継げばそれは実力 実績は司馬炎>曹操だけど
人気、知名度、英雄視されてるのは曹操だからな
勢力を伸ばし強国に導いた太祖的なのは英雄視されるのはどこの国の話でも変わらんでしょ
司馬家は魏をクーデターで乗っ取ってるから統一した実績があっても豊臣家と同じで人気がない
人気でいったら太閤様は相当なものだと思うけど
歴オタには確かに人気あまりない
逆だろ
秀吉と家康は歴オタからは人気だけど一般人からは人気ないよ
秀吉は昔は人気あったけど、今は不人気な家康より更に不人気
家康はただの信長信者の律儀者だったがチャンスが回ってきたから一族の安泰を願って天下とった、という解釈もワンチャン成り立つからね
秀吉は何の擁護もできんなあ
日本版朱元璋かよって思う
信長は身内に優しいけど、秀吉家康は身内への仕打ちがひでーからなぁ
当時としては秀吉家康の方が主流な考え方だったのかもしれんけど、
今の時代だと秀吉家康が嫌われるのは仕方ない
>>188
靖難の役で孫が
息子の永楽帝にやられるな 信長は信勝を泣きながら切ったって感じがするのに
家康は信康や築山殿を冷酷に切り捨てた感しかないもんな
足利尊氏みたいな身内への甘さが見える要素は現代ウケに必須条項だろう
>>187
朱元璋は信長・秀吉・家康を足して割らずに更に猜疑心を強化した感じするわ >>191
裏切っても一度は許す
これホント重要だよな
ヤマト1では1度の失敗で即処刑だったのに
ヤマト3では3度目の失敗で処刑だもんな
裏切り・失敗に対して甘くなってるわ 司馬炎は皇帝になるまでは優秀だったけど
皇帝になったら思いっきり女色に耽って乱の原因に成り
滅亡を早めたから嫌われてんじゃね?
家康が嫌いなとこは自分で正室と嫡男惨殺しとてい人のせいにしてるとこが嫌い
家康好きも同様。信長のせいとか平気で嘘つくし。知能が低いだけかもしれんが
まぁ、それだけ正室と嫡男惨殺したのが心の傷として残ってるのかもしれんが
だったら離縁しとけ。バカ。お前の親も離婚してるだろと
秀吉も統一するまでは有能だったが統一後は老害化したのも同じだな
>>194
築山殿って実際今川と手切れした時に離縁した説の方が有力じゃね? 一次資料の家忠日記で御前様じゃなくて信康御母さまって呼ばれてるから、どこかのタイミングで離縁したか、夫婦仲が冷え過ぎて家臣から見て事実上の離縁状態だったかだろうな
個人的には後者かなと思う
家康の家臣って上司をなめる傾向強いな
そりゃ祖父も殺害するわけだ
忠義に厚い三河武士とか言いながら
面の皮の厚さは本当に半端ない
古参の尾藤神子田を簡単にクビにしたのもマイナス要素だよなあ秀吉は
晩年ばかり取り沙汰されているが信長死後から明らかにおかしいわ
昔は良く信長は残酷と言われていたけど、秀吉の方が残酷だよな
信長は自分が正しいと思ったらどんなこともやる
比叡山は焼き討ちするし、一向衆は根切りにする
単に悪人というより、常人にはできない領域
それに対して秀吉はリアルな残酷さがあるんだよな
信長はやられたら倍返し
秀吉はやられてなくても37564
ノブは戦国武将には珍しく優しいエピソードが結構あるけど、ヒデキチにはそういったものが一つもないのが凄い
秀吉愛用の鶴を逃がした庭師を許したエピソードや箸が足りずに怒った信長を宥めたエピソードとか普通にあります。
それ言ったら信長は原田一族を追放したりだとか林、佐久間を追放したりしてますからね
尾藤は暴言吐いたから仕方が無い
>>202
つか信長の場合、世間でも正邪分かってるけど神仏怖くて処断出来ない
ってのを実行 >>207
六角も本願寺焼き討ちしてたりするし
比叡山も何度となく焼き討ちされてると思うけど
信長の名前が有名なだけだと思う >>206
佐久間は偉そうに口ごたえしてもずっと使っていただろ
内心頭にきていたと思うがあのときの佐久間はそれなりに有能だったし
その後の本願寺攻めでの怠慢は弁解の余地無しでどうにもならん
与力ばかり酷使して自分は茶会三昧とか庇いきれんよ
それでもラストチャンス与えたのだから秀吉よりかなり甘い 関ケ原の前になんで重臣の鳥居元忠を死ぬとわかってわざわざ
涙の対面までして伏見に残してきたのか?
そもそもなぜ西軍が挙兵すると確信してたのか?
さらにさかのぼるとなぜ僅か10年足らずの間に関東を掌握できたのか
とか謎だらけで、徳川栄康って説明責任全く果たしてないからな。
だから読者にそっぽ向かれるのでは。
彼は読んでてちっとも面白くないのよ。
比叡山は麓をちょっと焼いただけ っていう説もあるけど
一向衆根切りはガチでやってたからなぁ
長島一向一揆で降伏許した後で鉄砲打ち掛けまくるのはマジで非道というか、
理屈として正しくても常人にはできない
趙兵を40万人生き埋めにした白起将軍と同じことやってる
あの中華でも40万人生き埋めはやりすぎと言われ、
合従軍組まれて、秦の侵攻はストップしてしまったからな
そう考えると、あれだけのことやっておいて普通に天下統一した信長はすげーわ
>>211
長島から学ぶのは、
信長騙して親族大量コロコロはやっちゃダメってことだな
降伏するが嘘だったとか何とか 教訓としちゃ「宗教にハマっちゃいかん」ってところじゃね
理屈とか損得とか一般的な価値観で行動原理が測れない会話のできない奴に敵認定されたら
そりゃ殺す以外に戦い終わらせる術は無くなる
佐久間が本願寺攻めたのは4年だけど、謀反起こした松永攻めたり
北陸防衛行ってたり天王寺で戦ってたり無能と言うのはひどいと思いますが
単に派閥がでかくなったから言いがかりを付けたのでしょう、
徳川家消さなかった豊臣は滅びましたし
>>214
戦国時代みたいなクソみたいな時代では宗教に縋らないとキツいだろ…
別に信長だって宗教全部を嫌っていたわけじゃないし、
自分に逆らうやつは許さんというシンプルな姿勢 >>213
第3次までに一向衆に殺された信長の親族って信興ぐらいじゃね
降伏を許すフリをして、安心して出てきた一向衆を根切りにしようとしたところ、
ブチ切れた一向衆に信長の親族をた大量にやられたわけだから
自業自得でしょう >>217
いやいや順序がですね逆
一向衆、武器隠し持って降伏のフリ→戦終了 と思ったら一向衆信長親族襲う(信広信成ら死亡)
→ブチ切れた信長、まだ砦に残ってた一揆衆を大量コロコロ 宗教家が降伏した振りなんて死んでOKだろ
死以外にないよ
宗教勢力潰してたのは武田信玄のイメージ
侵攻する先々で寺社の焼き討ちばっかやってる
信長の場合は武家寺社問わず懐柔から入って裏切られて敵対関係になるパターンばっかし
信長は比叡山焼き討ちの1年前にご丁寧な手紙送って1年間待ってる
むしろ本願寺がなぜあそこまで意固地になって信長に抵抗したのかが理解出来ん
伊勢長島と大坂は経済の要所だから退去しろと言われても抵抗するでしょ
>>221
信長の場合、なんでああまで裏切られるのかが不思議だな 初期の頃はともかく後半は明らかに信長に服従した方が安泰なのに色んな奴がアホみたいに裏切りまくるからな
まあ信長に裏切りたくなる何かがあるんだろうなとは思う
>>225,226
別に信長が特段裏切られやすいわけじゃないと思う
当時の豪族や寺社勢力は自分たちの権益を最優先にしているから、
それを邪魔するやつとは基本、戦うことになる
上杉VS北条の戦いの時なんて、
たった数年でどれだけ関東諸勢力が手のひらクルクルさせたと思っているんだ
どっちも100回は裏切られてるぞ
そういう時代だと考えないと 本願寺は織田より三好をとっただけじゃね?
対織田で三好は今1つパッとしなかったけど
もっとやれると思ったのでは?
戦果的には本願寺が一番あったかもしれないけど
それ故に逆に中々和睦出来なかったとか
>>227
長宗我部とか本当にどうする気だったのかいつも思う
四国全部なんて、どんな政権でも統一後まず間違いなく粛清されるだろうに >>227
それそれ、裏切られ件数で信長の上をいく人結構いるよな >>228
長宗我部は光秀や斉藤利三のヤバイ行動がなければ、
最初の約束通り四国全部もあり得たんじゃないか? 上杉謙信は裏切られてるイメージ強いけど越後の国人なので原因は何となくわかる
大熊とか本庄とか、景勝の代だと新発田とか
信長の場合は動機がよく分からないやつが多い
荒木とか明智とか、浅井もか
信長の場合これは仕方ない面があったかも知れないが外様を優遇し過ぎたからだろうな
佐久間と柴田以外の譜代はパッとしなかったし
あとは信玄や秀吉みたいな恐怖政治をやらなかったのもあると思う
秀吉なんてちょっとミスしたら尾藤みたいに即解雇だし
ビビリまくって謀反なんて起こす気もなくなる
森とか村井とか、昔からいる組でも外から来た人間だからな
正直、柴田とか1回裏切って弟に付いたような奴だし
譜代といっていいのか?
この時代の独立勢力はオセロみたいにクルクル所属を変えるから信長が裏切られすぎたというより
いつもの調子でやってたら予想以上に信長の勢力が強すぎて滅亡しちゃったというケースが多そう
だから別所長治とか荒木村重とかが向こう見ずなアホに見える
木曾義昌なんかは絶妙はタイミングで掌返してたな
柴田は弟付きだったのが寝返った形だから家としては譜代?個人としては外様?
信長付き家老だった林が寝返って平手が自死したから佐久間の功績はでかかった気がする
盛重は佐久間大学のほうが馴染み深いけど盛政の祖父(通称・久六)は別人なんだっけ
あの辺柴田と混じってよくわからない
柴田とは逆に信勝付きだったのが信長に味方した功績も混ざっているのか分からん
信長は上洛した時も当初は義昭のいち武将と見られてたくさいし
舐められてたんじゃないかな?
長い事戦い勝てないと思った毛利や上杉が生き残ってるとこ見ると
毛利も上杉も本能寺の頃はもう覚悟してたろうけど
本当の意味での覚悟が出来てなかった国人衆は滅んでいく
それでも浅井が朝倉に付いた意味は分からないけど
あの頃は義昭は朝倉派というより信長派だろうし
浅井が朝倉についたというより朝倉や武田が浅井についたイメージ
京極の件がそこまで腹立たしい(滅亡してでも抵抗する)と感じたんだろうか
浅井長政が裏切った理由は、明智光秀とならんで永遠に不明のままだろ
長政は六角も裏切ってるし単に不義理なだけかもしれんしな
まあ(信長と比較して)人気なさすぎって趣旨のスレだろうし
まあ伊達政宗や上杉謙信と比較しても良いけど(流石に真田幸村はジャンルが違いすぎて比較しづらい)
秀吉は晩年のイメージが悪いから人気ないんだろうけど家康はそもそも知名度のわりに経歴を知られてない気がする
家康...今川から独立して天下撮った人
こんくらいのざっくりしたイメージが一般的な印象
三河制圧、徳川改名、遠江侵攻、武田勝頼との攻防、天正壬午の乱で北条、上杉相手に領土拡大、関東移封後の統制
政治も軍事も超一流だと思うけど家康側の視点でかかれた作品とか有名なやつあまり思いつかない
徳川が軍事が超一流?
それって完全にお江戸史観だろ……
戦術ではなく戦略レベルの話ね
外交の成果も大半だろうけど本能寺後の混乱で甲斐、信濃に領土拡大していったのは事実なので
光秀は信長父子が僅かな共回りで京都に滞在して
自分はちょうど援軍で軍を動かしても大丈夫なタイミング
天の意思とか思い込んだのかも?
嘘か本当か愛宕神社でおみくじ3回引いたんだろ?
前にオレも川崎大師に初詣に行っておみくじ4回連続で引いたわ
3回連続で凶が来てさ。4回目は吉だったかな?なんか微妙だった
どこまで本当かは分からないけど、佐久間や林に対する讒言がバレたって話もあったな
そして、ちょうど良いタイミング
今しかない!って思い込むと人間は異常な行動に出るもんだよ
ましてや命かけた戦に明け暮れた時代の人間だ
信長はどこまでも人を信用したかったんやろね
戦略、知力、人権掌握術のどれをとっても家康は秀吉よりはるかに上
家康と秀吉のどっちの方が能力高いかなんてこのスレ的にはどうでもいいよ
能力じゃなくて人気を語るスレだし、しかもどっちも不人気って前提だし
信長は最後に本能寺という大ポカをやらかさなかったら能力面の評価はもっと上がってただろうけど、人気面では本能寺で最後劇的に死ぬことでかえって上がっている
義経なんかもそう
能力だけでは人気は計れないってこった
一昔前は信長は能力主義で先進的なんて言われていたけど最近の評価だと...?
重用するのは一門と
尾張の譜代ばかり(柴田、佐久間、林、川尻、池田、前田、佐々、木下...)
美濃の国衆は家臣化せず国衆のまま取り込んでるし、大和や越前など領国化せず内政についてはほぼ丸投げ状態
武田や上杉と比べて何か大きく違うかといえばそうでもなくなってる
秀吉や家康と比べると信長は全然古い体質側の評価になると思う
秀吉は織田家に仕えていた身分なので尾張の土豪出身ではないかという説があるよ
明智は濃姫の親族
滝川は出自が不明とされているけど池田恒興の従兄弟とされる説もある
いずれにしても尾張を掌握してから上洛後までほとんど家臣団の顔ぶれが変わっていない事からも、とても能力主義で登用していったと言えないと
明智については普通に縁者ですし、滝川も父親の代から仕えてると思いますよ
1555年には仕えてたのなら、1551年にはいたと思われるわけで
木下氏は譜代っていうか那古屋氏との関係が取りざたされてるね
木下の従属先は那古屋氏→織田氏でいいのではないかと、明らかに地元だし
高久に仲人してもらったりだとか
織田氏との関係は微妙だったということかと
中村元勝が出奔したときに、秀吉も出奔していて、中村郷と織田氏との間に対立があったみたい
信長からしてみれば父の代から仕えた一族だったので信用したのでしょうが
秀吉からしてみればどちらかというと恨みも大きかったのでしょう
それが本能寺後の簒奪に繋がると
林と柴田って譜代と言っていいのか?
元裏切り者だぞ、実際しばらくは冷や飯食ってたらしいし
前田も1回追放されてる出戻り組
個人的には、近江に城を貰った組は新参者枠だと思ってるんだが
光秀、秀吉、勝家、長秀、森可成…
柴田は信秀から信勝に付けられてたわけで裏切り者っていえるのかな
明智光秀...信長の縁者
木下秀吉...生駒家の吉乃が側室に入る際には既に仲介する程度の身分であった
(秀吉、秀長連名で生駒に年貢の徴収を指示する書状が残ってる)
柴田勝家...信秀時代から仕えているので譜代家臣だし林と並んで織田家の家老扱い
丹羽長秀...丹羽家は元々斯波氏の家臣の家柄だけど長秀は1550年代から信長の家臣
森可成...美濃の土岐氏に仕えていたけど後に信長に仕えて尾張統一に尽力、功績も上げている
光秀を除けば10年単位で仕えてる尾張派閥組といってよいかと
他に近江で城持ちだと中川重政(桶狭間以前からの信長家臣)と磯野員昌がいる
磯野は浅井家臣だったので完全に新参組かな
丹羽は元服して信長に仕えたのだから、親父は織田に仕えてたと見ていい
細川 重用されてない
筒井 重用されてない
蒲生 重用されてない
秀吉<<<家康www
秀吉ごときが家康さんに
勝てる見込みはないからwww
比叡山延暦寺 天台宗
ホンガンシ 浄土真宗
みんな酒くらい女抱き武装していた
>>263
細川は重用するもしないもない
お家柄が大変麗しいお方なので、信長が丁重に隠遁場所をご提供申し上げただけ 家康は藤原氏や清和源氏を自称してたりしてたよな
疑問なんだけど、皇族の子孫である源氏平氏の系統と皇族の子孫ではないが源氏平氏より古い名門である藤原氏の系統って、比べるならどちらの方がより高貴な系統なの?誰か教えてください。
源平藤橘って言われるくらいだからどれも名門なんだろうけど。
公家の世界では藤原氏>源氏>平氏だけど武士としてはやはり清和源氏が別格でしょ
頼朝公の血筋にいかに近いかが武家の棟梁の正統性の基準と言っていいし(まあそれも戦国時代には実力の方が重視されて血統も無いより有る方が良い程度だけど)
清和以外の源氏は知らん
ありがとう、公家は藤原氏優勢なんだね
武家は頼朝か、なるほど。
何よりも皇族の血が尊い、皇族の血が入ってる者が一番偉い、そんな感じかと思ってとが違うのかね
細川は長岡姓名乗ってたくらいだし家柄としての細川は重視されていなかったんじゃね
家康は家祖徳阿弥が新田氏系世良田源氏の得川(とくがわ)の出と称していたので、自信満々で得川に復姓と三河守就任を朝廷に要請
得川(とくがわ)姓なんてないよ得川(えがわ)姓ならあるけどと返され、先祖が詐欺師だったことが発覚
家臣に世良田源氏の三河守就任の前例がないと断られたと言い訳して、藤原氏系の徳川と間違えていたことにして三河守就任。
のちに、新田岩松家の家系図を書き換えて整合性をとった
家康は名家好きではなく、名家出身のつもりだった
今川家の教育環境を馬鹿にしてるのか
そこらの田舎大名じゃないんだそ
>>274
誰かと思ったら本郷和人氏か、然もありなんだな 公家としても武士としても神官としても物部が1番だろう
中臣は小さかった
葛城→蘇我