顔がヤバすぎて女の人生の楽しみとか一切味わえてなかったよね。
男ならブサイクでも女より許されてるからそれなら男として生まれた方がまだマシだった。
ファッションや化粧はもちろんのこと、子供の時の人気遊びとかママゴトとかしてないわ
美人で、素敵な人と結婚して子供にも恵まれ、経済的にも豊かな、女性として何一つ不幸なことがない人がいました。
なぜこんなに恵まれているのか?そう思える女性です。
そこで、エドガー・ケーシーがその女性の前世をリーディングしました。
なんと、その人の前世は娼婦だったのです。
家が貧しくて、家族を支えるために、娼婦をやらざるを得なかった。
他に何もできなかったのです。
毎回、見知らぬ人がお客さんで来るわけですが、彼女は誠心誠意、真心を尽くしました。
わずかな一時だけれども、せめて自分が相手をしている間は、その人を幸せにしてあげなきゃと思って、毎回、真心でお客さんに献身的に尽くしたらしい。
家が貧しくて、他には何もできないから、その仕事を通して人を幸せにしようと思いながら、お勤めをやっていたそうです。
これが、今の時代の援助交際のように、お金欲しさにやってるんだったら地獄に行きますが、彼女の場合は地獄には行かなかった。
そういう真剣な心でやっていたことが、結局、彼女の徳分となって、生まれ変わって来た時に、美貌に恵まれ、夫にも子供にも恵まれ、経済的にも恵まれる人生が待っていたのです。
これがエドガー・ケーシーのリーディングで出ていることです。
顔かたちの美醜、資産の多寡、寿命の長短、生まれの貴賎。
これらは全て、前世の行為の報いなのじゃ。
今「悪い結果」があるならば、過去のどこかに必ず「悪い原因」がある。
今「良い原因」をたくさん作るようにすれば、未来に必ず「良い結果」が現れる。
例えば農家の人がいたとして、春先に田んぼを耕すこともせず、田植えもせず、水もやらなかったとする。
さあ秋になって田んぼを見てみれば、落穂から生えた稲がちょろっとある程度で、ほとんど何の実りもない。
その時になってから大慌てで水をかけてみたところで、最早どうにもならないのは当たり前のことじゃ。
あげくに何もない田んぼを漁りまわっては、「ちょっとは米があるんじゃないか?」などとムチャな期待をかけておる。
なんでそこで「ああ、やるべきときにサボっていたから収穫が無かったんだ・・・」と気づいて、次の年はそうならないようにしようとしないかなぁ・・・
お経の中には、「運命は変えられない」とも、「運命は変えられる」とも書かれておる。
「仏も人の運命には手出しできない」ともな。
わけがわからんか?
たとえばある人が物事の道理をちゃんと理解して反省し、しっかりと努力を続けたならば、どんなに重い運命であったとしても、必ず好転させることができるじゃろう。
しかし、俗物根性まるだしで、「ああ、金がもうかりたい!」とか「長生きしたい!」とかいうレベルのお祈りを繰り返すばかりでは、何もならないことは言うまでもない。
ブッダと同時代の名医であるジーワカは、あらゆる病気を治すことができたのじゃが、病気そのものの発生を抑えることはできなかった。
とはいえ、患者はジーワカの言うとおりにしておれば、確実に病気の苦しみから逃れることができたのじゃ。
ブッダもまた、人々が数々の「業」を作ることをやめさせることはできなかったが、そこから発生する苦しみの解消方法を教授することはできたのじゃ。
ブッダは現在・過去・未来におけるあらゆる現象の因果関係を完全に見極めておられた。
当然、人々に苦しみが発生するのは、そいつらの心に「反省」や「思いやり」が欠けているからだということもな。
だから、「オマエが貧乏なのは、前世でケチンボだったからだ!」とか、「オマエの身分が卑しいのは、前世で高慢だったからだ!」とか、
「殺生したから短命」とか、「やりたい放題だったからブサイク」とかの衝撃的な例え話を叩きつけることで、人々の自省を促したのじゃよ。
彼の言うことをきいてマジメに努力するならば、「過去の業」なんかに振り回されることなく、自分で自分の運命を切り開いていくことができるようになることは疑いなしじゃ。
発達障害気味でせっかく仲良くしてくれそうな人がいても会話が噛み合わなかったり鈍臭すぎてイラつかれたりで最終的には嫌われてきた
仕事ももちろんできない
彼氏が出来ないのも、容姿もあるだろうけどそれ以前に人として出来損ない過ぎて女として見るまでに至らないんだと思う
私が男性見るときだっていかにも危なそうな障害者だったらとりあえず近寄りたくない